第二章 禁断の秘密

1

 藍色の道路に淡青色みずいろの民家。くぐもった青の空気が全てを侵すその街に朔夜はいた。


 ドーム型の民家の屋根に寝そべりながらぼんやりと虚空を見つめる。星一つない濃紺の空。塗りつぶしたかのように一切の色が見えないそこは、いやに近くに見えた。


 空に向けておもむろに手を伸ばす。パジャマで覆われた腕は辺りの家々と同じように青く、周囲の景色に溶け込んでいた。冷たい風が指の合間を吹き抜けていく。


 その何とも云えない曖昧な感触に、朔夜は眉根を寄せて手をおろした。まるで他人の手が触れているかのような不可思議な感覚。朔夜はまじまじと見つめ、それからきつく握りしめてみた。



 痛い。



 爪が皮膚に食い込んだためか、思いのほか痛みがある。けれどそれもどこか遠くで感じられた。決して感覚がないわけではないのに自分のものだという実感が湧かない。ここが現実世界でないということも起因しているのかもしれないが、不安定感を内包したその感覚は酷く気持ちが悪かった。


 どうにかして感覚を呼び戻そうと指の屈伸を行う。そんなことをくりかえしていると、咎めるように呼ばれた。



「朔夜」



「何?」



 視界の端に煙のような光が真珠沢の輝きをともなって揺れている。朔夜はそれを一瞥し、再び掌の開閉にいそしみ始めた。しかしそんな努力も虚しく、感覚は回を重ねるごとに失われていった。


 閉じて開いて、開いて閉じて──



「ねえ!」



 いきなり耳元で大きな声を出されたために、朔夜の体はびっくりして大きく跳ねあがった。屋根の上から落ちそうになる体をどうにかして持ち直し、元の姿勢に戻す。



「――何だよ……」



 憮然として隣に座る少女の方を見ると、彼女の顔は何やらひどく曇っていた。今までに見たこともないその表情に、朔夜は何か悪いことでもしただろうかとたじろぐ。少女はそんな朔夜の顔をしばらく見つめたのち、ついっと目を逸らしうつむいた。



「変だよ」



「は? 変?」



 ポツリと発せられた言葉に朔夜は眉根を寄せる。すると少女はこくりと首と縦に振った。白い光が大気につうっと軌跡を描く。



「そうだよ。ずっとボーっとしてる。ここ最近いつもそうだよ。なにかあったの?」



「何……か?」



 独りごちるように反芻する朔夜の脳裏には一人の少年の姿があった。雑り気なしの琥珀色の髪に猫のような大きな金の目。およそ男とは思えない美しい容姿を持った少年の顔は、記憶の中では酷く歪んでいる。


 朔夜はその顔を遮断するように両手で顔を覆うと、固く目を閉じた。下腹がちりっと重い痛みを発する。その痛みは頭の中で激しく明滅を繰り返す黒い電気信号とよりあい、朔夜の心に揺さぶりをかけた。



 後悔はしていないはずだ。



 勝手に頭の中を回る後悔という名の感情を消すために、朔夜は目をつむったまま強く思った。


 話しかけないで欲しいというのはいつか必ず云うはずだった言葉だし、あの時は本当にどうかなってしまいそうなくらい苛立っていた。



 間違ってはいない。そうだ間違っていないのだ。



 自分に云い聞かせるように、朔夜は心の中で何度も間違ってはいない、を連呼した。しかし心の奥の方で渦巻いた感情はほどけることなく、そればかりかより一層固くなってしまった感がある。朔夜は結ぼれた気分をひきずりながら重々しく溜息をついた。



「朔夜?」



 心配そうに名を呼び、下から見上げる少女に、朔夜は黙ってかぶりを振った。それからもうこの話題はしたくないとばかりに瞼を閉じる。

 ゆえが何か云っているのが聞こえたが、今日はもう何も聞きたくなかった。目の裏に広がる深淵を見つめながら、夢を終わらせる段取りに入る。



 暗闇に波紋が走り、輪を幾重にも描きながら広がっていく。意識はそんな輪のようにゆるゆると溶解していき、黒の淵に取り込まれていった。


 そして目覚める前にいつも聞こえ出すあの音が脳内を浸食し始める。その音は言葉であることは理解出来るものの意味不明で、難解な暗号文を見ているようなそんな気分にさせた。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……



 ◇



 雨の日の朝練は億劫だ。せめて授業でいない時間をねらって雨を降らせてくれればいいのに、サテライト内の気象をコントロールする自然管理局の機械は融通が利かない。

 しかもつい最近は地上参照エリアの気圧が非常に不安定な期間にあたるらしく、雨に混じって風まで吹いていた。


 トレーニングウェアは防水加工とはいうものの、やはり服の上に水が這う感触は落ち着かない。

 戦争をする場所は地上ではないのだからこういう天気のときには止めて欲しいというのが生徒側の希望だったが、グラウンドの整備すら認めてくれない機関がそんなことをしてくれるはずもなく、天気に良し悪しにかかわらず早朝の筋力トレーニングは行われていた。



 朔夜は雨の日の腹筋が最も嫌いだった。

 腕立て伏せは片手であろうと両手であろうと顔は下を向いているからいいが、腹筋は上を向いているので水がもろに顔面に当たるからだ。


 この日も朔夜は顔をびっしょりと濡らし、非常に不機嫌な表情で次の短距離走に臨んだ。


 トレーニングのおかげか、朔夜はナーサリーに入ってからの五ヵ月で短距離のタイムを随分と伸ばした。宇宙ではどんなに足が速くてもあまり関係ないので、力を抜いて走っている者がほとんどなのだが、それでも中の上レベルにいけたのは嬉しい。


