4

 再び目が覚めたとき、朔夜の体は倦怠感に包まれていた。発作のあとはいつもそうだ。


 朔夜は横になったまま、ベッドの上で伸びをした。爽快な疲労感が体の中を突き抜けていく。

 腕をあげたまま仰いだ天井は、オレンジ色に染まっていた。



「もう……そんな時間か……」



 息を吐きながらゆっくり身を起こすと、部屋の中はすっかり夕暮れの色だった。

 大きな窓が投影するイメージ映像の光が差し込んでいる。黄桃、白桃、ビワ、オレンジ。甘い色をのせた幾筋もの光が部屋の中を満たした。


 空気は確かに透明なはずなのに、部屋の中は金箔を貼りつけたように輝いている。あまりのまぶしさに朔夜は手をかざして、ちょっとだけ目を細めた。



 シーツの上に落ちた透明な板が陽光を受けて水晶のようにきらきら光っている。朔夜は指を絡めてもう一度伸びをすると、散乱した薬をケースに一枚一枚戻していった。


 根のような形の皺のくぼみに柿色の光が溜まっている。窓から注ぐ斜光に照らされて室内を舞う粒子が金色に輝いた。



 ベッドの上に座ったままの姿勢で、朔夜は光のシャワーを浴びた。

 玻璃はりの欠片、はたまた金粉のようにきらきらと輝く微細な粒。それは薄日が射す中に降る粉雪に似ていた。


 同じような光景を昔もどこかで見たことがある。低く垂れ込めた曇天からのぞく晴れ間。羽根のように舞い散る牡丹雪。濡れた石畳。それらを背景にして誰かが目の前に立っていた。



―――ごめん、朔夜



 そこにはその言葉を発した人物がいたはすなのに朔夜の記憶の中には誰もいなかった。ただ声だけが虚しくその場に満ちる。



―――ごめん



 嘘つき。朔夜の中に絶望にも似た真っ黒な感情が現れた。ごめん。壊れた録音機のように同じ言葉が朔夜の頭の中に挿入される。



 ごめん、ごめん、ごめん――



 朔夜はびりっと痛んだこめかみを両手で包むようにして抱え込んだ。金色の光が音もなく降りそそぐ。ベッドの上の薬がその光に照らされてきらりと光った。



「集めないと……」



 よろよろと手を伸ばし、板を取りあげる。

 咳込んだときにまきちらしたのか、薬はあちこちに散乱していた。


 朔夜はベッドの上のものをすべて取り切ると、床に落ちたものがないか調べるために寝台から降りた。

 まるみを帯びた形のベッドの影には闇がこごっている。すくえるような暗がりの中で朔夜は薬を探した。

 ベッドの上では光を反射してきらきら光っていたのでまだ判別しやすかったが、暗い場所で透明なものを見つけ出すのは難儀だ。


 かきまわすように影の中で手を動かしていると鈍い光沢を放つ薄いカードを見つけた。爪で剥がすようにして床から拾いあげたそれは、陽光に照らされてギラリと光った。



「フィルムカード?」



 黒字の細かいナンバーが並んだ小さなカードに、朔夜は見覚えがあった。ナーサリーの図書館のものだ。誰かが落としていったらしい。


 前にここを使った人間の忘れ物だろうか。

 カードを持ったまま、朔夜は考え込むように中空を仰いだ。

 天井は黄色というより朱色に近い色になっていた。金と赤が混ざった世界はリチウムが放つ炎に似ている。


 しばらく記憶をたどっていると、朔夜は突然嫌な気分に襲われた。



 そうだ、酷い夢を見たんだ。



 朔夜は皺だらけの制服の胸元を握りしめた。この世の終わりを見ているような、黒ずんだ気持ちの悪い夢。内容はまるで覚えていなかったが、夢を見たということを思い出すだけで、あの嫌な感覚が体の奥底から込みあげてくる。


 朔夜はその感覚を忘れようと、その後のことに頭を巡らせた。発作があったのは覚えている。久方ぶりの発作で、苦しくて、抑えるために薬を飲んだ。



―――朔



 脳裏に声が響きわたった。次いで額に置かれた熱冷ましのためのジェルと冷たい指の感触が蘇る。心臓がぎゅっと萎縮した。



 朔。その名で朔夜のことを呼ぶ人間などサテライトでは一人しかいない。琥珀色の髪と目を持ったルームメイト。


 認識した途端、朔夜の顔面はかっと熱くなった。



 何て失態だ。ほとんど意識がなかったとはいえ、これまで悪態をついてきた相手にあんな態度を取るとは。しかも呼ばれたことを嬉しく思い、なおかつ安心さえしてしまった。



 朔夜は熱くなった頭を大きく振り、薬のケースをスラックスの隠しにつっこんだ。


 嫌な記憶はこの部屋を出るとともに忘れ去ろう。


 寝癖のついた髪を手櫛で直し、朔夜は机と鏡とベッドしかない小さな部屋を飛び出した。


 歩きはじめてすぐ、右手奥の透明な壁の向こうに見慣れたチューブ状の廊下が見えた。

 それで朔夜は、今まで自分がいた場所がナーサリーの休憩室だったということを理解した。保健室がある医局エリアは医師が常駐している場所ゆえ、違うということには気がついていたが、まさか休憩室とは思わなかった。


