7

 その日、朔夜は寮に薬を取りに帰っていた。


 休み時間、第十四エリアにある食堂で昼食を摂ろうとしていた朔夜は、鞄にピルケースが入っていなかったことに気がついて慌てた。

 元々が喘息の薬なので、発作がある時以外は飲まなくてもいいのだが、幼い頃から服用しているため、飲まなくては気分が落ち着かなかった。



 昼間は呼び出さないかぎりやってこないシャトルに飛び乗り、寮のある第九エリアで下車をする。

 コンクリートのような灰色の物体で固められた地下駅は、コロニーの裏の部分で、暗澹の五百年の面影が最も色濃く残っている場所だ。


 表のように華美な建物もなければ、雅な風景もない。黒と灰色が織りあげる簡素な空間には光源を落とした電灯がぽつりぽつりと光るばかりだった。

 

 ゲートの向こうは薄暗い灰色の地下室とは正に別世界で、初めてこの空間を見たとき朔夜は大口をあけたまま動けなくなってしまった。


 ゆるやかにつらなる緑の丘と高原地帯のようにまばらに生えた木々。遠くには薄墨色の山の影が波線を描き、目の前には桜の古木が淡いピンクの花弁をたわわに咲かせている。

 今、その桜の木は花の代わりにピカピカと輝く新緑の葉群を茂らせていた。赤燐せきりんのような赤い芯が、ついこの間まで咲いていた花の名残とでも云うように黒ずんだ敷石の上に散らばっている。

 

 天井のスクリーンには透き通るような青空とそこに漂う真綿のような白い雲が投影され、閉塞空間に広がりを与えていた。

 

 朔夜は遅刻して到着した入寮初日を思い起こしながら、石畳の道を渡り、寮のエントランスに入った。

 石に似た質感のつるつるとした床は、昼間でもつけっぱなしになっている電灯に照らされて少しまぶしいと感じるほどだった。

 エントランスの中央から伸びるエレベーターは、四基が一つの大きなチューブに包まれていて、最上階まで真っ直ぐ突き抜けている。

 

 朔夜はようやく薬を飲めると安堵しながら部屋へと向かい、そこで足を止めた。



 部屋の前には見知らぬ青年がいる。


 浅黒い肌に漆黒の髪。朔夜に横顔を向けたまま、その場にたたずむ青年はひどく端整な面持ちをしていた。

 足音を聞きつけたのか、ふっと顔を上げ、こちらを向く。髪と同じ色をした双眸はすらりと抜いた刀剣のように鋭く、そして冷たかった。


 朔夜は最初、場所が場所だけにナーサリーの生徒だと思っていた。

 見たことはなかったが、いまだにほとんどの生徒を覚えていない朔夜にとっては大した問題ではない。

 何の用か、と訊こうと側に寄り、朔夜は青年が身にまとった服に気がついた。


 ルオウやサテライトの軍人たちが着ている白の制服とは異なる、黒の上下――



 中央の制服だ。



 そう思うのとほぼ同時に朔夜は敬礼をしていた。


 中央こと中央統括司令部は全ての部署を統括する役目を担う軍部最高の機関だ。

 これに属している者は同級の相手に対しても上位の権限を持ち、それを管理する役目を負う。

 ナーサリーの学生である朔夜にとっては正規軍の制服をまとった全ての人間が上官に当たるが、やはりその中でも中央統括司令部は別格だった。


 上官には必ず敬礼を行うこと。


 やる気のない主任教官ルオウが唯一強調していたこの台詞を朔夜は今更ながら思い出した。


 しかし一般教育課程の中途である現段階で敬礼をする機会など朝練の前後、目の前にルオウがいるときくらいしかない。しかもナーサリーに入学してからまだ三カ月も経っていないのだ。まさかこんなに自然に敬礼できるとは思わず、朔夜は内心驚いていた。そして心身ともに軍人になっていると感慨に浸った。


