7

 次の日、朔夜は少し遅めに仕度をして部屋を出た。


 いつもより遅いというだけあってエレベーターは普段乗っているものよりもずっと混んでいる。

 乗れないわけではないのだが、朝っぱらから窮屈な思いをするのは嫌だったので、非常階段を利用することにした。


 円形ホールに七つ並んだ扉の一つは寮部屋ではなく、この非常階段に続いている。非常階段は寮塔の内部に設置されている。ナーサリーの寮塔はちょうど三重のチューブ構造になっていて、非常階段は一番外側と中間のチューブの間にあった。


 朔夜は一つだけ色の違うその扉を開け、一階まで続く螺旋階段をおりていった。非常階段での行き来は時間がかかるため利用する人間はほとんどいない。


 一階のエントランスホールに着いて時間を確認すると、普段よりもかなり遅かったが、それでも朝練の集合時間まではまだ間があった。


 いつもそんなに早く出ていたのか、と驚きながら壁に身をもたせかける。


 朔夜がその姿勢を取ってまもなく、シンはやってきた。眼鏡をかけた少年と話しながらエレベーターを降りた彼は、朔夜の姿を見るなり、普段から大きな目をさらに見開いた。



「朔……」



 エレベーターから降りたナーサリーの生徒たちが口々に話しながら二人の間を通っていく。


 眼鏡の少年は朔夜とシンを交互に見つめたのち、先に行くからと云って、エントランスを出ていった。



 急に人がいなくなったためか、エントランスの空気は痛いくらいに張りつめている。微妙な緊張感が混ざったそれは互いの感情が溶けたものかもしれなかった。


 シンはあの図書館前での一件がよほど応えているらしく、朔夜が目の前にいても何も云わない。うつむき加減の少年に朔夜は苛々したが、それと同時に胃がつんと痛むのを感じた。悲しいくらいに引きつったその痛みに朔夜は顔をしかめた。



 罪悪感か。



 一瞬感じたその感覚をそんな馬鹿なと、一笑に付(ふ)すと、朔夜は気まずい空気を打破しようと声をあげた。



「この間……」



 その声は冷たいくらいに静かなエントランスに響きわたった。思いのほか大きかったその声に驚いて、慌てて声を抑える。シンがふっと顔をあげてこちらを見たのが目の端に映った。



「休憩室で……その……悪かったなって。遅くなったけど……礼を云おうと思って……」



 云いながら朔夜は顔がかっと熱くなるのを感じた。今すぐここから逃げ出してしまいたいくらいに恥ずかしい。歯切れ悪く謝る朔夜にシンは驚いたような顔をした。



「い……いいんだ、そんなこと。別に何もしていないし……。それに……カード返してくれたの、朔だろ? おれも礼を云わなければならなかったから……」



 シンが早口でそう云い切ってしまうと、二人の間にはまた妙な沈黙が流れた。感情にずれがあるためか、分断された場の空気は酷く気持ちが悪い。


 朔夜は先に行きたいという気持ちを抑えながら、歩き始めたシンのあとに続いた。

 左腕にめられたガントレットタイプの再生装置がカチャカチャと音を立てる。朔夜はそれを見るたびに先日も感じた不安感に襲われた。



 エントランスを出ると、室内よりもさらにまぶしい光が降りそそいだ。白熱電球のような光を発する人工太陽は朝方のせいか、その輝きのわりに随分と柔らかな光を投げてよこす。

 晴れの日に設定された天井のスクリーンは濃いスカイブルー。遠くの方に、水面に浮かべた綿のような形の雲がいくつか並んでいる。

 第九エリアに訪れた久々の晴れ間に朔夜は目を細めた。

 夏とは思えぬ涼やかな空気が木立をざわめかせ、頬をくすぐる。



「いい天気だな」



 シンは呟くように云うと、行く手に伸びた石畳の上を歩き始めた。


 所々黒ずんだ石畳は陽光に照らされて鈍いきらめきを放っている。

 色とりどりの小さな花を咲かせる草原は一面エメラルドグリーンで、風が吹くたびに丘の上に濃緑の波線が出来た。かたわらに生えた桜の木がざわざわと鳴いている。それは石畳の上にこぼれ落ちた光を忙しなく揺動させ、影の絵を変えた。万華鏡のように次々と姿を変える木漏れ日。



 林冠から漏れる光で出来た明るい花を体に貼りつけ、朔夜とシンはゆるやかななぞえを描く石畳の道を歩いた。

 しかしどこまでいっても二人の間に会話はなく、風が奏でる木立のざわめきと周囲の生徒たちの話し声が音の全てだった。


 張りつめた空気はまるで凝固した水のようで、じょじょに高くなっていく気温に晒されても溶けることはなかった。朔夜はその冷え切った空気から逃れるようにシンから視線を外した。


 桜並木の合間から見える丘陵は群生したコスモスによって白やピンク、赤に染まっている。朔夜はしばらくそれらに視線を傾けていたが、隣で響く金属の摩擦音にどうしても意識が引っ張られる。


 何気なさを装いながら隣を盗み見ると、シンは頭上の葉群はむらに目を向けていた。湿り気のある熱風に晒されて金の髪がさらさらと揺れている。


 時折、夏季用のハーフスリーブの制服から白いかいなが伸びて髪を撫ぜた。陶器のように滑らかなそのはだえに少しばかり心拍が早くなる。

 すっと伸びた形のいい鼻梁が目立つ、端整な横顔。同性とは思えぬほど違うつくりをしたそれに、朔夜は変な気分になった。

 心の奥にくすぶった苛立ちがまた湧きあがろうとしている。



「どうした?」



 不意にかけられた声に朔夜ははっとした。

 画面の中央ではシンがいぶかしげな顔をしてこちらを見ている。

 水紋に似た模様の木漏れ日が薄暗がりの中で揺動し、顔の上に白と黒の文様を描き出していた。



「何でもない」



 ちらちらと光るまぶしい揺らぎに手をかざしながら、視線を外そうとして朔夜は止まった。林冠から漏れる光に混じって頭上から何かがぱらぱらと降ってきている。


 朔夜は何だと思いながら制服に付着したそれを取った。湿り気のある細かい塵。



 木屑?



