9
羽毛のように柔らかいシーツに顔を埋め、冷たい枕に頬を押しつけると、気持ちの良いだるさが
うっとりと目を閉じたまま、足を伸ばし欠伸をする。
どこからか漂ってくる芳香は、多分今日の朝食を用意している匂いだろう。地球一と呼ばれる財閥に相応しい夕餉を昨晩食べたせいか、期待は確実に高まっている。
朔夜は香りを吸い込むように大きく深呼吸すると、温かいベッドの中でまどろみにふけった。
けれどもいつまでもその状態でいられるわけもなく、脳が覚醒するとともに同じ空間に居座り続けることが困難になってきた。寝返りを何度も打ち、決して目を開けない覚悟でいた朔夜だったが、時の経過とそれにともなう暇さには勝てなかった。
大きく息を吐いて、目を開く。
ところがそこに広がっていたのは、前日横になったはずのベッドではなく、ヤーンスに置いてあるはずのコクーンだった。
更に云えば、その寝台が置いてある空間は眠る前までにいたシンの家の瀟洒(しょうしゃ)な部屋ではなく、小汚い自分の部屋だった。
目をしばたたかせているうちにじょじょに記憶がはっきりしてきて、ベッドから降りるころには、あれは夢だったんだと思うようになっていた。
事故の後遺症なのか、朔夜は昏睡状態に陥っていたときに見ていた夢をいまだにひきずっている。
その夢は中では確実に現実だと思っていて、今も見るたびに目覚めが困難になるほどだった。
頭を押さえながら、適当な服をパジャマの上から羽織り、朔夜は階下へと向かった。
「おはよう、朔夜。熱はどう?」
下りるなり、リビングで朝食のしたくをしていた母がやってきて、朔夜の額に手を乗せた。
「んー、昨日よりはよくなったわね。体調は? まだだるい?」
「大丈夫」
夢の中では十四歳という設定だったせいか、まだ幼い顔や小さな体に最初のうちは戸惑った。
けれども今ではこれが普通なんだと思えるようになっていた。何せこちらが現実なのだ。夢はいつか消えていく。
「ちょっと待ってて。もうすぐしたく出来るから。席についてなさい」
母は忙しない様子で、キッチンに戻っていった。
ひとくくりに結った亜麻色の髪が左右に揺れ、やがて壁の影に隠れる。
朔夜は感慨深くそれを見送ると、母の云いつけに従ってソファに座った。
父がいないところを見ると、もう診療室に入っているのだろう。プロテインデザインの資格を取っている父は、サイコセラピーと混ぜて体質改善や薬剤マッサージといった美容的なことも行っている。
プロテインデザインか。
夢の中に置いてきた少年のことを思い、朔夜は溜息をついた。
確かに夢みたいな夢だった。何しろあのライザー財閥総帥の孫とルームメイトになり、あまつさえその孫が
こんなに夢らしい夢も滅多にないだろう。非常識的過ぎる。
何故あれを夢だと認識出来なかったのだろうと、溜息混じりに思いながら、ヘルパーマシンが持ってきた料理と食器を卓の上に並べた。
朝食のメインはオムレツだった。
それにポテトとスープがついた簡素なもので、夢の中で食べたライザー邸のものには及びもつかない。
まあ、これが現実、と湯気があふれるスープをスプーンですくい、口に運んでいると唐突に後ろから抱きつかれた。
「朔!」
首に腕を巻きつけて眼前に迫る顔は自分と寸分違わず一緒だった。
「望……」
呟くように小さな声で弟の名を呼ぶと、望はにっこりと笑い、腕の力を強めた。
「よかった、もう元気になったの?」
「熱はあるけど、大丈夫」
ゆがんだ笑みを浮かべながら望を見ると、双子の弟は朔夜の首に抱きつきながらうなだれた。
「朔がビルから落ちたときはもう駄目だって思っちゃったから、生きてて、ホント……嬉しい」
「望……」
昏睡状態だったときに見ていた夢では、望は塔から転落して行方不明になっていて、両親は事故死していたという設定になっていたとは云えなかった。
しかもその事件のショックからひきこもり状態になり、四年間も人を寄せつけない生活をしていた。
「望、時間はいいの?」
「あ、いけね」
キッチンからの声に望ははっとしたように顔をあげた。
何のことだか分からずに目をしばたたかせる朔夜の方を見て望はにこっと笑った。
「帰ったらまた遊ぼうね」
