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授業が終わってからの朔夜の行き先は図書館と決まっている。
ナーサリーの管轄に当たる第十四エリアの最下部にあるこの図書館は、地球一の蔵書数を誇る軍自慢の施設である。
どこかの森を模したのだという公園の中央にあるそれは、授業で使われる部屋とは随分と距離を隔てていて、朔夜はここに通うために毎度毎度苦労していた。借りていたフィルム入りのカードケースを手に持ったまま、遠くに湖が見える森の中をやや速めに歩く。
急いでいるのは返却時刻が十九時と定められているせいだ。授業が終わるのは大抵十八時半過ぎなのでそれからすぐに返しにいかなくては間に合わない。期日厳守なため、一日でも遅れると文句が酷いのだ。
それでも走るのはなんだか億劫で、朔夜は決してそれ以上足を速めなかった。
到着したのは結局返却時刻の三分前だった。
赤い丸天井が特徴的なドームの前には灰色がかった
入ってすぐ正面に見えるのは巨大なホログラフィースクリーンだった。四方にカウンターマシーンをはべらせ、中空に大きく地球を映し出している。
ゆっくりと回転するそれを見上げるように天井を仰ぐと、やわらかな光が視界いっぱいに広がった。
細かな塵がちらちらとまたたく金色の空間。それが晴れると、陶器のような質感を呈したクリーム色の素材をふんだんに使った、暗澹の五百年特有のドーム建築が姿を現す。七層にわたる桟敷をぐるりと囲った
初めて見たときは第九エリアと同じく目を見張ったものだが、何度も見ていると感動もなくなる。
朔夜は周囲の光景を一瞥もせず、真っ直ぐに貸し出し機械に向かった。
ぎりぎりに返しに来た生徒たちでカウンターは混んでいたが、元々待たせるような仕事の遅い機械ではない。数十秒待った程度ですぐに順番が回ってきた。
やれやれとばかりに溜息をついて朔夜はカードケースに入ったフィルムブックを取り出した。
それを一枚一枚、
使用者が消えたカウンターマシーンが独り寂しく画面にありがとうございました、と文字を点灯させた。
「さて……と」
朔夜は独りごちて、ぐるりと辺りを見回した。ちょうど寮の夕食が今から配られるので図書館には人影もまばらだった。
十九時をまわったため、貸出機に群れる人もいない。今から夕餉(ゆうげ)を摂りに寮に戻ってもいいのだが、そうすると見たくもない人間に会ってしまうかもしれない。
朔夜は溜息を吐くと、またいつものように図書館のエレベーターに乗った。
朔夜は生来、本好きな
それでも毎日通っているのにはわけがある。シンのいる寮に帰りたくないのだ。
最近は似たような金髪を目撃するたびに過剰反応し、そのつど自己嫌悪に浸っている。シンが嫌悪の対象になるのは、彼を見ると朔夜の心の中がざわつくためだ。
それまで他人に関心らしい関心も抱かなかった朔夜にとって、苛立ちでも、むかつきでも自分の感情が動くのは我慢ならなかった。
この日も一日、朔夜は自分の心に巣食う邪悪な存在に悩まされていた。
シンのことを思い出すと連動して、あの謎の青年の言葉も思い出す。それにつられて再びシンを想起する、といった魔の連鎖が朔夜の脳裏を支配していた。いっそ記憶喪失にでもなってすっかり忘れてしまいたいくらいのわずらわしさだ。
朔夜は苛々しながら開架式の書棚の前で適当な本を探った。
降りた場所は哲学関連を収容している棚であったらしく、小難しそうなタイトルの本が時代別に分けられて並んでいる。朔夜はその中から手近な本を手に取り、ブースに向かって歩き始めた。
ホールに突き出すような形で備えられた露台には個人用のブースが何基か置いてあり、朔夜はその中でまどろみながら本を読むのが好きだった。一層につき四箇所設けられた露台だったが、昼時に行くと大抵どこのブースもふさがっていて、円形の桟敷を何周もしなくてはならないときもある。
しかし今は夕食時だというのが幸いしてか利用者は極めて少なく、朔夜はすぐに空きブースを見つけることが出来た。
露台の曲線に沿って林立するブースの上部には、掲示板代わりにもなっているシールドガラスが張ってある。そこに告知されている事項を確認しつつ、朔夜はボックスに入った。
人が二人も入ればぎゅうぎゅう詰めという狭い空間には端末内蔵型のデスクとリクライニングシートが備わっている。
朔夜はデスクの掌紋感知センサーに手をかざしドアに鍵をかけると、後方にあったシートに身を預けた。そして持ってきた本をぺらりとめくって目次を確認した。
朔夜が哲学書の棚で選び取った本は、人の思考を数式で解くという考え方が流行った暗澹前期の書物だった。数式で思考を解くという行ためがどうして哲学になるのか、朔夜にはよく分からなかったが、とにもかくにも読み始めた。
どんなにつまらない内容であっても、寮に帰ってシンと顔をつき合わせるよりかはましだ。そう思い一番上の行に目を通す。しかし数ページもいかないうちに睡魔が襲い、朔夜はそのまま閉館のアナウンスが流れるまで眠っていた。