 倒れたはずなのに何故医局ではないのだろう。


 首を傾げながら歩いていると、突然後方から名前を呼ばれた。



「キサラギ!」



 振り返ったものの、朔夜の脳は案の定その人物を認識していなかった。

 小走りでこちらへ駆けてくる少年を誰だ、と眉をひそめて待つ。


 少年は髪を目立つ色のオレンジに染めていた。そういえばクラスのどこかにそんな色の髪をした人間がいたような気はする。朔夜がそんなことを思っている間に、そのオレンジ髪の少年は追いつき、隣に並んだ。



「具合、もういいのか?」



 片手に抱えた箱がカタカタと鳴っている。朔夜は音源の箱を一瞥して、首肯した。



「あまりに突然倒れるからオレはまたてっきりキサラギが不治の病でもわずらってるのかと思ったよ。熱があったって?」



「熱……」



 喘息だと診断されなかったのか。



 朔夜は意外に思いながらも、否定すると色々訊かれそうだったので一応頷いておいた。そして何故自分が保健室ではなく休憩室にいたのかがようやく理解出来た。


 保健室と休憩室の違いは軍医がいるかいないかの一点に絞られる。

 つまり朔夜が休憩室に寝かされていたということは、軍医に手当てする必要はなしと判断されたということだ。

 保健室にいてもあれこれ訊かれるだけで全くいいことはないし、何もなくとも、一月に一度必ずある健康診断及び体内検査では否応なしに医局に行かなくてはならない。


 本来なら短期間のうちに二回も行かなくてよかった、と喜ぶべきところなのだが、朔夜は腑に落ちない気分を味わっていた。


 あんなに尋常ではない痛みを発していたのに本当に何もないのか。あのとき熱なんてあったのか。


 朔夜には授業中のあの心臓と頭の痛みが休憩室送りになるほど軽いものだとは思えなかった。



「ライザーなんてさ、昼休み全部つぶしてお前の所に行ってたんだぜ」



 オレンジ髪の少年は目をすがめながら羨ましい奴と付け加えた。

 その明るい口調とは反対に朔夜の機嫌は急降下する。

 それまでの話は全く耳に入ってこなかったにもかかわらず、シンの名を出された途端反応してしまったのだ。胸を掻きむしりたくなるようなむかつきが胃の中に満ちていく。


 久々ながらその感覚はやはり、嫌悪をもたらす以外の何物でもなかった。不覚にも看病されたという事実がさらに気分を悪くする。羨ましがる少年と違い、朔夜はこれっぽっちも嬉しくなかった。



「キサラギ、何持ってんの?」



 少年は朔夜が握っていたカードに視線を落とし、指をさした。何も云わずにカードを差し出す。無意識の内にカードを強く握り締めていたらしく、掌がじわじわと痛んだ。



「フィルムカード? ふーん、本好きなんだ。どんなの読んでんの?」



 朔夜は否定しようとしたが、少年はそれよりも先にスティックを取り出してカードを通していた。

 学生証代わりのスティックはカードを通す線が脇に入っており、端末画面だけでなく、携帯用の電子本として使用することも出来る。


 少年はスティックを伸ばし、現れた画面に目を落とした。



「分子生物学的火星人生態論考……」



 読みあげたそのタイトルに朔夜は顔をひそめた。それから少年が開いた電子画面を横から盗み見る。そこには少年が声に出した通りのタイトルが記載されていた。



 こんな本を読んでいるのか。



 図書館で怒鳴ったときに見たシンの顔を思い出して、朔夜は眉間に皺を寄せた。

 あのときもこんな小難しそうなものを読んだあとだったのだろうか。朔夜はそんなことを思いながら、オレンジ髪の少年がめくる電子本の画面を見た。

 蟻の行列を上から見下ろしているような感覚に陥らせるほどの細かい字がスクリーンをびっしりと埋めつくしている。見ただけで立ちくらみがするようなその感じを味わったのは朔夜だけではなかったようだ。目を二、三度こすり、さらにばちばちとしばたたかせて、少年は少し慌てた様子でフィルムを抜いた。



