6

「ちょっと、なんで泣いてんのよ」



 隣からアイラの怒ったような声が聞こえて、ルナは自分が涙を流していることに気がついた。



「あれ…?」



 慌てて拭っても、涙は止まらなかった。そればかりか次々に溢れ出てくる。


 それとともに言葉に出来ないほどの感情が体の深いところから込みあげてくる。

 悲しいような嬉しいような、懐かしいような。様々な感情が混在していてよくわからない。

 強すぎる感情に押されるようにとめどなく涙が流れてくるのだ。



「分かんない……」



「はあ?」



 呟くと、アイラの声はますます低くなった。

 アイラの表情は暗くてはっきりとは見えなかったが、彼女が不機嫌になっているというのは声を聞く限り明らかで、この調子で喋り続けていけばいつか怒り出すのは目に見えていた。


 アイラはいつでもわがままで自分勝手だ。

 けれど普段のように苛立つどころか、そんな感情も湧かないほど強く胸が痛くなった。


 ルナは心の中で浅く息を吐くと、いまだ止まらぬ涙を拭って微笑んで見せた。



「多分……綺麗だからよ」



「は?」



「だって見てよ、ほら。海の底にいるみたい。きっと感動して涙が出たのよ」



 無理に笑って見せると、幼馴染みは呆れたような顔をして、口を曲げた。



「詩人ねえ、ルナレア。絵でも描いてみたら?」



「絵なんて描けないの、知ってるでしょ?」



 上手く笑えなかった。顔がかなり歪んでいることが自分でもわかる。暗がりでよかったと思いながらルナは、今し方自分が云った綺麗だという光景を眺めた。


 塔の最上階にある部屋からの景色はこの街随一だった。


 放射状に広がる街の全貌が見えるよう天井と床は投影装置がついていて、日の出も日の入りも夜空もその時間に行けば心ゆくまで堪能することが出来る。


 けれどこの部屋本来の役割はそんな穹窿きゅうりゅう観察ではなかった。かつては脳内研究の一環として使用されていた場所、それがこの部屋だった。その証拠に部屋の中央には地下のメインコンピュータと繋がったカプセルベッドが放射状に数台並べて置いてある。現在はそのベッドを利用した睡眠障害の改善、休息などが主な使用用途だった。



 初めてこの部屋にやってきたとき、ルナはまだ六歳だった。夢見が悪く眠れないルナのために母が予約をしてくれたのだ。

 眠っている間の脳波心音管理はすべてメインコンピュータが行ってくれるため、子供でも扱いやすく、ルナは母に連れられて定期的に通っていた。

 何種類かあるテンプレートの中から希望する夢の傾向を選ぶのが基本だが、細かく設定すれば自前の動画の映像も見られるらしい。


 ルナはいつかこのカプセルを利用して映画の中に出てきた少年男優と幸せに暮らす夢を見たいと思っていたのだが、脳内研究時代に使用されていた名残で脳波だけにとどまらず内容のすべてが記録されてしまうため使えなかった。


 ここにやってくるときの目的はただ一つ、たまに見られる美しい夕暮れを眺める、ただそれだけだ。



「――ねえ」



「何?」



 アイラは海の底のように青い街を見下ろしながら、呟くように答えた。



「最近、夢、見るの」



 空の青がゆっくりと、しかし確実に濃くなっていく。夕暮れの青から、闇色へ。じょじょに近付いてくる夜の気配に、ルナは居た堪れないような感覚になった。



「最近って、今に始まったことじゃないでしょ」



「うん、でも凄く怖いの」



「怖い?」



 ドームの向こうの街を撫ぜるように手を這わせ、ルナは項垂れた。



「アイラもママもみんないないの。わたしひとりでいる夢なの」



「変なルナ」



「アイラ! わたしは……っ」



 こんなに真面目に話しているのにどうして分かってくれないのか。



 ルナは怒りすら滲ませて、アイラを見据えた。けれどもアイラはただ肩をすくめただけだった。



「アイラ……」



「だって夢でしょ。今ここにはあたしもおばさんも母さんもいるじゃない。何が怖いのよ」



 非難混じりの声で呼んだルナに、アイラはどうして悩むのか分からないというような顔をした。

 それからルナの腕を引っ張り、もう行こうと急かした。



「ねえ、早く帰ろう。今日はルナの家でしょ? おばさんの料理、何かなぁ」



「うん……」



 アイラはルナの返事も聞かずにさっさと歩き始めた。


 ルナはあとを追おうときびすを返しかけたが、出て行こうとするアイラと自分の間に立ちふさがる太いチューブを見た瞬間、自然と足が止まってしまった。


 天井から真っ直ぐ伸びた黒褐色のパイプと、その下で花弁のように広がる六台のカプセルベッド。掌にそのカバーを開けようとする感覚が絡みつき、ルナは思わず自分の両手を見下ろした。