朔夜が起きたのは、二十時を回った頃だった。耳元で鳴る機械音に眉をひそめながら、ゆっくりとした動作で伸びをする。中途半端な時間に寝たせいか、こめかみに微かな痛みを感じた。
朔夜はくらくらする体をひきずるようにして進み、本を元あった棚に返した。
朔夜が本を借りるときは次の日が休みであるときだけだ。本は好きではなかったが、部屋に居てもやることがないので読書に勤しむしか時間をつぶす方法がないのだ。
朔夜は欄干につかまりながら、エレベーターまで歩いていき、檻のような装飾を施された鉄枠の昇降筒に乗り込んだ。
一階を指定し、音もなしに閉じていく扉をぼんやりと見つめる。その視界に金色の髪が飛び込んできた。
「間に合ってよかった」
閉じる寸前の扉に体を滑りこませ、入ってきた少年を見て朔夜は瞠目(どうもく)した。
何故こいつがここにいるんだ。
シンはライトに照らされて黒光りする制服を整えると顔をあげ、朔夜の方を見た。
「朔!」
嬉しそうに微笑み、シンはいそいそと隣にやってきた。
耳よりも少し長めに伸ばした琥珀色のざんばら髪がふわりと揺れる。
自分と同じ制服を着ていても顔と育ちのよさが影響してか、にわかにはそう思えない真っ黒なそれを、優美に着こなす少年を見て朔夜は顔をしかめた。
入学から三カ月以上経過しているが、朔夜がシンに対して覚える感情は初めて会ったときから全く変わらない。
「この間もぎりぎりまでここにいただろ? 本当に朔って本が好きだよな」
髪と同じ色の長い睫毛の間から金色の瞳を覗かせてシンは云った。
あんたに会いたくないからここにいたんだよ。
朔夜は
外に出るとエリア全体を照らしていたライトは光源を落としていて、すっかり夜の風景になっている。
図書館に向かっていたときには見えた湖も深い闇に包まれた森に埋もれてしまい、その存在を見出すことは出来ない。公園の道は薄ぼんやりと輝いていて、タイルを踏むと淡い緑色に光った。
シンは何が面白いのか、その上をぴょんぴょんと飛び跳ねて必要以上に道を光らせている。暗い影を落とすタイルと発光するタイルとが交差し、遊歩道は市松模様のように闇に浮かびあがった。
シンは
今日の演習のこと、夕食のメニューのこと、明日までに提出する課題のこと。
しかしその一切は朔夜の耳には届いていなかった。心臓がはちきれてしまいそうなほど激しい苛立ちが体の中に蔓延している。
シンが口を開くたびに募る苛立ち。
その声で話しかけないで欲しい、その顔で微笑まないで欲しい、近くに寄らないで欲しい
もう限界だった。そして気がついたときには怒鳴っていた。
「うるさい!!」
シンの細い体がびくりと震えるのがわかった。
群青の闇の中に浮かぶ蛍光色の美貌が不安げに揺れる。
朔夜は怯えるようなその顔を見て怒鳴ったことを後悔した。
しかし、それでもあふれ出した感情を抑えることが出来なかった。
「どうしておれに関わるんだ。おれは他人と話すのが嫌なんだよ。もう側によるな! 話しかけるな! あんたのことなんて見たくもない!!」
心の中で何かがパリンと割れたような気がした。
朔夜は一気に爆発して真っ白になった頭を両手で覆い、何度もかぶりを振った。そして逃げるようにその場を去った。
シンは呆然としたままその場に立ちつくし、追ってくる気配はない。
それでも朔夜は走る速度を落とそうとは思わなかった。
心臓が、皮膚が、
何故こんなに他人を憎まなくてはならないのか。
心の中にあったことを云ってしまえば治まると思ったはずなのに苛立ちはさらに募るばかり。
この痛みから開放されるにはどうすればいいのだろう。この苦しみから開放されるにはどうすればいいのだろう。
記憶が消えれば楽になるのだったら今すぐにでもそうなって欲しい。それが出来ないのならシンの姿を一生、目に触れさせないで欲しい。
朔夜は息切れた体を抱き込みながらその場に立ちつくした。幾度となく肩で息をし、鈍い痛みがはしる脇腹を押さえるようにしゃがみこむ。
ぎりぎりまで走って、苦しくてたまらないのに苛立ちは治まらない。こんなに体を痛めつけたのにそれでも気は紛れない。どちらかがいなくならないかぎりこの感情はなくならないのだろうか。
朔夜は荒く呼吸をくりかえしながら頭を抱えた。全速力で走ったせいで、どこもかしこも痛い。
目の前から消えて欲しい。
朔夜は本気でそう願った。
遊歩道に嵌められた蛍光タイルは時間が切れて、じょじょにその輝きを失っていく。
それはまるで
やがて光はタイルに吸い込まれるようにして消え失せ、辺りはにわかに暗くなった。墨をこぼしたような深い闇が目の前に広がる。ざわざわと木々が葉を揺らし、すぐ側で何かがかさこそと動いた。
朔夜はそれに妙な既視感と不安感を抱きながら、うずくまっていた。
暗い中でも道筋だけは分かるようにと遊歩道の脇に置かれた
林冠の合間からは幾重にも連なるチューブがうっすらと見て取れた。暗がりの中で緑色の粒を放ち光るそれは、全天を彩る
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