3

 目が覚めると辺りは真っ暗だった。


 繭玉まゆだまを半分に割った形の、その名もコクーンと呼ばれるベッドが空間を挟んだその向こうに置いてある。今、使用しているものと全く同じそれは、物心ついた頃からすでに存在していたものだった。



 寝ぼけ眼をこすり、そっと足を床へおろす。足は何も履いていない状態だったが、暖房が効いているらしくあまり気にならなかった。



 ふらふらした足取りで部屋を出ると、いつもは明るいはずの廊下もまた暗かった。


 霧がかかったような灰色っぽい暗闇。その闇に何かを思い出しかけて急に恐ろしくなった。

 あわだつ肌ごと体を抱きしめる。だが階段の欄干らんかんから見下ろすと、リビングは明るく、またかすかな話し声も聞こえた。

 ほっと肩を撫でおろし、ゆるいカーブを描く階段をそろそろとくだる。


 声は階上で耳にしたものよりもずっと明瞭に聴くことが出来た。

 男と女、二つの声。すぐにそれが父親と母親の声だというのが理解出来た。

 勇んで駆け寄ろうとしたが、母親のすすり泣き混じりの声がそれをすることを許さなかった。玄関とリビングの合間に立つ柱の陰に隠れて両親の方を窺う。



「マリア、もう諦めなさい」



 父親の声が聞こえた。いつもより厳しい感じがするその声音に、びくりと体を強張らせた。

 気丈な母親が漏らす泣き声が頭の中を混乱させる。

 しばらく父親は聞こえないくらい小さな声で何事かを囁いていたが、それも効果なしと見ると重々しい溜息を吐いた。



「お願いだから現実を見てくれ」



 母親は何度もかぶりを振った。父親はその肩をつかみ、自分の方へ向かせる。そして云った。



「あの子は……朔夜は死んだんだ」



「やめて!」



 言下に目の前が真っ暗になった。絶望と悲しみが混ざった、どこまでも深い闇。


 遠くの方で母親の悲鳴じみた声が聞こえた。その声は暗黒に染まった淵に波紋が広げる。


 一重ひとえ二重ふたえ三重みえ


 中心部から次々と繰り出されていく滑らかな黒い輪。それは草原を走る風のように闇の面を走り、あるところまで広がると力尽きでもしたように薄くなって消えた。

 いくつもの波紋がそんなふうにして現れては消え、あおぐろい揺動を残して暗闇へと還る。やがて最後の波紋が小さく輪を描いて溶けてしまうと深淵はすっかり静かになった。


 何の変化もないただの暗闇。しかし時間の経過とともに暗闇は少しずつ色を薄めていき、気がついたときには空間全体が青く染まっていた。


 ぼんやりとした青の空間は小糠雨こぬかあめが降る外の空気に似ていて、心なしかいつもよりしっとりとしているような気がしないでもない。


 黒い空、青い大気。どこまでも伸びる真っ直ぐな道路に淡青色みずいろに染まった沢山のドーム型の民家。生きているものの存在を感じないその空間は耳が痛くなるくらい静かで、寂しい場所だった。見慣れたいつもの風景。



 朔夜は裸の足でぺたぺたと道路を進んだ。

 いつも歩いている道路のはずなのに何故か今日に限って酷く恐ろしいもののように感じる。それは、本来浮くはずの体が妙に重くて浮かなかったり、この世界に入るとすぐに現れるはずの少女の姿がなかったり、といつもとは違うパターンで物事が起こっているということが起因しているのかもしれない。



「ゆえ」



 朔夜はこの空間の唯一の住人である少女の名をそっと呼んだ。

 新手の遊びを自分に仕掛けようと隠れているのではないかと思ったのだ。しかしいくら呼ぼうが少女は現れず、声だけが虚しく大気に溶けていった。


 仕方がないと諦め、朔夜は数百メートルはあろうかという幅の広い道路の真ん中を歩いていった。平素は寂しいくらいにがらんとしたこの空間が今日は何やら違うふうに感じる。くすんだ青い空気はびりびりと肌を刺し、墨色の空は体を押しつぶしてしまいそうなほどの圧迫感を放っていた。



 これは一体何なんだ?



