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その日の座学はいやに覚醒者が多かった。ルオウ教官が何を云ったのか、その場に居合わせなかった朔夜には知るよしもなかったが、その影響は少なからずあったようだ。朝練明けの一時限から八割以上もの人間がぴんと背を正して授業に聞き入っている。
物理
朔夜は最後尾の席から教室内を見下ろし、この状態はいつまで続けられるだろう、と思った。
結局その日の授業は皆終始やる気満々で、朔夜はその熱気に当てられてすっかり辟易していた。
足取り重く、図書館へ向かう。いつものように本を読もうと思ったが何となくそんな気になれず、朔夜はエレベーターで五階にあがった。
この階は生物関連の書物が主に置いてある場所で、朔夜は最近よくここに来ていた。
花について調べるためだ。
朔夜は覚えていなかったのだが、かなり前にゆえに花を見せると約束していたらしい。
先週、彼女自身からその話を聞かされた朔夜は、それから花について調べていた。
だがいまだにどの花を持っていくかも決まらない。それによくよく考えると、夢の中に花を持っていく方法がわからなかった。
方法はあとで考えよう。
もう何度も通った道を歩き、植物のコーナーに向かう。
その途中、視界の端に何かが入ってきた。その正体はわからなかったが、朔夜は何故かそれが気になって足を止めた。
「ライザー?」
吹き抜けをはさんだ向かいの廊下に、金色の髪を揺らして歩く少年の姿がある。
時折人陰に隠れて見えなくなったりしたが、しゃんとした歩き方や立っているだけで人目を引きつけるその姿は、まぎれもなくシン・ライザーだった。
幾冊かの分厚い書物を小脇に抱え、ブースを目指している。
いつもなら何故あいつに注目しなければならない、と苛立ちまぎれに思いすぐに目を逸らすはずの朔夜だったが、このときはそうすることが出来なかった。
本を抱えた方とは逆の、朔夜に向けた側の腕にはめられた白い物体が視線を釘付けにしたのだ。
それは医療用の金属ギプスだった。深い切り傷を負ったときなどに使う細胞再生促進装置で、朔夜の自宅にも似たようなものがある。
つまるところシンは怪我をしたらしいのだが、朔夜はそれに何となく違和感を覚えた。
運動審査ではいつも上位に名を連ねるシンが医療器具の世話になっているということが意外なのかもしれない。
朔夜は眉根を寄せ、向かいの廊下を闊歩する少年を見送った。
シンの姿はゆるやかにせりあがった欄干の影に隠れ、やがて見えなくなった。
◇
ナーサリーの特別クラスでは月に一度、健康診断を兼ねた体内審査が行われる。それは一週間に一回しかない休日を潰すため、生徒たちから大いに嫌がられている行事だった。
医局エリアの中に入っている部署を巡って、検査を受ける――ただそれだけのことなのだが全部で二十三箇所もあるため、休日の大半はこれに費やされた。
この日も生徒たちは口々に文句を云い合いながら寮を出て行った。
巡る順番に指定はないので大抵の人間は友人同士つるんで回っている。
朔夜は当然のことながらいつも独りでこなしていた。
耳鼻咽喉科、眼科、消化器科、呼吸器科、循環器科、内分泌科、血液科、神経内科。
主要エリアをぐるりと回り、最後の一つである精神科に辿り着く。
朔夜はここの主管軍医がとても苦手だった。扉の前で大きく溜息をつき、思い切ったようにスティックを脇のリーダーに通す。そして扉が開くや否や敬礼をした。
「番号十四、サクヤ・キサラギ入ります」
中央統括司令部の青年に会ってからというもの、朔夜は自分なりに完璧な敬礼について思案を重ねていた。
朔夜は内心決まったと思ったが、内部にいた軍医はそれを見ていなかった。
朔夜が手をおろしたあとで見計らったように顔をあげ、そこに入ってと、球体を割ったような形の椅子を顎で指し示した。
愛想の欠片もないその態度は相変わらずだ。
朔夜は父親の旧友で、家にも何度か来たことがある精神科主管軍医、アスラリエ・ファサーン・ジグラに一礼を行い、看護師がうながすままに椅子に座った。
「横になって」
看護師に云われた通りにすると、リクライニングシート型のウォーターチェアは音もなしにゆっくりと沈んだ。中の水を
「それでは始めます」
朔夜がそれに首肯すると、球体の上部がゆるやかにおりてきた。
外から注がれる光が、上から覆いかぶさる影にじょじょに取り込まれていく。そして数十秒も経たないうちにあたりはすっかり漆黒の闇に侵された。ウォーターチェアとほぼ同じに設定された温度がやんわりと体を包み込み、眠気を促進させる。
瞼はじょじょに重みを増し、朔夜は耐えかねたように何度か欠伸をした。
温かな椅子の膜が同じ温度の空気と混じり、体温に溶け込んでいく。
目をつむるとその境はますますわからなくなった。体がこの空間に溶けてしまったのか、それとも空間全てが自分なのか。それを考える朔夜自身の意識もゆるやかに霧散していった。
そして――
「お疲れ様」
看護師のその一言で朔夜は自分が眠っていたことに気がついた。
天井から注ぐまぶしい光に目を細め、シートの上で首を回す。