 青年はこめかみに手をかざしたまま動かなくなっている朔夜を、眉根を寄せて見た。それから目の前の扉を見上げ、もう一度朔夜に視線を戻す。



「お前の部屋か?」



「はい」



「――サクヤ……サクヤ・キサラギ?」



「はい」



 歯切れよく答えるように。



 ルオウに云われたことを思い出しながら朔夜は精一杯返事をした。青年は扉の脇についているネームプレートから目を離し、小さく頷いた。



「――そうか」



 何がそうか、なのかはよく分からなかったが、とにかく一刻も早くこの場から去って欲しかった。

 薬を取りに来ただけなのにこんな目に遭うとはついていない。



 朔夜が心の中で悪態をついていると青年はおもむろにきびすを返し、こちらへやってきた。


 顔を曇らせていると、不意に青年が口を開いた。



「礼は」



 朔夜は眉根を寄せた。青年の口調が何かを思い出しているようだったのと随分とゆっくりだったのとでいぶかしんだのだ。

 しかし次の一言で朔夜は再び背筋を硬直させた。



「礼は階級の高さによって行う時間が違う。尉官に対しては始めの一瞬だけでいい」



「すみません!」



 体から一瞬熱が抜けた。

 慌てて手を下ろすと青年はほんの少しだけ表情を和らげ、それからまた元の厳しい顔つきに戻った。制服の裾をひるがえし、朔夜から顔を背ける。



「謝らなくていい。ただ――」



 呟くような小さな声だった。

 朔夜はよく聞き取れなかったため、顔を曇らせた。その脇を通り過ぎながら青年はそこだけいやにはっきりした声でこう告げた。



「俺がここにいたことはシン・ゼンには黙っておくように」



 静電気のようにぴりりとした感触が全身に駆け巡る。

 朔夜はすぐに振り返ったが、青年はエレベーターの方に歩き去るところで後顧することはなかった。


 朔夜は薬を取りに寮に帰ってきたのだというのも忘れて、その場に立ちすくんでいた。



 ◇



 謎の青年に会ってからの十日間、朔夜はいつにも増して苛々していた。

 原因は分かっている。

 朔夜はデスク表面に浮かび上がるホログラフィーから視線を外し、教室の最前列に座る金色の頭をちろりと見た。



―――シン・ゼンには黙っておくように



 あの台詞が頭をよぎるたびにシンの姿を探してしまう。

 どういう関係なのか。何故、部屋の前に立っていたのか。あの男は一体何者なのか。

 勝手に詮索を始め出す自分に苛々する。



 他人に自分の思考をもぎとられたくない。他人に興味を持ったなんて思いたくない。



 朔夜は自分の脳内から他人を排除しようと頭を強く振った。


 けれど完全には追い出せず、心の中には泥のような気持ちの悪い塊が残った。コ-ルタールのような粘り気がある重々しい塊。

 問題の台詞を思い出す度に残り、蓄積していく。

 その不快感に顔をしかめながら、朔夜は再びホログラムに見入った。



 スクリーンの中でくるくると回っている映像は地球が敵と公言してはばからない火星の外観である。


 暗澹の五百年に外部惑星に散っていった人々の話が主軸となるこの授業は、地上で禁止されている内容を取り扱うためか、通常の歴史の授業より起きている生徒が多かった。

 敵を知るためにはその歴史的背景を学ぶ必要があるということらしいが、どこまでが本当なのかは分からない。


 政府が派遣した研究員を、当時そこにいた火星人マーズレイスが野蛮な手段でもって惨殺した。これは初等科の最初の方でも習う基本的な事柄なので、さすがに朔夜も知っていた。


 当時は火星人マーズレイス怖いと云いながら震えていたものだった。火星人マーズレイスに扮した年かさの幼馴染みに泣くほど追いつめられたことは、今もって忘れていない。


 軍学校に入って、朔夜は初めて火星がその後どんな運命を辿ったのかを知った。

 昔語りではおしおきしたというような軽い云い回しだったが、その実ただの虐殺だった。地球は火星に、火星人マーズレイスのみをターゲットに感染するカビを散布したのだ。


 火星人マーズレイスが先に攻撃を仕掛けてきたから、そもそも生体機械として作られた火星人マーズレイスは人ではないため『殺人』にはあたらないというのが当時のコロニー側の意見らしいが、聞いている限り苦しい云い訳だった。


 確かに今でも火星人マーズレイスは人ではないとされていた。それは彼らが暗澹の五百年以前には存在しない種族で、人工的に造られた者たちだったからだ。


 火星人マーズレイスを作ったのは、現在衛星連合を構築している土星人サタンレイスと呼ばれている種族だった。


 地上でウイルスが発生したことがきっかけで住む場所を失い、地球を離れ火星に住むことになった現在でいうところの土星人サタンレイスは、人手不足を解消するために現在の火星人マーズレイスと呼ばれる生体機械を造ったとされている。

 その後土星人サタンレイスたちは何らかの災害または病害に見舞われたことにより火星を離れ、木星の衛星イオ、土星の衛星タイタンなどの軌道衛星に移り住んだものと見られている。


 自発的に去って行ったにも関わらず、今でも土星人サタンレイスは火星を故郷としている。そしてその故郷を攻撃し、かつて自分たちが造りあげた奴隷種族を皆殺しにした地球を激しく憎んでいる。


 衛星連合がことあるごとに火星問題を取りあげ、地球に対したびたび過大な要求を突きつけてくるのはそのためだった。


 逆恨みとこじつけはなはだしい限りだったが、そもそも発端となった火星人マーズレイス殲滅事件さえなければこんなことにはなっていないのではないかと、朔夜は思っていた。


 いくら人ではないとされていたとはいえ、人の形をしているものを全滅させようなどという考えには普通は至らない。


 ここまで過激で一方的な虐殺になったのは、政府が派遣した研究員の中にライザーの血族であるジュール・ベリドゥールがいたからだという説がある。

 彼女の存在故にこの虐殺事件は起きたとされていたが、近年の研究ではむしろアースグループは過熱する世論を抑えようとしていたという話に変化しており、現在ではこの説は下火である。


 朔夜は苛々しながら机のすみを叩いた。


 ジュール・ベリドゥールという名から、またもや謎の青年が放った言葉を思い出したからだ。

 あの台詞が頭にこびりついたように離れない。


 教室にはルオウのやたらとはきはきとした声が響いていてうるさいくらいだったが、それすらも頭の中の声を追い出してくれるまでにはいたらなかった。


 呪いの言葉のように脳に染みついてしまって離れない。あの男がシンの親族だろうがなんだろうが朔夜には関係ないはずなのに、気がつくとそのことについて思案を巡らせている自分がいる。


 朔夜はそれが非常に嫌だった。


 ルオウが語る禁じられた歴史も朔夜の耳には入ってこない。


 その日も結局、授業に集中出来なかった。

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