 朔夜は眉をひそめて頭上を見、次の瞬間叫んでいた。



「ライザー!」



 風が二人の間を分断する。


 目の前を巨大な何かが埋め尽くし、地鳴りのような大きな音が少し遅れて大気を震わせた。

 緑色の木の葉がばらばらと散り、明るい光が頭上から降り注ぐ。


 何が起きたのかわからなかった。


 朔夜は尻餅をついたまま、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。


 ぽっかりと開いた空間からそそぐまぶしい熱が、制服からのぞく腕をじりじりと焼いている。


 顔には早くも汗が滲んでいたが、朔夜は拭いもせずに頭上から降ってきた太い枝を見ていた。



「ライザー? 」



 人の体ほどもある巨大な枝葉は、石畳の上に木屑を撒き散らし沈黙していた。


 時間が凍りついてしまったかのようだ。音も何も聞こえない。視界に映る景色は先程と何も変わらないのに、色が認識出来なかった。

 いつの間にかついていた腰を持ちあげ、よろよろと起きる。酷い眩暈がした。

 そのままふらふらと折れた枝に近寄ると、焦茶色の影から琥珀色の髪が視界に入った。



「朔、大丈夫か?!」



 枝の影からシンが現れた。びくりとしてのけぞるとシンは軽々と枝を跳び越えて目の前にやってきた。


 怪我はないかと云いながら、下から心配そうに見上げてくる。


 薄茶の目に朔夜の姿とその上で揺れる木漏れ日が映り込む。

 木々がざわめく音。凝固していた時間が再び動き出し、音と色が戻ってくる。



「――その腕……あんたの方こそ、怪我は?」



 重たげに垂らした左腕には木漏れ日を反射して鋭く光る白の金属がめられている。シンは朔夜の顔と自分の腕を見比べると、かすかに笑った。



「おれは平気だ。それよりお前の方は大丈夫か? あの枝が当たると思って力いっぱい突き飛ばしたから」



 それで尻餅をついていたのか。


 ようやく合点がいき、朔夜は小さく、平気、とだけ云った。



 遠くの方から声が聞こえた。

 首を傾けると、向こうの方から音を聞きつけた生徒たちが集まってくるところだった。口々に大丈夫かと云いながら二人を取り囲む。

 朔夜はそれだけで心労を感じた。早くこの場から離れたい。そう思っていると、シンはおもむろに朔夜の腕を取り、枝の裏側に引っ張っていった。


 それから目前の生徒たちにルオウ教官にこのことを伝えてくれ、と告げる。

 野次馬たちはそれで、自分たちが今早朝練習に向かっている途中だということに気がついたらしい。互いに目を見合わせ、その場から離れていった。



「枝が落ちてくる前、変わったことがあったか?」



 黒服の生徒たちが散っていく姿を一瞥してシンはふりかえった。ゆるくかぶりを振ると、シンは重々しく溜息をついた。



「最近、よく物が落ちてきたりするから、それで少し気になっているんだ。ナーサリーのコンピュータに侵入された痕跡があるってライカが云ってたし――まぁ、おれの杞憂だとは思っているんだけどな」



 朔夜の中にまたあの不安の塊が現れた。

 何か重大なことを忘れている気がする。朔夜が顔を曇らせていると、シンは大丈夫とばかりに一笑してみせた。柔らかな微笑。いつもはきつめな表情が驚くくらい、優しげなものに変わる。


 シンはそのままその場に屈み込み、枝からこぼれた木屑を手に取った。焦茶色をしたそれは掌の上でわずかに形を崩した。



「腐ってるな――これじゃあ倒れても仕方ないか……」



 シンは合点がいないような口調で呟くと、崩れた木屑をぎゅっと握りしめて立ちあがった。

 埃のついた制服を片手で軽くはたき、朔夜の方を向いて行こうと促す。


 朔夜はそのあとに無言のまま従った。



 早朝練習のグラウンドに向かう石畳の道には誰もいない。

 海潮音のような鳴りが響く木立の合間を抜けて歩いていると、不意に視界の端にコスモスが群生する丘陵が見えた。緑色の丘に広がる淡いピンクの絨毯。



 花。



 そう思った途端、心の底にこごった不安感が何かと絡み合った。



―――でもいなくなればいいって思ったこともあるんだよね



 不安の糸はその何かとあざない、溶け合って一本のひもとなった。

 息が触れ合うくらい近くにいた少女の姿が脳裏に浮かびあがる。首筋に腕を絡め、嫣然えんぜんと微笑む。



―――大丈夫、わたしはいつでも朔夜の味方だよ



 それはまるでパズルのピースが嵌まったような感覚だった。どろりとした質感の闇が、体の内から皮膚を撫であげる。恐怖と絶望がいまぜになったその感覚に、朔夜は唖然となった。


 遠くの方でシンが呼んでいるのが聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る