5
真っ青な空間に白い燐光が踊る。
蛍の光というには発色が淡く、雪というには輝き過ぎているその光は、山脈の
ゴムボールが跳ねる様子をスローモーションで再生したような動きで跳び回る光。その光は、薄ぼんやりとした煙のような筋を中空に残しながら屋根の上を跳躍した。小さな丸い粒がきらきらと虚空に散る。
朔夜は次第に溶暗していくパステルホワイトの軌跡を追うようにしてその後方の屋根を蹴った。
体がふわりと宙に浮き、スモックのような形状をしたパジャマの裾がゆるやかに波打つ。空に放たれた体の下には、先程蹴ったばかりの民家の丸い屋根が見えた。
空を飛ぶ鳥はいつもこんな景色を見ているのだろうかと思いながら、眼下を埋め尽くすドーム群を
そんな闇にまみれた世界で唯一の光をまとう少女は、生物のいないこの空間で確かに息づいている。
朔夜は夢とはいえ、にわかにはそうと思えないほどリアルなこの世界を見下ろして、そっと眉根を寄せた。
青いセロファン越しにのぞいたような地上には、一目で少女とわかる白い光が見える。
いつの間にあんなところまで行ったんだ。
朔夜は再び顔をしかめ、あるかなしかの弱々しい重力に引っ張られてゆっくりと落ちはじめる体をどうにかしてコントロール出来ないかと考えた。
答えも出ないまま地上に降り立ち、もう一度、次はいつもとは異なる角度で強く屋根を蹴ってみた。すると強く蹴ったのがよかったのか、角度がよかったのか、先程よりも早く地面に着くことが出来た。
この調子で行けば追いつくかもしれない。朔夜は極力同じように屋根を蹴りながら、前を行く白い残光を追った。
「ゆえ!」
長い髪が横へふわりと棚引き、白の
きらきらした光の粒が淡い色の髪の先からこぼれおちる。こちらを見る優しげな青の
「どうしたの? 今日は随分速い」
朔夜はそれを聞いて憮然とした表情を作った。
ゆえが云う通り、今日はいつにもまして早く跳べたと思うし、調子もよかった。それにもかかわらず朔夜とゆえの間には必ず一跳躍分の差がついている。距離にしてみれば二人の間は人一人分というところだったが、そこにはどうしても埋められない溝のようなものがあった。
ゆえは下に朔夜は上に。
また少しずつ開いていく差を怒ったように眺めやり、朔夜はつぶやいた。
「速すぎる」
云うと、ゆえはふふっと微笑って体をひねらせた。幾重にも折り重なった花びらのようなフレアが青の中空に咲く。
瞬間、朔夜は腕を強くひっぱられた。突然の出来事に朔夜は戸惑ったが、宙に浮いた状態では落ちていく方向は変えられない。
朔夜はゆえの胸元に飛び込むような形になり、二人は海の底の街にゆっくりと沈んでいった。
「今日はどこに行く?」
民家の屋根の上を指定した場所までどれだけ早く跳んでいけるか、というのが先程まで二人が興じていたゲームの内容だ。
現実世界で同年代の子供と遊んだ記憶がなかった朔夜は当初、この単純なゲームに熱中していた。しかしこの世界の住人だけあってゆえは強く、朔夜はこの遊びをやるたびに連敗記録を更新し続けていた。そのため、最近は滅多にやらなかったのだが、ついこの間見た夢がきっかけとなってこのゲームは再開することとなった。
その夢はゆえがこの世界にいないという内容で、ただそれだけの夢なのだが、朔夜を不安にするには充分だった。
不安に駆られたのはもしかしたら中央の塔を間近で見たせいなのかもしれない。
しかし今現在、朔夜はその存在を後方に感じていたが、特に恐ろしいとは感じなかった。
「どこでも。それよりあそこの塔のことなんだけど」
言下にゆえの顔が強張った。
「――駄目。前にも云ったじゃない。あそこは怖いから、だから行かないで。――お願い……」
「……わかった」
意味がわからなかったが、それ以上訊ける空気でもなかった。おざなりに返事をかえし、朔夜は民家の屋根に寝転がった。
久々のゲームにすっかり息はあがっている。朔夜は吐息を風に流しながら、天上を見つめた。
空にはあの日と同じように真っ黒なスクリーンが貼りつけられていたが、やはりそれに恐怖を感じることはなかった。やはりゆえがいるかいないかが問題なのだろうか。それともあのときの夢は体調が不完全だったからこそ見た夢だったのだろうか。そんなことをぼんやりと考えているとゆえが横でつぶやくような小さな声をあげた。
「シンって人のこと考えてるの?」
何でここにあいつの名が出てくるんだ。
朔夜は思いっきり顔をしかめた。
そんなことは考えていないときっぱり云い切ることも出来たというのに、シンの話になると朔夜はやはり感情を自制出来なかった。
苛々したように身を起こし、咎めるように少女の名を呼ぶ。
「ゆえ……」
すると少女はぐっと唇を噛み、うつむきざまにこう云った。
「……だって朔夜、最近そのことばかり考えてる」
そうだろうか。
朔夜は少女の言葉に不審を抱きながら眉根を寄せた。
するとゆえははじかれたように顔を上げ、そうだよ、と声を荒げた。
「朔夜、その人のこと嫌いって云ってなかった?」
そんなことは云っていないと思ったが、似たようなことを考えた覚えがあったため、朔夜は曖昧に返事をした。
「――嫌いというよりは苦手なんだ……」
脳裏にあの日のシンの姿が浮かびあがる。
暗がりの中、目を見開き呆然と立ちつくしていた少年。思い出したくなんてないのにその映像は頭の中に幾度となく挿入された。
思えばあの図書館での出来事から一度も面と向かって話していない。こうなることを望んでいたはずなのに、朔夜の中には今の状況を打破したいと考えているもう一人の自分がいた。
打破してどうするというのだ。
朔夜は胸の裏側を撫ぜるむかつきに耐えながら、さらに顔をしかめた。
あいつのことなど考えたくもない。
「でもいなくなればいいって思ったこともあるんだよね」
「ゆえ?」
少女が告げた突然の言葉に朔夜は眉根を寄せた。
首を傾げ、ゆえの方を見ると、刹那首筋に手が伸ばされた。両腕をうなじの上で絡められ、唇が耳たぶに触れる。
その感触に驚いて目の前の肩を押すと、少女は顔をあげ、朔夜を真正面から見つめてきた。
明るい白の光が煙のように揺らぎ、視界を侵す。それは陽光に照らされて目映いくらいに輝く雪原の色だった。
熱っぽく揺れる青の双眸が朔夜を映し込む。
「大丈夫、わたしはいつでも朔夜の味方だよ」
唐突に少女は微笑んだ。どきりとするくらい幼くて、それでいて艶やかな笑顔。
いつもは幼げな顔がその時ばかりは円熟した女のそれに思えて、朔夜は背筋が凍りつくのを感じた。
dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……
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