言下に立ちあがり、そのままぱたぱたと音を立てて玄関に走っていった。弟の去って行った方を眺めていると、母が桃の乗った皿を持ってやってきた。
「今日は学校よ。あなたもよくなればすぐに復学出来るわ」
云いながらゆっくりした動作で腰かけ、母は持ってきた桃を剥きはじめた。
艶やかな白い肌があらわになり、果汁が指の間を伝って皿へと落ちる。
芯に近いほど赤みが増す果実は切り取られ、皿の中に落下した。
「早く食べちゃいなさい」
フォークをつやつやした果肉に突き刺し、口に運んだ。
「おいしい」
母に笑って見せた直後、朔夜は唐突に既視感に捕らわれた。
指から伝わる冷たく硬い感触や、皮を剥く動作。剥いているのは母で、記憶の中でその動作をしているのは自分だったが、朔夜はとにかく既視感を感じた。
何だろう。
思い出せそうで思い出せない。
その記憶をどうにかして引っ張り出そうとして、母の所作を見ていると、唐突に夢の中の少年を思い出した。
金色の髪と同じ色の双眸を持ったルームメイト。
ヘルパーマシンたちの作ったメニューをこの世で最もおいしいものだと云わんばかりの笑顔で食べ、にっこりと微笑む。
シン。
思い出した瞬間、夢の中で同じことをしていた自分に気がついた。
両親が事故死したその夜に出会った少女ゆえ。
発狂寸前だった自分に自我を取り戻させ、四年という歳月をかけて、外の世界に出してくれた。
ゆえのようにシンの存在が希望になっているということはなかったが、あの夢の中のゆえの位置とシンは同じだった。
まさかこれも夢で、またどこかで目覚めてそれが現実となるのだろうか。
夢から醒めて、現実だと思っていたそこがまた夢で、そこからまた目が醒めて。
悪夢のようだと朔夜は思った。
永遠に醒めない夢なのか。それともどこかに終わりがあるのか。
朔夜は突如として世界に自分しか人間がいないような、そんな茫漠とした不安感に襲われた。
口の中に広がる甘い果汁が、ざらざらとした砂のように感じる。
ごくりと飲み込むと、汁は気管を通って体の中に落ちていった。
その感覚は自分のものだと理解出来るのに、自我が確立していることを認識しているのに、朔夜の中の不安はどんどん膨れ上がっていった。
誰かがここは現実だと証明してくれれば、安心出来るのだろうか。
けれど一体誰がここを現実だと証明してくれるのだろう。
自分以外の人間に訊いて回るか。
けれどもそれは徒労に終わるだろう。誰も今生きている世界が夢だとは思っていないからだ。
映画やドラマではありふれた展開だったが、自分が陥っていると笑えない。
朔夜は不安感から逃れるように固く目をつむり、耳を押さえた。
「大丈夫なの? 頭が痛いんだったら寝てなさい。無理すると悪くなるわよ」
頭が痛いのだと勘違いをした母の顔が、目の前に迫る。
気が気でないその様子は夢だとはとても思えなくて、朔夜は胸が熱くなるのを感じた。
「平気、耳鳴りがしただけ」
笑って返すと、母はやはり心配そうな表情をしながらも身を引いた。
「苦しかったらすぐに云うのよ。あと疲れたと思ったらすぐに寝なさい」
小さく頷き、朔夜はひとかけらだけ残った桃をフォークで突き刺した。
淡い芳香が鼻孔をかすめ、フォークの爪が刺さった場所から果汁が溢れる。
それをこぼさないように口に含み、朔夜は顔を上げた。
「母さん」
「ん?」
「テレビ、つけていい?」
唐突な申し出に母は首を傾げたが、いいわよ、と端末を操作した。
「でも、すぐに寝なさい。まだ体調が完全じゃないんだから」
食器を重ねてキッチンへ向かう母の後姿を見送り、朔夜はテーブルの上をなぞった。
リモートコントロールキーが現れ、指で触れた瞬間、ガラス壁がテレビ画面に変わる。それまで見えていた庭が灰白のスクリーンに掻き消された。
シンの家の装置もこれと同じだったなと思いながら、チャンネルを変えたが、時間が時間なせいか、面白そうな番組はなかった。
仕方なくニュースに変えるが、それもすぐに終わり、コマーシャルになってしまった。
それでもこの不安感から少しでも逃れたくて見続ける。
番組制作関係なのか、コマーシャルはアースグループのものばかりだった。