 自分で開けたことなんてないのに、どうして。



 フラッシュバックでもするように無数の白い柩(ひつぎ)が脳裏に過ぎる。


 誰もいない街、青い空気。


 嫌な夢を見たのだと、笑って済ませてしまえばいい。それは分かっているのに妙な現実感が邪魔をして、どうしても出来なかった。知らないはずなのに、覚えている絶望感。

 思い出すだけで胸が張り裂けそうに痛くなり、動悸が激しくなる。


 ルナは大きく呼吸をし、状況をどうにか打破しようとしたが、出来なかった。


 眩暈すら感じ、その場に崩れ落ちてしまいそうになったそのとき、アイラの声が耳を貫いた。



「ルナ!」



 言下にルナの中で何かがはじけ飛んだ。


 ビクリと肩を揺らして顔をあげると、ドアの前で不機嫌そうに腕組みをするアイラの姿が見えた。



「あ……」



「早くしてよ!」



 アイラはもう一度大声を出すと、置いていくからねと云い残してドアの向こうに消えた。



「ご……ごめん。今行くから!」



 アイラの機嫌を損ねたら大変だという思いが、それまでルナの中に凝(こご)っていた不安感を覆い隠した。掌に感じていた嫌な感覚も不思議なことに消えている。



「ルナってば!」



 もう一度顔を出したアイラに更に怒鳴られる。


 慌ててアイラのあとを追ったルナだったが、開いた扉に手をかけた瞬間、ぞくりとしたものを感じた。何かに呼ばれたような気がして振り返るがそこには何もない。


 かつては研究室の一環だった円形の広間は、濃い青の気体に埋めつくされようとしている。



 夜がすぐそこにまで迫っていた。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve、eka……




 ◇



 翌日から当初の予定通り図書館で調べることとなったのだが、当然のことながらすぐには見つからなかった。何しろ夢の中の光景を捜すというのだから、実際はなかったとしても不思議ではない。むしろあるという方が不思議だ。


 朔夜は端末で図書を検索してヒットしたものを片端からレンタルしていった。初めのうちこそ歴史の棚を回って、暗澹の五百年周辺のことについて記載のある書物を集めていたのだが、よく考えると旧式のメディアで探す必要は全くない。


 少しでも似ているものなら何でも資料にしろというシンの言葉に従って集めているのだが、これを読むとなると、考えただけで眩暈がする。

 大体少しでも似ているという条件からして、あまりにも漠然とし過ぎている。探すにしても範囲が広すぎるのだ。


 心中で文句を重ねながらブースに戻るとシンはもう戻ってきていた。


 最上階のブースは多人数用になっていて、試験前などはナーサリーの生徒で埋まっている。

 狭くないはずのそこが、積み上げられた本のせいで広く見えないことに辟易しながら、朔夜は並べられるだけホログラフィースクリーンに出した。



「ホログラムで見るのって疲れないか?」



「重い上に一枚一枚めくっていかなきゃいけないものの方が疲れる」



 本の隙間から顔をあげたシンを一瞥して、朔夜は椅子に座った。


 シンの前には建築関係の本がずらりと並べられている。彼は朔夜の描いた絵を見た途端、この建物には思い当たる節があると云って十日もの間ここに通っているのだ。



「――それで、何かよさそうなものあったか?」



 あるわけないだろ、と内心毒づきながら、朔夜は出したスクリーンをまといつかせたまま近場の本をめくった。


 図書館の本は一枚一枚半液体ポリマーで綺麗に包装されていて、破れにくく工夫されている。

 そんなものに費用と労力を裂くのだったら、すべて電子本にすればいいのにと思うが、ここを管理している中央の事務官はそうは考えないらしい。

 明らかに読みにくく、更には持ちにくい希少性の高い蔵本を書庫や閉架にしまわず、いつまでも開架などに並べている。


 朔夜は開いたページに一瞥もくれずに腕の下に敷くと、真正面にいるシンを見た。



「似ているものなら何でも持ってこいって、その時代のものならどれも全部怪しく見える。あんたの云った範囲が少し広すぎるんだよ。もっと狭めることとか出来ないの。それに今やってることもどうかと思う。これで本当におれの想像の産物だとしたら時間の無駄もいいところだ」