 朔夜は軽いパニックに陥りながらも、全身にまとわりつく気味の悪い感覚の正体を探ろうとぐるりと辺りを見回した。

 空や民家、道路をゆっくりと視界に収めながら一周回り切る。

 目に映り込んだ景色は何の変化もなく、個々の風景を見ても得体の知れない感覚を抱くことはなかった。



 神経過敏になっていたのかもしれない。



 朔夜は今以て離れない気配を打破するように、無理やり自分に発破をかけた。


 しかし前方に目をやったところでその意欲は完全に凍りついた。


 これまでは必ず後方にあったはずの中央の塔。暗黒に塗り潰されたそれが今、目の前にそびえ立っている。

 天を貫かんばかりに高いビルを六方に従え、もやに霞む巨塔は目にするだけで総毛立ってしまうほどの威圧感だった。


 朔夜はぶるりと体を震わせ、塔を見据えながらじりじりと後退した。



 怖い。



 それは言葉に云いつくせないほどの恐怖だった。

 のぞむの幻覚を見たときと似た感覚。体がぶるぶると激しく震え、歯の根が合わなくなる。

 いくら抑えようとしても止まらない体を、朔夜はぎゅっと掻き抱いた。

 薄手のパジャマに覆われた体は自分のものとは思えないほどに冷たく、まるで死体のようだった。


 脳裏に遺体安置室の白いカプセルがフラッシュバックする。

 ひやりとした室内。弱々しいライト。カプセルにこびりついた黒いしみ。



―――朔



 しみが布から剥がれ落ち、ぶずぶずと音を立てながら動き始めた。

 緩慢と早急が不定期に繰り返されるそれはクレイアニメの動きに似ている。


 真っ黒な粘土の中から触手のようなものがいくつも這い出し、ざわざわとうごめいた。立ち枯れた木立が揺する細い枝のようなその触手は絡み合い、手の形を作りあげる。

 その手は手首から上しかなかった。指の第二関節を曲げ、鍬を振りおろすようにして倒れ込む。


 そして鉤爪かぎづめのように地面を掻くと朔夜を捕まえようとするかのように再び手を伸ばした。びちゃびちゃと水のような音が響き、下膊かはくが明らかになる。鉄の臭いが鼻についた。



―――朔



 腕を出し、肩を出し、頭を出し、今や上半身を見せるまでになった泥人形は溶けかかったような手を伸ばし、再び朔夜の名を呼んだ。


 ぬらぬらした液体が地上に落ち、ぺちゃぺちゃと気持ちの悪い音を立てる。


 朔夜はその手から逃れようと足を動かした。しかしいつの間にか折っていた足は力を入れることが出来ず、朔夜はしゃがんだままの姿勢で後退を試みた。


 膝行いざるたびに尻の下で砂礫されきがこすれあうような音がじゃりじゃりと響く。掌にも沢山の砂粒が付着したが、朔夜はそんなことには構っていられなかった。



 一刻も早くこの場から逃げなければ。



 皮膚に食い込んだ砂を掌に残したまま、朔夜は懸命に足をばたつかせた。けれどもそんな身じろぎも差し迫った手の前には全く効果がなかった。

 泥の塊から伸びた腕がずぶずぶと音を立てながら迫り、朔夜の足首をつかむ。ぬるりとした生微温ぬるい感触が全身に伝わった。



「う…あ……」



 あまりの恐ろしさのためか、朔夜の声帯はおかしな音を鳴らした。

 涙を目元に溜めたまま、歯をカチカチと鳴らし足の自由を奪った手を見る。

 酷い血の臭いだった。

 真っ黒く染まった手は足を力強く握り込み、その反動で垂れていた首をあげる。

 びちゃりとまた重苦しい水の音がした。



―――どうして逃げるの?