化粧品、食品、培養植物、繊維。様々なコマーシャルが流れ、アースグループという会社がどれだけ自分たちの生活に浸透しているかを否応なく思い知らされる。
そのアースグループ総帥嫡孫として育ったシンは、ライザー本邸の一角にある広大な部屋で十年あまり軟禁されていて、家出同然でナーサリーにやってきた。
十三歳になったときにナーサリーの試験を受ければまた向こうで会えるのだろうか。
そんなことをふと考え、朔夜はかぶりを振った。
家族がいてサーヴァインにも会えるこの世界で、わざわざナーサリーに行く必要などない。
「何か、悩み事でもあるの?」
遠い目をしながらテレビ画面を見つめる朔夜に、母は怪訝な顔しながら横に腰をおろした。
ソファがゆっくりと沈み、また戻る。ゆるく首を振ってうつむくと、母はまた声をあげた。
「どうしたの? 朔夜、ちょっと変よ。何か口調も大人びた感じだし。何かあったの? あっ、好きな子のことでも考えてたとか?」
好きな子、という単語に朔夜は思わず反応してしまった。
「あいつは好きってわけじゃ……」
云いかけて、朔夜は口ごもった。
誰もシンのことだとは云っていないのに反応するなんて馬鹿みたいだ。あれは夢なのに。
「あいつ? 誰? お母さんに教えてよ。お父さんにも望ちゃんにも云わないから」
「……」
「もしかして、ミカちゃん?」
「……違うよ」
「じゃあ、誰よ」
うきうきした様子で訊いてくる母に朔夜は眉根を寄せた。
「ここにはいないんだ」
「いない?」
朔夜は微かに頷いて、テレビ画面を見た。
コマーシャルはいまだに続いていて、丁度終わったそれはやはりライザー財閥関連の品物だった。
―――…朔夜のこと、知りたいんだ
高いまなじり、大きな目。くせのついた金色の髪が揺れる。
昔は長髪だったというそれはナーサリーに入るために切り落としたのだと云っていた。
―――軍人になるのに、長い髪は必要ないだろ。遊びじゃないって、父上に云われたからな。そうじゃないって、覚悟を見せたかったんだ
シンは将来食扶持に困らないようにとナーサリーを選んだ自分とはあまりにも違っていた。けれどもその強固な意志は、
誰も同じ痛みを共有する仲間がいない、敵ばかりの世界で一人というのはどれほどの孤独だろう。
友達になりたいと云っていたわりにその正体を明かさなかったのは多分、
滅多に取り乱すことのないシンが、あのときだけはヒステリックな大声をあげた。
授業を欠席し、距離をとろうと無視までした。
話をしたのは、秘密を話すことで共犯者に仕立てることが、唯一の道だと感じたせいなのかもしれない。
―――……おれは
シンはいつも孤独と戦っていた。
―――本名を名乗っても動じない人間がいたのなら、相手がどんなに嫌がっても絶対友達になろうって
「朔夜、どうしたの? 具合が悪いんだったら上で寝てきなさい」
黙ったままの朔夜に母は顔を曇らせた。
「うん……」
―――おれにとっての朔夜は、初日に二時間も遅れてやってきた奴だ。悪びれもしないで、不機嫌そうに会釈して、それから、突然名前について言及してきた男だ。本当は望だったとかそういうことは関係ない
あんなに自分という人間を認めてもらったことなどこれまでになかった。
たとえ本当は望であったとしても自分を朔夜だと認めてくれる、そんなシンを忘れていいのだろうか。
―――バビロニア神話の月の神の名前、持ち出してくる奴なんてお前の他に、いないぞ
「……母さん」
「どうしたの?」
首を傾げる母の姿は歪んでいた。
涙で潤んでいたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
両親がいて、弟がいる。
サーヴァインとも連絡が取れていて、あと二週間もしたら会いに来てくれる。
そんな夢みたいな現実にいられるならいつまでもいたい。
けれど、あの広い屋敷の中で外に出ることも出来ずに一人でいるシンのことを思うと、夢でもいいからあそこに帰らなくてはと思うのだ。
自分を必要としてくれる唯一無二の友人の元に。
「……ごめん……」
言下に、視界が崩れた。
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