10

 潰れたゼリー、はたまた石を投げ込んだ水面のようにさざなみ立つ画面。


 色はモザイクになり、泡になって掻き消える。画面を埋め尽くすほどの大量の泡沫うたかた


 その中にも歪んだ映像が見える。

 魚眼レンズ越しに見たような大きく伸びた映像。


 それらを構成する色の粒子が目の前に迫り、泡となって弾ける。次の瞬間、画面はぐっと遠ざかった。


 顕微鏡画面から突然望遠鏡画面に移り変わったようなその変化に朔夜の脳はシェイクでもされたように大きく揺れた。

 酷い眩暈に襲われ、立っていることすら出来ずに座り込んだ。


 頭を抱え、ぐわんぐわんと鳴り響く振動に耐え、目をつむっていると、少しずつ音が消えていった。


 頭に響いていた違和感も解けるように消え、朔夜はおもむろに手を離すと、怯えるように目を動かして顔を上げた。


 目の前は青かった。


 けぶるように曇ったその青は夜の到来を予感させ、これからやってくる闇の深さを想像させる。

 昼でもなく、夜でもない、その合間のわずかな時に一瞬だけ訪れる真っ青な世界。そこで時を止めてしまったかのような、全てが青く染まる場所にその街はあった。


 久々に見た青い夢はやはり前と同じで恐ろしいほどの孤独感があった。

 寒気が皮膚の周囲に感電するように走り、思わず体を震わせる。


 そのときの感覚がいつもと違う気がして、ふと自分に視線を止めた朔夜は瞠目した。


 いつも着ているスモックのようなパジャマはそこにはなかった。

 真っ黒で何となく古めかしいデザインの服――ナーサリーの制服を着た朔夜は、子供の姿ではなくなっていた。



 現実世界と同じ姿に驚く朔夜の脳裏に、唐突に空を指差す女性の姿が刻まれた。



―――あの向こうに本当のおうちがあるの



 それは自分の記憶を想起しているかのように懐かしさを感じる思い出だった。



―――おうち?



 いとけない子供の声が聞こえる。舌足らずな物云いが、彼女の幼さを強調している。



―――そうよ



 女性は悲しそうな表情を浮かべてうなずいた。


 子供はそんな母親の表情には気付かないらしく、大きな目をきらきら輝かせ、期待を膨らませた面持ちでかたわらの腕に手を絡ませた。



―――じゃあ、いつかそこに帰るのね? アイラちゃんやテイアおばちゃんは?



―――みんな一緒よ。みんなで一緒にそこに帰るの



 楽しみね。


 脳裏にぱあっと笑顔になった少女が浮かび、朔夜は云い知れぬ悲しみを感じた。


 ぎりりと唇を噛み締めて、制服の胸元をつかみ、脳裏に去来する痛みから逃れようとぎゅっと目をつむる。


 酷い悲しみが次から次へと体の奥から湧き上がってきて、朔夜は思わずしゃがみこんだ。耳を押さえて外界からの感覚を遮断し、吐きそうなほどの痛みが過ぎ去るのを待つ。



 いくらかの時間が経ったころ、いつの間にかその感じが消えているのに気付き、朔夜はそろそろと顔を上げた。


 不安感はいまだに消え去らなかったが、それでもあの嫌な気分ではなくなっただけまだいい。


 胸の奥にこごった暗い塊を隠すように、手を這わせながらあたりを見回した朔夜は、視界に白く歪んだ影があるのを発見した。


 青い空間に現れた、染みのように小さな影。


 朔夜は、二、三まばたきをして、目をこすった。


 幻覚ではない。


 そう思った瞬間、朔夜は反射的に叫んでいた。



「ゆえ!!」



 白い影が揺らぐ。

 呼応するようなその動きに朔夜は涙が出そうなほど嬉しくなった。


 自然とゆるんでくる口元を手で覆い、駆け寄る。



「ゆ……っ」



 もう一度叫ぼうとして朔夜は思いとどまった。


 反応がないのはもしかしたら、ゆえではなくルナレアではないかという思いがあったためだ。二人の姿はとても似ている。


 夢の中でルナレアだったときに見た自分の姿は、ゆえそのものだった。



「……ルナレア……?」



 伺うように呟いたそれに、少女はゆっくりと首を振った。


 白いもやから光が零れ、青の空気に溶けていく。懐かしくすらあるそれに目を奪われていたそのとき、突然朔夜の体に激しい衝撃が走った。



―――アイラ!!



