2

 雨が降っている。


 その音はこずえが奏でる葉擦れの音ととてもよく似ていて、朔夜は最初風が強いのだとばかり思っていた。

 目をつむったまま、じっと音を聴く。時折サアサアという音に混じってパラパラと何かが当たる音がした。傘の下で聞くような小気味のいい雨の音。


 多分、ベランダに置いてある鉢植え植物やトレリスに絡んだ蔓薔薇の葉が雨をはじいているのだろう。


 朔夜は温かなベッドの中で目を閉じたまま、うっとりとした気分を味わっていた。



 母さんたちは今頃首都に着いているだろうか。それとも、もう買い物をしている頃だろうか。雨だから帰りは少し遅くなるかもしれない。



 朔夜は両親が買ってくるであろう土産の内容を想像しながら身じろぎをした。

 上掛けの中の具合がいいところを探るためだ。枕に頬を押しあてたままもそもそ動いていると、頭の上でカチリと音がしてそれから目覚ましのけたたましい鳴りが響いた。

 慌てて飛び起き、タイマーのスイッチを切る。


 一瞬ののちに訪れた静寂に朔夜は溜息を吐いた。


 朔夜はじんじんと響く耳を押さえながらゆっくりと立ち上がり、クローゼットの方へ歩いていった。



 浴室から雨音にも似たシャワーの音がいまだ間断なく聞こえてくる。寮の壁が薄いせいなのか、はたまたシャワーの水力が強いせいなのか、朔夜の部屋には浴室の音がよく聞こえた。

 手早くシャツを着込み、タイを締めながらぎろりと壁をにらむ。


 シンは朝練前にシャワーを浴びる一風変わった習慣がある。いつもは朔夜のほうが朝早いため、また浴びているくらいにしか感じないのだが、こういうことがあると妙に気に障った。



 この音がなければあんな夢など見なかったのに。



 朔夜はズボンのベルトをはめると、足早に洗面所へと向かった。

 自室にも備えつけのものがあるのだが、あまりにも小さいのと電光量が不足していてよく見えないのとで、ほとんど使ったことがない。


 朔夜は鏡越しに映る浴室の扉をうかがいながら、あわただしく洗面を済ませた。




 数日前に終わった二週間足らずの夏期休暇ではここでのろのろと歯を磨いていたために鉢合わせしてしまったことがある。てっきり休暇はその他大勢の生徒と同じように実家に帰るのとばかり思っていた朔夜にとって、それは愕然とするに足る出来事だった。



 なんでこいつ帰らないんだ。親はなにも云わないのか。



 朔夜は思わず勘繰るような目つきでシンを見てしまった。

 以前ならシンはその目を見て何か云っただろう。しかし図書館前での一件がよほど応えたらしくシンは何も云ってこなかった。


 曖昧に笑って会釈すると、そのまま部屋に戻ってしまったのだ。そのときシンが一瞬見せた愁いを帯びた顔つきを思い出し、朔夜は再び大きく嘆息した。


 あの図書館での出来事からもう二ヵ月近くも経っているのだ。あれに関することはいい加減に忘れたい。

 朔夜は洗面所の脇の口から通路状になっている玄関へと出、奥にある扉を開けた。



「あ……キサラギ…」



 部屋から出てきた朔夜を見るなり、息を飲む眼鏡の少年を見て、朔夜は眉根を寄せた。


 彼の名前を朔夜は覚えていなかったが、シンの友人だということは知っていた。


 いつもは早い自分がまさかこんなに遅くに出てくるとは思わなかったのだろう。

 眼鏡の少年は慌てたように顔をつくろい、見開いていた色眼鏡の奥の双眸を細めた。そしていつもの人好きのする柔らかな笑みをたたえると朔夜に向かって挨拶をした。



「おはよう」



 どうせあいつを待っているのだろう。



 朔夜は関わり合いになるまいと、適当に会釈してさっさと通り過ぎた。しかしそれから数歩も行かないうちに背後からかかった声に引き戻されることになった。



「キ……キサラギ!」



 いぶかしみながら振り向く朔夜に、少年は口をパクパクと開いた。酸欠の金魚のようなその様子に、朔夜はますます顔を曇らせる。



 云いたいことがあるならさっさと話せ。



 朔夜は苛々しながら少年を見、それから深く溜め息をついた。



「何もないならもう行くから」



「ちょっ……!」



 少年は慌てたようにやってきて朔夜の前に立ちはだかった。

 行く手を阻まれて朔夜の機嫌はさらに悪くなる。少年はそんな朔夜の顔を見て、いよいよ困ったようにうつむいたものの、云わなくてはならないと覚悟を決めたらしい。思い切ったように顔をあげた。