「――何か難しそうな本だな。キサラギこんなの好きなんだ。オレ、本とかあんまり読まないから全然分かんないや」



 あはは、と軽く笑い少年は朔夜にカードを返した。


 シャツの胸ポケットに受け取ったそれを入れる。嬉しくはないが、見舞って貰った以上忘れ物の対処くらいはしてやろうと思った。

 幸いカードに記載された返却日は今日だったので、面と向かう必要もない。ここから図書館へ向かうにはどういうルートを行ったら早いだろう。朔夜は現在地と図書館の配置図を頭に思い浮かべた。



「あ―っ、今日はマジでびびった。ルオウ教官は突然名指ししてくるし、キサラギは倒れるし」



 同じくらいの距離がある二つのルートのどちらを選ぼうかと悩んでいると、隣の少年が突然そんなことを云った。朔夜は少年が何らかの動作をするたびに高らかに鳴る箱をそのつど横目で見ながら歩いた。



「――そういやキサラギが倒れたあと、ルオウ教官凄かったんだぜ。ホント凄い熱血教師ぶり。いつもやる気のないあの姿が演技だっていうエステバンの話はあながち外れてなかったってことだよな」



「熱血?」



 やる気のあるルオウの姿が想像出来ず朔夜は首を傾げた。



「そうそう、覚えてるか? ライカ・エステバン。お前のこと、ラギちゃんとか呼んでたスゲー背の低いやつ。今は腹立たしいことに背が伸びてきてるけど。最初の方一度だけ一緒に長距離走ったんだぜ?」



 朔夜はまるきり覚えていなかったが、無駄な説明を増やされるのが嫌だったので、やはり頷いておいた。

 オレンジ髪の少年はそれを見てほっとしたような表情を浮かべた。



「そうそれでそいつがさ、結構前に云ってたわけよ。ルオウ教官はわざとやる気のない素振りをしてるって。なんでそんなこと分かんだよって訊いたら、普通やる気のない人間が聴いてる生徒のほとんどいない授業をあんなに真面目にやるかよって云ってた。しかも本当にやる気のない人間とは目が違うんだってさ。あいつって何か変だけどそういうところの洞察力ってずば抜けてるんだよな。きっとああいう奴が試験に受かるんだろうなって思った。―――何か最近思うんだよ。ナーサリーが求めてる生徒って勉強が出来るとか、銃器の扱いが上手いとかそんなんじゃなくて素質なのかもって」



「素質?」



「そう、例えばエステバンの場合だったら、さっき云ったみたいな洞察力とか観察眼だろ。軍人っていってもただひたすら突っ込んで敵を薙ぎ倒すだけじゃないから、ああいった才能みたいのが必要なんだなって思ったんだ。でもオレ、自分で云うのもなんだけど体力はないし、頭だって十人並みくらいだし、そんな飛び抜けたような才能って持ってないんだよ。だから何かもう駄目かなあって――ってこんな話、キサラギにしても仕方ないよな。ごめん、ごめん」



 少年はオレンジの髪を片手で掻きながら曖昧に笑った。腕に抱えたケースがまたかちゃかちゃと音を立てる。何か重いものがたくさん入っているようなそんな音だった。

 何が入っているのかとじっと見ていると少年はその視線をたどって、気がついたらしい。箱に目をやって破顔した。



「ああ……これね。今日さ、演習で銃の組み立てやったんだけど、そのとき、色々部品があまってたから許可もらって借りてきたんだ。オレ、機械とかばらばらにして組み立てんのとか好きでさぁ。パーツを変えるだけで前とは全く違う性能になるとか、やりがいあると思わない? 今回は他にちょっと感じの良い金属もらえてさ、ああこれね。これを今作ってる最中のやつに組み込もうって思ってんだよ」



 訊かれても機械に何の興味も抱いたことのない朔夜に、その感覚はよく分からなかった。

 しかし箱の蓋を開けて中身を見せる少年の口ぶりを聞いて、ほんの少しだけ羨ましいと感じた。だからなのかもしれない。こんな役に立たない趣味よりエステバンのような才能が欲しかったと嘆く少年に、朔夜は呟くように小さな声で云った。



「才能」



「え?」



「それも才能の一種じゃないの」



 朔夜の言葉を訊いて少年は大きく目を見開いた。


 その表情に少し焦りを覚えながら、朔夜はカードを返しに行く旨を告げて、その場を離れた。背後で少年が朔夜の名を呼んでいたが、もう振り向かなかった。


 何となくもやもやした気分を胸の内に抱えたまま、図書館へ行き、カードを返却する。


 貸出機が照合している間、朔夜はオレンジ色の髪の少年の姿を脳裏に思い浮かべた。

 名前はわからなかったが、今度から姿かたちくらいは覚えていようと思った。

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