 そのためこの日も張り切ってのぞんだのだが、生憎と前日まで続いていた夏休みの影響か、全くタイムが伸びなかった。


 雨に打たれ、風に巻かれ、良いことなしの朝練だったが唯一気分を晴れやかにする出来事が起きた。それは長距離完走である。汗まみれで息も絶え絶え、ほとんど倒れこむようにゴールインしたのだが、初めてタイムを採られたときに感じた情動は忘れがたく、朔夜はその日一日それをひきずり、夢の中にまで持ち越した。



 ◇



「それでそんなに機嫌がいいの?」

 青の空気に白のもやが溶けていく。二つの色が混ざり合うぎりぎりの所をながめながら、朔夜は首肯しゅこうした。

 途端に光が揺らぎ、視界にあった靄は消失する。

 刹那、首を抱きこむようにして腕が回され、顔の横からちらちらした光が現れた。その中に浮かびあがる青い目がまばたきをしながら朔夜を見つめる。



「昨日まではひとり遊びに熱中してたのに」



「ごめん」



「もういいよ、戻ってきてくれたし」



「戻って?」



「こっちのこと」



 息が触れ合うほど近くで話しているせいか、喋るときの仕草が細部にわたるまで見える。朔夜はその様子が何だかとてもおかしくなって思わず口元をゆるめた。



「何で笑うの?」



 形の整った眉をあげ、ゆえは少し怒ったような表情をした。しかし本気なわけではない。

 朔夜が顔をうつむけて笑っていると、少女もつられたようにふふっと笑った。さらりとした髪が時折頬を撫でる。街を吹き抜けていく風よりも冷たいそれはとてもいい匂いがして、朔夜はそれだけでまた気分がよくなった。


 ゆえといると朔夜の気分は大抵晴れやかになる。もちろん毎回そういうわけではなく、前回のときのように苛立ったり、怒ったりすることもあった。

 しかし現実世界とは違い、ゆえとはすぐに仲を修復することが出来た。たとえ溝が出来たとしても次に会えばその瞬間に埋没し、何事もなかったかのように話すことが出来る。

 朔夜にとってゆえは家族のように身近な存在だった。


 何でも話し、笑い、現実世界では出来ない何もかもが、ここでは出来る。



「ね、ね、朔夜」



 三日月型ブランコの背もたれに寄りかかったまま、朔夜は上向いた。

 ブランコを支える二本の銀環ぎんかんの上で軽く組まれた小さな足がふらふらと揺れている。その指先からこぼれてくる粒は、少女を覆うもやと同じように青い空気に溶けることなくきらきらと光った。


 夜陰に混じり、降る粉雪のような粒。朔夜はそれに触れたいような気分になって、そっと掌をかざした。



「花はいつになったら見せてくれるの?」



「花?」



 朔夜は少女の突発的な申し出に何のことかと目をしばたたかせた。



「約束したのに忘れたの?」



「約束?」



「そうだよ。朔夜ってすぐ忘れるよね。花を見せてくれるって朔夜が云ったんだよ」



 少女はちょっと眉根を寄せて、朔夜の伸ばしたたなごころに自分のそれを乗せた。



「すっごく前に朔夜が云ったんだよ。お母さんが育ててた木が花をつける前に枯れたって云ったの。だから花って見たことないって云ったら、見たことないなんて信じられない、みたいな顔して凄く驚かれて、それでも素直に見たことないって云ったら、朔夜の方からじゃあ見せてあげるって云ったんだよ」



 云いながらゆえは朔夜の手を取ったまま、銀環ぎんかんの上から飛び降りた。

 長い髪とドレスがふわりと中空に広がる。それは青い虚空に咲いた白い花のようで、同時に御伽おとぎばなしに出てくる妖精の姿を彷彿させた。



「……覚えてない」



「そっか……」



 ゆえは少し寂しそうに笑って、地面に降り立った。

 気体に描かれた白い軌跡が音もなしに溶暗する。



 ゆえは朔夜のいるブランコの隣にやってきて、その後も熱心に話していたが、その表情には細やかながらもかげりがあった。



 楽しみにしてたんだろうな。



 朔夜は草も木もないこの世界の様子を思い起こして、そっと溜息をついた。覚えていないなんて悪いことをしたかもしれない。



「あのさ」



 ゆえはブランコに座ったまま姿勢を正す朔夜を見て、首を傾けた。

 こちらをうかがうウサギのような動作。

 故郷の雪原で何度か見かけたことがあるその様子を思い出して朔夜は少しだけ表情をゆるめた。



「……さっきのこと、覚えてなかったけど……でも次は必ず持ってくるようにするから――それでいいだろ?」



「本当に? また忘れるかも」



「そんなしょっちゅう忘れない」



 顔をしかめて云う朔夜に、ゆえはくすくす笑いながら抱きついた。


 白の光がこぼれ、髪の香がふわりと匂う。早鐘を打ち始めた心音を聞き、朔夜は慌てふためいた。

 どうすればいいかわからなくなって体が動かなくなる。

 ゆえは固まっている朔夜を見て微笑むと、体に回した手に力を入れ、瞼をおろした。



「朔夜、大好き」



 青い街の間を駆けてきた風が二人の側を抜けていく。

 その風はいつものようにひやりとした冷たさを保っていたが、その日の朔夜にはとても心地がよく感じられた。



 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……

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