 唐突に、目の前が白く染まった。


 雪のようにまばゆいその白は、たちまち脳内を席巻し、鋭い何かを打ち込んだような痛みをこめかみに与えた。



「痛……っ」



 朔夜は鋭利な痛みを発するこめかみに手を当ててうずくまった。


 血液の流れを間近に感じる。どくんどくんと音を立てて流れていく赤い血の存在に、朔夜の心音は一気に跳ね上がった。

 たちまち息があがり、呼吸がしづらくなる。


 それまでは普通に出来ていたはずなのに、一度意識すると変に緊張してしまって上手くいかなかった。


 咽喉のど元を押さえ、少しでも酸素を肺に入れようと、大袈裟に息を吸う。


 耳の奥で囁くように小さな声がした。

 耳を澄まさないと聞こえないくらいささやかな声だったが、何故か荒く呼吸をくりかえす朔夜の耳にはその仔細が届いた。



―――それは本当なの、テイア



―――しっ、もう少し声をひそめてエラ。このことが知られたら街はパニックになってしまう



―――ごめんなさい。それでさっきの話、カビが検出されたって……



―――元々カビを含んでる食品だったから見逃していたのよ。一昨年から続発してる異常行動あったでしょ。その遺体の全ての脳から異常タンパクによる沈着が見られたの。遺伝子変異じゃなかったから彼女たちの行動をわかる限り追って行って、それで配給物資に辿りついたのよ。その中から食用のカビに酷似した新種のカビが検出されたの



―――カビ? アイラのあの病はそれのせいなの?



―――ええ。外部では毒性はない。でも摂食後に生成する二次代謝産物が、タンパク性感染因子なの。どの文献にも載っていない、完全な新種よ。ここには実験動物がいないからシミュレーションでのデータしか取れなかったけど、体内に取り込んでから三週間後に肺炎に似た症状が現れたわ。アイラや他の人たちのものとほとんど同じよ。それから、エラ。カビには遺伝子改変が行われた跡があったわ



 声がじょじょに遠ざかりフェードアウトする。


 脳裏の画像が薄くなるにつれて、今度は掌に奇妙な感覚が芽生えはじめた。


 誰かに手を握られているようなあたたかな感触。


 しかし本来ならば安心するはずのその感触は酷く不穏だった。掌にかかる気配が少しずつ濃くなっていくにつれ、その不安感も増していく。


 そして、人の手だ。そう思った瞬間、手ははっきりと具現化し、同時に真横に大きな女性が現れた。



―――ママ……?



