5

 ペルセ・アルトと刻まれた、その真っ白なカプセルの中には一人の老婆が横たわっている。


 白亜の陶器を彷彿させる真っ白な顔は、この世のしがらみから解放されたことを心から喜んでいるような、安堵にも似た表情が浮かんでいる。


 真っ白な死装束を身にまとい、永遠に眠り続けるその老婆は、あと数刻も経たないうちに荼毘だびにふされる。これが見納めだった。


 発光しているような質感の真珠色のカプセルの上を指先でなぞり、何をするでもなく見ていると、後ろの方で扉が開く音がした。



「ルナ」



 呼ばれて、視線を背後に投げかける。

 そこには今自分が身にまとっているものと同じ白衣を着た中年の女が立っていた。薄い色の長髪を後ろで一つに束ね、疲労の色が濃い面をさらけ出している。



「アイグレ……」



 ルナはぼんやりと呟き、柩に頬を寄せた。

 滑らかで硬い感触が冷気とともに伝わってくる。


 うっとりするように目をつむるルナにアイグレは顔を曇らせた。



「そこにいたってペルセは起きないわ。行きましょう。ユエに頼んだ解析が終わってるの。次の計画を立てなくちゃ」



 天井が高い部屋の中にその声はよく響きわたった。

 ルナはカプセルに額をつけて顔をしかめると、両手で耳を塞いだ。



「ユエのそばにはもう行きたくない。あの音が耳について離れないの。おかしくなりそう」



 それは本当だった。本来なら聞こえるはずもないその音は染みついてしまったかのようにルナの耳の奥で響いているのだ。気を抜けばすぐさま、鼓膜が破れんばかりの勢いで鳴り響くその音。


 話題にしたことすら嫌で、ルナはさらに顔をしかめた。


 カプセルに映り込んだ自分の顔は美しさや若々しさとはかけ離れていて、まだ二十五を過ぎたばかりだというのにもういくつも深いしわが刻まれている。その老い具合に自嘲するように笑っていると、アイグレは悪気はないのだとかすれるような声で云った。



「ユエのこと、そんなに悪くとらないで。彼女は自分の務めを果たしているだけ。彼女は未来のない私たちに十二神が遣わした最後の希望なの」



 十二神という言葉を聞いて、ルナは嗤笑(ししょう)した。



「十二神? よく考えてよ、アイグレ。十二神なんておとぎ話だよ。神なんていない。いたらそもそもOSVなんて出てこなかった。こんな牢獄みたいな場所で一生を過ごす羽目になることなんてなかった。それにユエがわたしたちにしてくれたことなんて何もないじゃない。何が神の使いよ。勝手にわたしたちが期待して持ち上げてるだけ」



「その小さな希望なの……彼女は」



 さ、行きましょう。そう云われて差し出された手をルナははたいた。


 アイグレは叩かれた甲を擦り、困ったように顔を側(そば)めている。その落ち着き具合が癇に障り、ルナは思わず怒鳴った。



「アイグレはいいわよっ。次はアイグレなんだから。わたしは……、わたしはどうすればいいの?!  もうこんなのは嫌! わたしは嫌なの!!」



「ルナ、落ち着いて」



「落ち着けるわけなんてない! 毎日毎日計測して解析したって何も出ない。いくらフラグメントの解析したって、わたしたちの窮地を救うことなんてどこにも書いてない! わたしたち見放されたんだよ。もう助けなんてこない! ずっとこのままなの!!」



「ルナ!!」



 アイグレの声が部屋中に響き渡った。真っ白な壁に反響し、何重にも跳ね返る。


 ルナの精神状態はもう限界に達していた。


 刻一刻とその時が近づいてくる。想像するだけで、奈落の底に落ちるような絶望的な気分を味わった。


 今まではまだそれも悲観の域を出なかった。


 けれど、ペルセが死んだ今、それは生々しいほどの現実感を帯びてルナの前にそびえている。



 いや。絶対にいや。



「ルナレア!」



 アイグレの声を振り払うようにして、ルナは駆け出した。


 重々しい空気がこごる安置室から抜け出し、廊下を走る。


 今は全くひとけの感じられない研究エリアの廊下だったが、まだ母親が生きていたころには、研究員であふれかえっていた。

 幼かったルナには、その活気が恐怖の対象でさえあったというのに、今となってはそのときの名残すら感じられない。



「……っ。はぁ……っ」



 息を切らしてその場に崩れ落ち、ルナは大きく息をしながら号泣した。



 アイラやママの側に戻りたい。夢でもいいからあの幸せだったときに戻りたい。



 涙の筋がいくつも頬を伝い、零れ落ちる。ルナはそれを拭いもせずにただひたすら泣いた。


 引きつった声が幾度となく咽喉から漏れ、廊下に響きわたる。ルナはもやがかかったようにはっきりしない視界を虚ろな眼差しで見、それからゆっくりと目を閉じた。



 誰か、助けて。



 耳をふさいだにもかかわらず、遠くの方でまたあの音が聞こえた。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……