「シ……、シン・ゼンと喧嘩してるって…?」



 少年が唾を飲み込む音が聞こえた気がした。


 バクンと心臓が大きく鼓動を打つ。

 一瞬気が遠くなり、それから墨のように真っ黒な何かが心の内を塗りつぶした。


 今となっては懐かしくもある理不尽な憤り。怒りともつかない感情が一気に限界値に達し、急激に降下する。



「シンと何かあった? 夏休み前からずっと元気がないんだ。傍目はいつもと同じように見えるけど無理してるっぽくて――」



「それで?」



 自分でも驚くほどそれは冷たい声だった。

 いけないとは思ったものの歯止めが利かない。張り詰めたような面差しの同級生を見据えたまま、朔夜は続けた。



「だから何なの?」



 朔夜の口は止まらなかった。意地悪く口元をゆがめて、自分より背の高い相手を冷視する。



「おれにどうしろって? あいつがあんたに何か云ったの? サクヤ・キサラギに暴言を吐かれたから謝るように云ってください、とでも?」



「ちが……」



 目の前の少年が何をしたわけではないということも、本来矛先を向けるべき相手ではないことも分かっている。しかしシンの名を出された瞬間、朔夜の理性はどこかに吹き飛んでそのまま消えてしまったのだ。

 ここまでくると、もう自分の意志ではどうすることも出来ない。


 朔夜は口をつぐんだままの少年の肩を手荒く押した。



「おれとあいつは関係ない」



 肩を押さえた体勢で立ちつくす少年に、朔夜はなかば吐き捨てるようにして告げた。そしてタイミングよくやってきたエレベーターに走って乗り込み、混雑した昇降筒の奥へ体をねじこませる。

 後ろの方で扉が閉まる音が聞こえたが朔夜はそれでもふりかえらなかった。


 朝から大層気分が悪くなった。



 ◇



 人類が地球に住むことが出来なかった約五百年もの期間、それを暗澹の五百年と呼ぶ。

 その始まりとなったのはイネ科植物を媒介に人にのみ伝播するウイルスがきっかけだった。


 Oriza sativa virusと呼ばれるこのウイルスはOriza sativaという学名が示すとおりアジア米から発見された。しかしそれは検出された最初のイネ科植物がアジア系の米だったというだけで、決して他の農作物に影響が及ばなかったわけではない。


 のちの調査で雑草の類から人が口にする穀物、すなわち小麦や大麦、とうもろこしといった全てのイネ科植物に感染が確認された。


 Oriza sativa virus――OSVはイネ科植物の種子を人間が摂食することで感染する。

 感染症名はオズ。発病にいたるまでには約二ヵ月の潜伏期間があり、その間病症は確認出来ない。つまり二ヵ月の潜伏期間を経て発病しない限り感染したことが判らないのだ。しかも食用イネ科植物の多くは、収穫後すぐに摂食するわけではない。加えて二ヵ月という潜伏期間は治療薬の製造を遅らせ、当時の地球総人口のおよそ七割がこの病によって死亡した。


 その発現があまりに突発的でさらには致死率が異様なほど高いため、現在ではエマージングウイルスではなく、バイオテロに使用する目的で開発された人工ウイルスと見なされている。


 その根拠として変異スピードが異常に速く、またそれが設計されているかのように的確かつ無駄のないものであったことがあげられる。


 抗体が開発され、感染が認められない者から順次宇宙へと脱出したそのあとも、形態を変化させ生き残っていたOSVは再度猛威をふるった。そのあまりの形態の違いから発病当初は新種のウイルスのしわざとみなされていたほどだった。



「――現在、民族紛争の元となる四民族が誕生したのもこの頃だ」



 ルオウのやたらはきはきした声が教室内に響きわたる。


 しかしその声は大部分の生徒の頭上を通過するだけに終わった。きちんと耳に通している人間は両の指でカウント出来るぐらい少ない。

 始まったばかりのころ、この講義は禁忌を扱うというので唯一寝ている人間が少ない授業だったが、入学から五ヵ月経った今となってはすっかり他と同じになっていた。寝言こそなかったがあちらこちらから安らかな寝息は聞こえてくる。


 最後尾の席の見晴らしは相も変わらずよく、朔夜は今更眠る体勢につくことも出来ないというので暇をもてあましていた。

 起きているのだから真面目に聴けばいいものを集中力はとうの昔に費えており、耳を傾ける気も起きない

 。

 何しろ教壇の方を向くと最前列に座っているシンの姿が否応なく目に入ってくる。そのため朔夜は前を見ないと念じる羽目になり、そればかりに意識が集中するので、全く授業内容が耳に入ってこないのだ。



 今も火星について講義していることは知っているものの、そこに転がっている石や砂の種類、特性などについては全くもってわからない。来月には入学して初めての試験があるというのに、朔夜はすでに落第の危機に陥っていた。最終試験に合格する以前の問題だ。