時間を確認すると、普段と同じようにきっかり一時間経っていた。そのたった一時間で熟睡した後のような充足感が得られた。もう少しかかっていたいと、名残惜しそうにシートを見つめながら立ちあがる。
球体の脇に設置された端末をいじっていた看護師が顔をあげ、朔夜に検査の終了を伝えた。
相も変わらずおかしな検査だ。
朔夜は何をやっているのかいまだに分からないこの不可思議な検査に首を傾げながら、制服の
ふとジグラ軍医を見ると、彼はコンピュータのホログラフィースクリーンを熱心に眺めていた。
あそこに今の検査結果が出ているのだろうか。
朔夜は首を伸ばすようにして蛍光緑の画面を見ようとしたが、途中で断念し、かねてから訊こうと思っていた事柄について話すことにした。
「あの」
端末に現れた数値を睨むように見ていた軍医は、そのためらいがちな声に顔をあげた。
ジグラの鋭い目とぶつかった瞬間、朔夜は心臓が締めつけられるような感覚に襲われた。
こめかみに頭痛の気配を感じ、朔夜は早くも後悔した。けれどここで逃げ出したら、話しかけた意味がない。朔夜は身震いしながら、必死に言葉を紡いだ。
「……先週、発作があったんですけど、医局では熱があるとだけ診断されたらしくて、休憩室で横になるだけの処置しか受けませんでした。いつもの発作と同じような感じだったんですけど、発作じゃなかったんでしょうか」
「ああ、この間の。あのとき、当初から熱はあったのか?」
「いえ、授業を聞いていたら、はじめに心臓が痛くなってそれから頭痛がしました。それからのことはよく覚えていません。でも倒れたときは熱なんてなかったと思います。嫌な夢を見て、目が覚めたら発作が起きました。熱があったのはそのあとです」
「夢ね、どんな内容だった?」
「よく覚えていません。ただ父と母の夢を見たことは覚えています」
軍医は朔夜の話を聴いて、少し考え込むような表情を見せたあと「ふーん、この数値はそれでかな」と独り言のように云った。それから背もたれをわずかに後ろに倒し、ふんぞり返るような姿勢で告げた。
「他の場所で何か云われたりしたようなことは?」
「? いいえ」
「あのあと君の自室に軍医が来ただろう。そのとき測った脳波計数値も普通だったのか?」
云われて朔夜は、それを測った軍医が少しの間黙ったのを思い出した。しかし結果が異常かどうかは知らされていない。
何か重大な疾患でも抱えているのだろうか。
顔を曇らせる朔夜にジグラはふっと嘆息した。
「――病気ではないから心配はしなくていい。それと、休憩室の件は私の判断だ。君はカプセルを使用すると発作を起こしやすくなる。ちょうど保健室では空いているベッドがそれしかなかったから、休憩室に移したまでだ」
「あ……、そう……だったんですか……」
朔夜はその台詞に微妙な違和感を覚えたが、ジグラの無表情からは真意が分からず、結局その答えで納得するしかなかった。
「いつもの薬、出しておくからそれをきちんと服用しておけ。それから発作が起きたときはすぐに報告するように」
「分かりました」
朔夜は
しかし寮に帰る気もなかったので、医局エリアから真っ直ぐ図書館に向かうことにした。
「キサラギ!」
図書館へと向かう道すがら唐突に名前を呼ばれた。
ふりかえるとそこにはあのオレンジ髪の少年がいた。暗記しようと念じたおかげで今度は忘れていない。しかし名前については元々知らなかったため、どうにもならなかった。
いまだ名前のわからぬ少年に向かって何の用、とばかりに首を傾げる。すると少年は開口一番にこう云った。
「ライザーの具合はどう?」
それで朔夜の機嫌は一気に地の底に落ちた。
「は?」
口から出た声は随分と冷ややかだった。
けれど朔夜はそれを隠そうともせず、逆に苛立ちを顔に出しながら少年を見た。
何でこんなところであいつの話題を聴かなくてはならない。
お決まりのむかつきが先程までは凪いでいた心を掻き乱す。
少年は機嫌を損ねたふうに顔を強張らせる朔夜をいぶかしげに見た。
「知らないのか? キサラギ」
「何を」
反問すると、少年はまるで知らないということが罪であるかのように大袈裟に顔をそばめた。
それから知らせるべきかどうかとしばらく
「ライザー、昨日上から落ちてきた機材で腕に怪我をしたんだ」
それは少年の大層な振りからすれば実に何でもないことだった。しかし朔夜は酷く動揺した。
「え……」
「本当はちゃんと避けられたはずだったんだけど、オレが運悪くそこを通りかかったから、それで庇って……」
オレンジ髪の少年はシンの負傷にかなりの責任を感じているらしかった。
絞り出すような小さな声でシンが怪我したときの様子を告げると、じゃあと軽く手をあげて、行ってしまった。
何をしにやってきたのだろうか。
普段なら少年の行動に疑問を感じたはずだったが、今回はそんなふうに思わなかった。
「怪我……」
少年の去った方を見て朔夜はポツリと呟いた。
酷い不安感が心の内を真っ黒く染め、心臓がはちきれんばかりに波打っている。
云い知れぬ不安感。
朔夜はそれを押さえようとするかのように胸元を押さえ、そっとうつむいた。
何故かとても嫌な予感がした。
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