 ◇



 目を開けてしばらくは自分がどこにいるのか分からなかった。


 霞がかった頭で眠る前の記憶を辿り、ようやく自分が図書館のブースで眠りこけていたことを知る。


 突っ伏していた顔をあげると、首がかなり痛かった。不自然な体勢で寝ていたためだろう。


 横着せずにシートを倒せばよかったと、伸びをすると、上げた腕の下から絵が現れた。

 首を回すのを中途で止め、真っ青なその絵を見る。


 空も建物も全てが青に染まるそれは、先週からシンに云われて描いている夢の中の絵だった。

 もしかしたら検証出来るかもしれないというシンの夢見る少女じみた言葉を信じたわけではないが、これを描いていると不思議なことに知りもしないあの世界の詳細な光景が頭の中に浮かび上がってくるのだ。


 それは昔の記憶を呼び覚ます作業に似ていて、まるで自分があの世界にかつて住んでいたかのように思うことが出来た。


 青ではない、透明な空気に覆われたときの街の風景や走り回った細い路地、冷たい壁の感触。ゆえとよく遊んだ公園さえもそのときとは違った趣の光景が浮かんで、それを当たり前のことのように感じている自分に戸惑った。



 ふと見ると図書館の閉館時刻が迫っている。朔夜は出来上がった絵を保存して、ブースを出た。


 閉館時刻直前とあってエレベーター前にはナーサリーの黒の制服と正規軍の白の軍服が入り乱れていた。

 見るだけでうるさいその様子に辟易したように、顔を背け、欄干についた肘にもたれる。


 そのままの姿勢でどこを見るわけでもなく視線をさまよわせていると、不意に視界が凍りついた。


 吹き抜けの向こうにある通路。朔夜のいる位置とはちょうど正反対にあたるそこに、琥珀色の髪があった。真っ黒な制服に映える明るい髪には軽く癖がついていて、一歩踏み出すごとに羽毛のように揺れた。鹿を思わせるすらりとした肢体、小さな頭。よどみのないその歩き方はそれだけで人目を引く。



「シ……」



 けれども次の瞬間、その姿は霧のように掻き消えてしまった。


 残ったのはナーサリーの制服を身につけた、シンとは似ても似つかない少女で、何故間違えたのか理解に苦しむほど相似点がない。

 無理やり挙げるとすれば、その少女は色素の薄い短髪をしていたということだが、それだけで間違えたとすればあまりにも笑えない。



 もうかなりおかしくなっているのかもしれない。



 朔夜は大きく頭を振って、頬をはたいた。

 存外大きな音がして、側を通りかかった軍人が怪訝そうな顔をしてこちらを見たのが、視界の端に入ってきた。


 エレベーターに乗ると、次々と人が入ってきた。

 端の方に寄りながら、鳥籠のような外観のエレベータを眺めた。


 いつ見ても虚飾的過ぎるエレベーターだ。暗澹の人間は一体何を考えてこのエレベーターを造ったのだろうと思っていると、大声を上げて人が飛び込んできた。


 人の侵入を察知したエレベーターは再び口を開けた。



「悪い、悪い」



 非難めいた色を湛える目に見つめられ謝る生徒に、かつてのシンの姿が重なった。



―――間に合ってよかった



 華奢な体を滑り込ませ、直後に閉まったドアを見ながらほっとしたように呟く。


 息をはずませ、そこで初めて自分以外の存在に気付いたかのようにこちらを向いたその顔が、自分の姿を認めた途端笑顔に染まったのを覚えている。



―――朔!



