5 東部方面本部捜査課 班長今井耕平
今井耕平は私にA四サイズのペーパー一枚を渡した。
そのペーパーの表題には、224号線交通事故関係者と書かれてある。
「身許が判明しました。林の中の車の方ですが、夫婦と乳児です。夫の名前は青木準、三十七歳。札幌で飲食店を経営しています。妻の名前は百合、二十八歳です。乳児は、状況から考えて、二人の子だと考えられます。そうだとしますと、その子の名前はここあ、生後六か月です」
ペーパーには、漢字で、心愛と記されている。
「ご夫婦は、亡くなられています。夫の母親と連絡がつきまして、間もなく本部に来られるとのことです。戸田警視、心愛ちゃんは拉致されたということでよろしいですね」
「はい」
「もう一台の車の方ですが。こちらは、母親とその娘と思われます。母親の名前は、篠原さやか、二十八歳。乳児の名はヒナ、生後五か月です」
ヒナの名は陽菜と書かれてある。
「夫の名は守、三十一歳です。連絡を取っていますが、まだ取れていません」
二十台の女、三十代の男、五十代の男、三人が走ってきて、今井の後ろに立った。
「私の班のメンバーです」今井は振り返らず、私を見つめて言った。
五十代の男は、川口ですと頭を下げると、続いて三十代の男は草野、二十代の女は竹下です、とそれぞれ自分の名を名乗った。
「それでは、お願いしてよろしいですか」
そう言って、今井は林の中から引き上げた車に向かって歩きだした。彼の部下三人も彼に続く。
「あちらの車からいきましょう」私は彼の背中に声を掛けた。
「昨夜は、あの車から先に見に行きましたので」
大破した車の運転席のドアは、歪んで下に傾いている。
今井は後部座席を覗き込んだ。
「この車にも、チャイルドシートが付いていますね」そう言って、今井は私を振り返った。
「乳児、ひなちゃんはどんな状態でしたか」
「泣いていました」
「それで、どうされました」
今井は私が説明する前に、質問してくる。事情聴取されているかのようだ。
「乳児を抱き上げ、自分の車に運び、後部座席に寝かせました」
「何故、運んだのですか」
「運転席の女の人に、あの子を匿ってくれ、と頼まれたのです」
「そうでしたか。この車は追われていたか、何者かに狙われていたんですね」
「そういうことに、なりますね」
私は素直に相槌を打った。
「他に、何か気になったことがありましたか」
今井は私の顔を覗き込むようにして尋ねた。沢山あるが、今は言わないほうがいいだろう。捜査を混乱させるだけだ。
林に突っ込んだ車に戻った。車の状況については、参考人聴取で説明してある。今井は調書に目を落とした。
「乳児は、どのような状態でしたか」
「運転手席の後部座席チャイルドシートに乳児心愛がいました。車の中は雨が吹き込んでいて、水浸しでした。乳児は目を閉じていました。生きていましたが、体はずぶ濡れでした」
「生きていた……、どうしてお分かりになったのですか」
私は一目見て、生きているのか、死んでいるのかわかるのだ。そう言っても、この警部補には理解できまい。
「呼吸をしていたからです」
「その他には何か気付かれたことが、ありましたか」
「雨しぶきの中で、車内は暗く、血の海でしたから、運転手の男と、後部座席の女が死んでいること以外は、特段気になることはありませんでした」
今井とその部下たちは、互いに顔を見合わせた。
「懐中電灯の灯りで、確認したのです」
私は、そう付け加えた。
私の後ろに立った狩原が呟いた。
「警視が言っておられるのは、ごく普通の交通事故だと、いうことです」
「それから、どうされましたか」
「チャイルドシートから、乳児を抱き抱えました。濡れた衣服を乾いたものに変える必要があったからです。私の車まで歩き、ドアに手を掛けたときに、後ろから殴られたのです」
今井は私を見つめて、小さく頷いた。
「それで、意識がなくなった……」
「そうです」
「そして、心愛ちゃんが、連れ去られた、ということですか」
「そういうことに、なりますね」
「殴られる前に、何か気付かれませんでしたか」
「いえ、何も……」
私はそう答えたが、このことは、ずっと心に引っかかっていた。いつもなら、暗闇の中であっても、人がいれば察知できるはずだ。あのときは、まったく何も感じなかった。そして、突然殴られたのだ。
気を失う前に、白いブーツを見ている。それは間違いない。
だが、そのことも言わない方がいいだろう。
「そうですか……」
今井は落胆の声を漏らした。
「暗くて、ひどく雨が降っていましたから」
「ひとつ、疑問が残りますね」
「どんな疑問ですか」
「何故、その赤ん坊をさらったのでしょうか。追われていたのは、別の赤ん坊でしょう」
「そうですね」
「調べてみる価値はありそうですね」
「そうですね」
私は淡々と答えを繰り返した。
私は簡潔に事実だけを話した。後は今井の捜査能力の問題だ。
「戸田警視」草薙参事官が歩いてきた。
「これから、篠原さやかの家に行きますが、戸田警視はどうされますか。夫の篠原守とは、まだ連絡がとれないのです」
「同行いたします。気になりますので」
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