 そう云った泥人形の顔は一寸の狂いもなく自分と同じだった。





「――!!」



 その声は叫び声にはならなかったが、目が覚めるには十分な衝撃だった。


 朔夜はじっとりと濡れた額の汗をぬぐい、落ち着こうと息を深く吸いこんだ。しかしその中途で呼吸は上手くいかなくなり、代わって気管がひゅうひゅうと音をあげた。普段ではありえない奇妙な呼吸音。



 発作だ。



 瞬間、朔夜の心臓はきゅっと収縮した。

 続けて咽喉のどからかすかな息が漏れ、体の奥から何かが込みあげてくる。気管を塞ぐようなその異物を取り除こうと体が引きり、刹那口から力強い呼気が吐き出された。続けてもう一度。朔夜は息をする間もなく咳を吐き続けた。


 咳は一旦始まるとなかなか止まらなかった。上半身を起こしたままの姿勢で朔夜は吐くように咳をし続けた。胸の内側に殴られたような衝撃が走り、肺が悲鳴を発した。



「痛……っ」



 朔夜は胸を押さえると、額を膝頭につけそうなほど体を折り曲げた。大きく口を開き、かはっと息を吐き出す。口も咽喉も心臓も全てが痛かった。



 薬を飲まなければ。



 呼吸困難で朦朧とし始めた意識に発破をかけ、朔夜は制服の隠しに手を伸ばした。


 咳が止む一時の合間を見計らって薬のケースを手探りで探す。目的のものはすぐに指先に当たったが、そのつど出る咳のために朔夜は何度もそれを見失った。

 それでも根気よく手を伸ばし続け、ようやく指の間に挟んでつかみ取ることが出来た。


 親指ほどの大きさのケースの蓋を震える手で開け、中から透明な板を一枚取り出す。それを詰め込むようにして朔夜は口の中に放った。


 薬は舌の上でまたたく間に溶け始める。唾とともにそれを嚥下えんかし、朔夜はほっとしたようにベッドの中に倒れ込んだ。


 咳はまだ出ていたが、薬を飲んだという安心感のせいか先程より随分気が楽になった。

 身を縮めるようにして衝撃に耐えながら顔面に浮いた脂汗を拭う。


 視界がじょじょに霞みはじめ、朔夜は疲れ切った体を休めようと目を閉じた。


 しかし咳のせいか、眠気のわりに寝つくことが出来ない。それでも無理に目をつむっていると、しばらくして名を呼ばれた。


 それは幻聴かと思うほど遠くの方で聞こえたので、朔夜はようやく眠れたのだと安心した。



「寝てるのか?」



 奇妙な夢だと朔夜は思った。

 発作のあとだからだろうか。体は炎にでも包まれたかのように熱いし、酷く息苦しい。目を開けようしたが、瞼が重くて持ちあがらなかった。代わりに腕が動かせたので、水に濡れたようにじっとりとしたそれを持ちあげ、額の汗を拭いた。



「平気か?」



 誰の声だろうか、と朔夜は思った。

 聞いたことがあるはずなのによく思い出せない。

 熱っぽい頭でしばらく考えていたがわからなかったので、朔夜は思考を停止した。

 知っているはずなのにわからないということは夢にはよくあることだ。


 そのままうつらうつらしていると、今度は額に冷たいものがあてがわれた。ゼリーのような弾力性がある物体。それは火照った額に溶けるように染み入った。熱かった体がすうっと冷えていく。

 言葉では表現できないくらい気持ちがいい夢。


 温くなったゼリー質の物体を裏返す手も、音楽のように軽やかだった。皮膚に触れたところから羽毛になってこぼれおちていく。汗で張りついた髪に丁寧に触れる指もひやりとしていて、すっかり安心した朔夜はそれに頬を寄せた。



「朔?」



 声がぱきんぱきんと砕けてぱらぱらと散る。石英の粒でも混ざっているかのようにきらきら光る音。金色の斜光に混じる霧雨のような、柔らかくて心地のよい声だった。さらさらとしたその感覚にうっとり浸りながら朔夜はやんわりと微笑んだ。


 こんな声を持った人間を昔、知っていた。

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