 もう十日も探しているのに何の成果も上がらないと云う朔夜に、シンは眉根を寄せた。



「そうか? こうやって協力して探したりするのって、面白いじゃないか」



「面白くない」



 即座に返答した朔夜にシンは、はあ、と演技臭く溜息をついてみせる。



「朔夜はやっぱりおれと一緒にいると、苦痛なんだな」



「……あんたといることがどうとかってことじゃなくて、今は無駄骨っていうことについて話をしてるんだ」



 苦虫を噛み潰したような顔で告げた朔夜を見て、シンは突然表情をゆるめた。


 明るく笑うシンに、朔夜は意味が分からずに眉根を寄せる。



「何だよ」



「お前って凄い律儀」



 シンは机に腕を擦りつけるようにしてにじり寄った。



「おれの云ってることにわざわざ、反応しなくてもいいんだぞ」



 顔に熱がいくのがわかった。掌を頬に当てる朔夜にもう一度にっと笑ってみせ、それに、と付け加えた。



「存外時間の無駄でもない」



「どういうこと?」



「これを」



 云いながら、シンは持っていた本を朔夜に渡した。腰を浮かして反対側から本を見、沢山ある写真の内の一つを指差す。



「これ……」



 朔夜は顔を曇らせて、もう一度本に載った写真に視線を落とした。



「な、お前の描いた絵の建物と似てる」



 ドーム型をしたその建築物はシンの云うとおり、夢の中の民家と通じるところがあった。

 本当にあるのかと我が目を疑う朔夜に、シンは本を傾けて表紙のタイトルを見せた。

 小難しそうな表題が刻まれたそれに辟易しかけたが、そのすぐ下にある著者名を見て朔夜は顔色を変えた。



「アルフレッド・ヤーンス?」



 シンは頷いて本をめくった。半液体ポリマーカバーのおかげで本のページも載せられている写真も全く色褪せていない。



「朔夜の故郷のヤーンスはこのドーム建築タイプだろ。だからそれの線で探したらあったんだ。あの街を造るにあたってアルフレッド・ヤーンスが一体どの建築に影響を受けたのか。彼が影響を受けたとされる建築家は七人いて、それぞれがかなり有名な建物を建てている」



「じゃあ、それが?」



 シンはゆっくりかぶりを振った。



「残念ながら現存しているものは地球にはない。この七名の建築家は総じて暗澹前の人間なんだ。建築物は五百年の間に荒廃して、新都市建設の際に全部壊された」



「へえ、じゃあおれのは結局夢だってことだな。ヤーンスはおれの故郷なんだし、夢に現実の影響が出るのは普通だろ」



 まとまってよかったなと新たなホログラフィースクリーンを出し、レンタルしたばかりの図書を返却しようとする朔夜に、シンはまだ話は続いていると冷静に告げた。



「おれは地球には、と云った。早合点するな」



 シンはかたわらからフィルムを手に取ると、本の山をどかして端末を出した。


 ホログラフィーキーを動かして目的の箇所を見つけ、マーキングをして画面を反転させる。



「そこにあるだろ。火星移住って。そこでいくつかの建築に携わったらしい」



「らしいって?」



「火星だから確かじゃないんだ。あそこから帰ってきた人間は地球にはいないし、この情報だって、虐殺された研究員が送ってきた資料からだしな。映像は付加されていないし、詳しいことはわからない」



「じゃあどっちにしても確かめるのは無理だな」



「この人間についてはな。だが残り、六人のうちの一人が月移住だ」



 月。


 その単語を聞いた途端、こめかみがびりっとした痛みを発した。

 感電したような痛みに思わず頭を押さえる。



「朔夜?」



「何でもない」



「月ならば、今度の演習旅行の日程にもあるし、確かめられるかもしれない。三人はこの時代ではないから論外だし、残りの一人はあの病に倒れ早世した。その二人についてのものしか現存していないんだ」



「たまたま行った演習旅行先が夢の中の街ね。あんたのロマン思考にぴったりだ」



 いやみたっぷりのその口調に、さすがにシンも顔をしかめた。



「何が云いたい」



「別に。思ったことを発言しただけ。大体確かめてどうするわけ? もし仮にその月だとして、行って違ったらどうするんだよ」



「それで終わりだ。他に何かあるのか?」



「何がしたいのか分からない。なんかそこまで熱心に調べられると気持ち悪い」



 朔夜が苛立ちかけているのをシンは理解したようだ。小さく音を立てて本を閉じ、鋭い眼差しで真っ直ぐ朔夜を射抜く。


 勝手に怒りはじめたのはこちらなので、決まり悪いような気分になってつと目を逸らすと、シンは捜査だ、と告げた。



「は?」



「だから捜査だ。こうやって可能性を一つ一つつぶして『ユエ』の正体を確かめる」



「ゆえ?」



 あまりにも意外だったのか、その名を耳にした途端、朔夜の中から苛立ちが消えた。

 いぶかしがる朔夜にシンは大きく頷く。



「朔夜、あれは殺人未遂事件だ。おれはその被害者。警察が捜査出来ない領分ならば自分で犯人の目星をつけるのは当然だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る