 どうしようかと重々しく溜息をつき、モニターに目をやる。


 蛍光グリーンの淡い光を発する画面には惨殺された火星調査団が撮ったものだという星の地表写真や大気組成、天候データなど種々の情報が展開されていた。

 よくもまあこんなに膨大な量を調べたものだと感心していると唐突に画面が切り替わった。


 それまで映し出されていた写真やグラフデータが消え、代わって新たな映像が現れる。金色の肌を持った地球が持つ、唯一の衛星。



 月だ。



 そう認識した瞬間、朔夜は体の内から何かが込みあげてくるのを察した。条件反射的に口元を手で覆い、その場に突っ伏す。それはこれまで感じたことがない酷い苦痛だった。


 教壇ではそんな朔夜の苦しみなど知らぬルオウが、画面を見るようにと指図しながら講義を始めようとしていた。



「これまでは火星の歴史とそこに造られた都市についての講義をしたが、今回からは月の歴史について行う。まずは画面右上の書面を見ろ。それは月に移り住むこととなった人間とユニオンとの間で交わされた契約について書かれている公式文書だ。それに記載されているようにコロニー政府は食料と物資の輸送を月都市リュケイオンに対し、定期的に行わなくてはならなかった。どうしてこんな内容になっているか分かる者はいるか?」


「――マルコシアス、答えてみろ」



 ルオウに指された少年はその問いに答えられなかった。


 突然指名されて慌てる少年を見て、ルオウは深い溜息を吐く。


 それから、座れと厳しい口調で云い放ち、異変を感じて起きあがる生徒たちを冷たく見回した。


 突発的な指名に教室内はざわついたが、朔夜の中にはすでに周囲と同じように振舞える力は残っていなかった。


 先程までは何の異常もなかった心臓は、今では痛いくらいに早急な鼓動を打ち鳴らし、針で刺したような鋭い激痛を体中に蔓延させている。咳こそ出ないものの、その代わりとでもいうように頭痛が酷く、朔夜は今すぐにでも地面に這いつくばってのたうちまわりたい衝動に駆られた。全身が痛くてたまらない。



「――これまでにも話してきたように、地球から脱出した人々はコロニー、月、火星へとばらばらに移住した。その中で最も環境的に整っていたのはコロニーだ。その次が火星。

火星は気候の変動が激しく、住むのに適さないといったイメージがあるかもしれないが、新暦以前にあったとされる戦争では最前線基地だったと云われている。その証拠に新暦以前の遺跡が数多く残っていて、食料プラントなどもあった。それらは少し整備しただけで使用に耐えられる代物になったと云われている。それが次のページの添付画像だ。この画像はジュール・ベリドゥールが指揮した火星探索チームが実際に火星に降りた際に撮影したものだ。このことについてはのちほど詳しく教える。

火星とは異なり、月は地球に近いことから完全に自動生産のプラントが主流だった。月にも火星と同じく新暦以前の遺跡はある。だが損傷が激しく、火星とは異なり使い物にならなかった。食料プラントはコロニーから食料配給される前提だったため、月にいるわずかな人間が食べられる程度の備蓄量を確保するだけで充分だった。だから億単位の人間を収容する設備も整っていなければ、そのための備蓄もされていない。月移住が敬遠されたのはそのためだ」



 朽木糞牆きゅうぼくふんしょうの生徒たちを前にルオウは滔々とうとうと語った。


 朔夜の頭痛はその間にも激しさを増していく。金輪かなわで締められたかのような肉に食い込む痛み。その痛みは心臓の痛みを遥かに凌駕しており、朔夜はすでに頭痛しか感じられなくなっていた。


 はじめからこれ以上は痛くなりようがないくらいに痛かったのに、痛みが増すごとに前の方がまだ良かったような気がする。


 こめかみの痛みは最早、頭痛をともなっていないころの自分を想像することが出来ないくらいに痛く、朔夜はずっとこの痛みとともに生きてきたような気がした。

 あまりに激しい痛みに意識さえも危うくなりはじめる。いっそ意識がなくなってくれた方が楽だった。


 普段の朔夜なら衆人環視の的になるのは絶対に嫌だと痛みに耐え、休み時間の合間に自力で保健室まで歩いていくことを選んでいた。

 しかし今の彼にそんな力は残っていなかった。そればかりか今がどこで何をしている最中かということすら、頭の中にはすでにない。


 景色を映さなくなった視界に暗がりが侵食してくることも止めることが出来なかった。



「おい、キサラギ、どうした?」



 頭を押さえて机にうつぶせる朔夜にようやく気がついたルオウが不審の声をあげた。

 しかし朔夜の耳がその音を受容することはなかった。暗闇はさらに深く染まり、感覚が急速に溶暗していく。



「……朔?」



 意識を手放す瞬間、あの忌々しい声が聞こえたような気がした。

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