9 篠原さやかは意識不明のまま眠り続ける
初老の女看護師に案内され、私は今村と共に灰色の長い廊下を進む。廊下途中で看護師は左側の部屋の扉を開け照明を点ける。そして私に目を合わせ、中に入るように促す。
隣部屋との境は一面ガラス張りであった。その部屋は幻影のごとく浮き上がっている。
中央のベッドに、人工呼吸器を装着した患者が横たわっていた。
点滴スタンドの淡い袋が照明に反射して光っている。壁に取り付けられてあるバイタルモニターが点滅している。ICU(集中治療室)だった。
その患者が篠原さやかであると、私は気づいていた。患者から出ている脳波が、あの事故現場の時の脳波と同じだったからだ。
「状態はどうなんですか」
わたしは篠原さやかの顔を見つめながら看護師に尋ねた。
「脳挫傷が広範囲に及んでて、意識不明の状態です。脳幹部は健在ですので、今のところ命に別状はありません」
「意識の戻る可能性は?」
「現状では、わかりません」
「意識が回復しなければ、どうなります」
「三か月たっても、この状態が続けば、遷延性意識障害とみなされることがあります」
遷延性意識障害患者とは、簡単に言えば植物状態になった患者のことだ。
植物状態で意識が無くとも、篠原さやかが夢さえ見れば、その夢を私も見ることができる。
「命を取り留めただけでも、それだけでも……」
私は呟いた。
「子供の所へ行きましょう」
今村が私の背中で急き立てる。
私は篠原さやかを見つめながら、はい、と答えた。
再び長い廊下を戻る。看護師はエレベータケージに乗り込む。私と今村も無言で続く。五階から二階に下りた。広いロビーは子供の泣き声がこだましている。看護師は無言で廊下を歩いて行く。
「DNA、どうなりました」
私は今村に尋ねる。
「サンプルの採取は終わっています」
「そうですか」私は満足気に頷く。
「もしあの乳児が心愛でしたら、青木のお婆ちゃんにすぐ伝えてください」
乳児室の隣の部屋に入った。
乳児室には六つのベッドが並んでいて、それぞれのベッドに乳児が眠っている、
「一番右側の子が、篠原陽菜ちゃんです」
看護師がそう悦明する。
乳児の脳波は微弱で、しかも複数漂ってくるので判別できない。本当に陽菜なのか。
「陽菜ちゃんを抱いてよろしいですか」
私は看護師に尋ねた。
看護師は私を見つめて、何故?、と言うように小首を傾げる。
わたしが抱けば陽菜か青木心愛か即断できる。そう言えば簡単だが、この看護師にいくら説明しても通じるわけがない。
「いえ、今の言葉撤回します」
その答えはDNA鑑定によって数日中に判明するのだ。今の私の立場としては急ぐ必要もないし、関わる問題でもない。
今村の運転する車で、東部方面本部に戻った。狩原が喫煙室で煙草を吸っていた。
私の顔を見ると、煙草の吸殻を吸殻入れに擦りつけて立ち上がった。私に登記簿謄本の写しを見せる。
「所有者は、小田切拓真という七十代の老人だそうです。十年前から売りに出されているのですが、買い手がつかなかったようです」
「価格はいくらでしたか」
「それが、所有者と相談してくれ、というのです」
「なるほど。その小田切と言う人物、買い手が何者なのか、探りを入れるつもりだな」
「どうします?」
「明日、物件を見にいきましょう。不動産屋にそう伝えてください」
狩原は小さなため息をついて頷いた。
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