 朔夜はルナレアになっていた。


 見知らぬ場所に不安になり、母親の握った手に力を入れると、母親はさあと感情の見えない声でうながした。



―――ルナ、アイラにお別れを



 全てが一瞬にして凍りついた。

 ビシリと音を立てて亀裂が入り、瞬く間に映像はひびだらけになる。

 蜘蛛の巣状の筋がはっきりと刻まれた画面はそのまま静止し、それから堪えきれなくなったように突然割れた。


 砕けたガラスのようにガラガラと崩れていく空間。


 こぼれ落ちる破片の合間から、奇妙なほど鮮やかな色の青が覗いている。黄昏時の一瞬を封じ込めた青。



 少女はその街をバックに先程と変わらぬ姿勢のまま、ただ朔夜をじっと見つめながら立っていた。

 吹いているのかもわからないほどの微風に晒されて、少女の周りを包む靄(もや)がゆらりと揺れた。



―――聞いたかい? 四班がついに一部解析に成功したそうだよ。十二神の塔と同じタイプの遺跡の解析に成功したとするとものすごい発見かもしれない



―――最初に地下で発見されたときにはおかしな磁場発生器という印象しかなかったのにね。初めにフラグメント解析装置に反応があるって見つけた人は本当にすごいわ



 いつの間にか脳裏には巨大な機械の映像があった。


 視界の奥には相変わらず少女の姿があったが、先程と同じく存在感はなかった。


 前面の映像が揺らぎ、先程の男女が少し老いた姿で出てきた。



―――どこ行くの? もう休まないと。私は仮眠明けだからまだ全然大丈夫だけど、あなたもう一昨日からほとんど眠っていないでしょ? せっかくこの塔の最上部に休眠カプセルが出来たんだから二時間くらい寝ていらっしゃいな



―――駄目だよ。今日はもう少しあれの研究を進めないとね。男がそのうち僕だけになったら困るだろう



―――そうね、本当にどうしてこんなことになったのかしら。ここの空気はよほど人に合わないのね。いくら遺伝子治療をしても子供は必ず不妊になってしまう。急速老化はまだ宇宙線のせいだって予測はつくけど、理由がいまだにわからないなんて少し怖いわ。男性の出生率も極端に低いし、あなたの言葉は遅かれ早かれ笑い事ではなくなりそう。……コロニーからいくつかのDNAサンプルをもらえるだけで少しは状況が改善されるのにどうして政府はかたくなに食料配給しかしてくれないのかしら……



―――でも政府に無理強いすれば火星の二の舞になる。今、あそこのように物資配給が停止されればここの住民は早晩全滅する



―――……そうね、あなたの云う通りよ。確かに食べ物がもらえるだけマシって思わなければならないのかもね



 女の溜息に男は微かに笑みを浮かべた。



―――政府にはもう頼れない。僕たちでやるしかないんだ



―――ええ、そうね……



―――次は塩基レベルでの治療を行ってみようと思うんだ。ユエ、頼んでおいたタンパクの設計図を出してくれ



 ゆえ?



 朔夜はその名に驚きを隠せなかった。これはゆえの記憶なのだろうか。しかし前に見た夢はルナレアの記憶のようだった。やはりゆえはルナではないのだろうか。


 映像は再び変化し、今度は皺だらけになった男性が現れた。



―――……結局君が何のために作られたのか僕たちにはまるでわからなかったな。フラグメント解析装置でいくつかの反応があったときには歴史に残る発見かと思ったんだけどな



 そこまで云うと、男は苦しげに胸を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。

 幾度となく咳をし、胸を叩く。



―――見ての通り……僕はもう長くない。ただ僕だけじゃない。この街もそろそろおしまいだ。……もし君が終わりを見届けられるほど生きていられるなら……この街の終焉を見届けてほしい。そして最後になる子が安らかに心穏やかに生きていけるよう頼むよ……。君にそんなことをする義理はないかもしれないけどね。……ただ君が人と語り合いたいと、そう望んだときのためにこの子を置いていくよ



 男はもう一度こちらに向かって微笑みかけると、ゆっくりとした動作で立ち上がった。



―――頼んだよ、ユエ



 男の映像がぐわんと歪んだ。

 石を投じた水面のように揺れ、画面を掻き消す。


 朔夜の意識は再び青の街に戻ってきた。

 少しだけくぐもった、しかし鮮やかな青で染まるその街には、耳が痛くなるくらい静かな空気が流れている。


 青い空間の中で白いもやがゆらりと揺れた。



「ユ…エ……?」



 少女はもの云いたげな目をちょっと細めて、朔夜を見つめた。

 それからもう一度、今度は噛み締めるようにゆっくりとかぶりを振った。


 少女を包み込む靄(もや)が密度を増し、その姿を覆い隠していく。



「ゆ……っ」



―――見つけて……



 少女は青の空気に溶けるようにふうっと掻き消え、あとにはあの言葉だけが残された。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve、eka……


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