 花が咲いたみたいな笑顔だった。水に垂らしたインキがあっという間に水面の色を塗り替えるように変わったその表情に目を奪われて、それを隠すように苛立ちが湧き出た。



―――お前、おれにしか怒鳴らないんだぞ



 シンの言葉がこだまする。

 意地悪そうな笑みを湛え、腰を落として下から見あげるその姿がどうしてこんなにも鮮明に思い出せるのか、分からなかった。


 初めて会ったときからシンの姿はいつも鮮やかな色と音をともなって記憶されている。喜怒哀楽に富んだ様々な表情が脳裏に現れ、消えていく。


 最後に現れた表情はあの日に見せた苦しそうなものだった。



―――お前はそれを知っているんだと思っていた



「くそっ」



 吐き捨てるように呟くと、朔夜はぐちゃぐちゃと髪を掻き回し、駆け出した。



 ◇



 寮に帰ってまず見たのは食堂だった。けれどもそこは混雑しているだけで目的の姿はない。次に向かったのはシンの自室だった。


 生体紋センサーにかざさなくても開くドアに一瞬逡巡しゅんじゅんするが、ここまで来たらもうあとには退けない。


 朔夜は人工的な明るさにまみれた部屋に踏み込み、突然の侵入者に瞠目するシンの手をつかんだ。



「朔夜!」



 シンが触っていた球形の端末が机から落ち、床に転がった。壊れているかどうか一瞬気になったが、今はそんなことを確認している暇はない。


 シンの手を強引に引っ張る。



「離せっ」



 シンは前のめりになりながらも、つかまれた方の腕をめちゃめちゃに振り回し、どうにかして逃れようとした。



「離せよ!」



 何も云わないルームメイトに業を煮やしたのか、シンは朔夜の手から振り切るようにして逃れた。



「どういうことだ?」



「これ」



 差し出されたスティックを見て、シンはいぶかしげな顔をしたが、促されるままにそれを受け取り、携帯端末に挿した。

 まだ仄暗い部屋の中に象牙色のホログラフィースクリーンが現れ、その向こうにいるシンの顔に明暗が浮かび上がる。



「一番上の画面出して」



 シンはいまだに怒ったような顔をしていたが、もう一度催促すると渋々といった体で端末を動かした。



「お前……?」



「出来たから」



 シンの視線を受けて、朔夜はきまり悪いような気分になった。つと目を逸らし、痒くもない髪を掻きながら、必死に言葉を探す。



「その……、あんた、使うんだろ――」



 そこまで云って朔夜は口をつぐんだ。目の前で端末に視線を落とすシンの顔はひどく歪んでいたからだ。波打つように曲げた唇と眉間に深々と刻んだ皺。


 想像と異なるシンの反応に朔夜はぎょっとした。



「シン?」



 呼ばれてシンは顔を上げた。顔はますます歪み、何かに耐えるように唇をきつく噛み締める。泣くのを限界まで堪えたようなその表情にどきりとして、思わず後退あとずさりした朔夜は、脳裏で何かがはじけるのを感じた。


 パキパキと音のような色を放ちながら砕けていく光。オパールのごとき輝きを放つ虹色の光は紛れもなくこの間から感じていたものだった。


 飴のように溶け合い、粉々に砕けて、ぱらぱらと降り注ぐ。

 雪のように皮膚の上で溶けるそれは、心臓につんとした痛みを置き、あとからきつい孤独を感じさせた。悲しみと寂しさをともなった感覚。


 それは懐かしさすら感じさせる馴染み深い感覚だった。誰もいない家に帰ってきたときの、絶望にも似た深い孤独。



―――忘れるな



 振り絞るように告げたあの日の言葉が再び脳裏をかすめる。



―――おれは火星人マーズレイスだ。……半分しかそうでなくても……。異常な存在だなんて端からわかりきっている



 心臓が絞りあげられたように痛んだ。胸を服の上から押さえつけ、涙をこらえるシンを見下ろす。



―――…朔夜って全然怖がらないよな



 どうして気がつかなかったのだろう。シンは火星人マーズレイスだ。他ならぬ地球人テラリアンに惨殺され、絶滅したとされる一族。


 どうしてその血族が地球にいるのかは別として、おそらくはこの宇宙の中でただ一人の存在だ。血縁である父親すら種族を異とする彼が、一族の仇であふれるこの世界で孤独を感じなかったはずがない。



―――僕はシンの替え玉だよ



 友達ではないという含みが多分に込められたジェセルのその言葉が、シンの云った台詞にさらに重みを加える。



―――ライザー、誰にでも愛想いいけど、サクヤの前じゃ顔違うよ。今度よく見てみろよ。マジで楽しそう



 サイトの言葉を思い出し、朔夜はぎりりと唇を噛んだ。



「――悪い」



 言下に頭の中で砕ける光に、驚いたような色が混ざった。


 困惑、疑念、拒絶、希望。孤独感にあふれていた光に様々な色が加わり、また細かく砕けていく。散っていく光と弾ける瞬間の音はまだ痛いくらいに冷たかったが、それでも少しは温くなっていた。



「……何が?」



 シンはいよいよ不機嫌そうに目を細めた。



「異常って云ったこと」



 朔夜は汗ばんできた手をスラックスに押しつけるようにして拭いた。



火星人マーズレイスだってこと、最初は気にしてたけど、最近は別に……そんなのどっちだっていいっていうか……。異常だったとしてもあんたはあんただから。おれは別にそんなのでその……友達……やめたりしない……っていうか――」



 そこまで云って朔夜は言葉を飲み込んだ。



「シ……」



 大きな琥珀色の目が細かく震えている。双眸が潤み、まなじりから涙があふれる。



「謝るのが遅いんだよ、馬鹿!」



 シンは泣き顔を隠すようにしゃがみこんだ。



「おい…ちょっと、あんた何泣いてんの……。いい年してやめろよ……」



「泣いてない!」



 朔夜はもう一度今度は自分に云い聞かせるようにごめんと呟いた。


 足元にうずくまる丸い背中が強張るように動く。



 脳裏では沢山の光が砕けては溶け、様々な絵を描いていく。


 きらきらと光りながら、心の奥に深々と降り積もっていくその絵はこの上なく温かかった。

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