6

 朔夜が去ったあと、シンは追いかけようときびすを返しかけたが、途中で止め、そっと溜息をついた。



「……シン」



 隣からためらいがちに声をかけられる。

 シンは、学内では主に行動をともにしている柔和な面持ちの少年のことを思い出して、ふりむいた。

 色のついた眼鏡をかけた少年──ジェセル・クラインが少し困ったような顔をしてシンを見ている。



「ジェシー……」



「今のはちょっと強引だったと思うよ。さすがに急ぎすぎじゃない?」



「だが」



「移動が苦手なんて嘘つくのもどうかなって思う。嫌味っぽいし。しつこいと余計に嫌われるよ」



 淡いブルーのレンズが天井の明かりを反射してきらりと光る。色の判別がつかない奥まったところで細められた目は曇っていて、あきれているふうだった。



「そうだな」



 その答えを聞いてもジェセルは得心がいかないような顔をしていた。



 ◇



 授業用の教室があるのは、暗澹の五百年にショッピングセンターとして使用されていた第十四エリアである。

 巨大な土管を縦にしたような建物の中にはドーナツ状の階が何層にも連なっていて、その階の一つ一つに二十以上の教室がひしめいている。


 正規の役割を担っていた頃には食料品や雑貨店、服飾、書籍関係など、膨大な数の店舗が軒を連ねていたに違いないが、ナーサリーがこの空間を占拠するようになってからはほとんどの部屋は使われていない。

 そんなに大量にはいらないというのがその理由だ。


 シンたちはそういった使用されていない部屋の前を通り過ぎ、射撃演習場に急いだ。


 建物の中には通路用のチューブが多数渡されている。

 チューブの中は低重力設定がなされているため、移動には両脇に設置されたレールを伝っていかなければならない。さほど悪くない運動神経と優れた平衡感覚のおかげでシンがこの移動に困ったことはなかったが、多くの生徒たちはいまだ上手く渡ることが出来ない。授業が終わってすぐに出て行くのはそのためだ。


 スペースシップの中は地球と同じ重力設定となっているため、戦闘艦に乗っても無重力状態を経験することはない。

 しかし制御システムが破壊されるなどの緊急事態が起こるとそれが消失してしまうことがある。それは普通、外部からの被弾によって起きることなので、戦争にならない限り経験することはない。しかしそのいつ起きるかも分からない緊急事態に備えて鍛錬を重ねるのが軍だ。

 そのため、ナーサリーでは通常移動の際に訓練を兼ねてこうした設備を設けていた。



 シンたちは見知った生徒たちが道の中途で詰まっているのを横目に移動速度を上げた。

 

 途中、いくつか枝分かれした道が現れる。シンは迷いもせずに道を選び取り、腕に力を込めた。

 レールを握っていた手を放し、その反動で透明なチューブの中を飛ぶ。吹き抜けの空間の下部では真っ黒な制服をまとったナーサリーの生徒たちが行き交っていた。



「ライザー」



 至近でかけられた声にシンは必要以上にびっくりしてしまった。てっきりジェセルに話しかけられたのだとばかり思っていたが、そこにいたのは彼ではなかった。



「……ウェーバー」



 シンは慣性で移動しながら、驚いたようにクラスメイトの名を呟いた。


 アルノルト・ウェーバーとは数回しか話したことがない。

 級長に推薦されるだけの人望持ち、有名な軍人家系の生まれであるということ、ナーサリーの同級生セラノ・カダフィ、エリラズ・ダウムとは幼馴染みの間柄でいつも一緒に行動しているということくらいしか知らない。

 何か用があるとも思えず、シンは混乱した。ウェーバーが声をかけてきた理由が分からなかった。



「何であいつに構うわけ?」



 突然始まった不穏な会話にシンは目を見開いた。



「あいつ?」



「サクヤ・キサラギ」



 ウェーバーは短く刈り込んだ髪のおかげで端整さが際立つその顔をしかめた。身長差があるせいで威圧感がすごい。



「どうしてそんなこと訊くんだ?」



「お前、アース総帥の孫なんだろ。傍から見てるだけで嫌がってるのがわかる相手にしつこく迫るのって上の階級の人間としてどうなのかって思ったんだよ」



「今のおれと家は関係ない」



「それはお前が勝手に思っているだけ──」



「アル!」



 シンとウェーバーの間に飛び込んできたのはセラノ・カダフィだ。まだ低重力の移動になれないらしく、そのまま素通りしてチューブの壁に激突した。



「ごめん、ゼン。アルに悪気があるわけじゃないんだ。ちょっと虫の居所が悪くて。ごめんな」



「セラノ、黙ってろ」



「ごめん……」



 ウェーバーの一喝にカダフィは黙り込んだ。



「アルノルト、最終試験中だ。騒ぎを起こすのはよくない」



 云いながら現れたのはもうひとりの幼馴染みエリラズ・ダウムだった。視線で先に行くよう云われ、シンは黙ってうなずいた。



 ◇



 もやに覆われたようにけぶる、その街は青い。


 透明な水の中にいるようにそこにあるありとあらゆるものは青く染まっていて、それ以外の色は見出せなかった。

 永遠に続くかのように真っ直ぐと伸びた幅の広い道路とその脇に立ち並ぶ白亜のドーム群。

 街路樹を模した石の木々が薄青く染まったドーム状の民家の合間合間に立っている。



 マジックミラー式のガラスが張られた窓は叩いても応答はなく、虚しく己の姿が映るのみだ。塀に囲まれた庭の中には鍵を付け忘れた遊具が無造作に置いてあった。


 時折思い出したように風が吹いて、パジャマの裾をはためかせる。

 本来は白いはずのその寝巻きは青色の空気に染まってベビーブルーに変色していた。十の年のまま、変化しない小さな手も黒ずんだような影を落としている。



 朔夜は四年前に後退した小さな体をひねらせて、大路おおじの周りにのきを連ねた民家から抜け出した。


 低重力のため、体はほんの少しの動作だけで軽々と宙に浮く。

 朔夜は中空に浮かんだ体を器用にコントロールしながら再び道路に戻ってきた。

 二百メートル以上ある幅の広い道路には車一台止まっていない。どこまでも真っ直ぐと伸び、地平線の向こうへ消えて行く。

 

 朔夜は藍色に染まる道路の真ん中に立ち、濃紺とパウダーブルーに塗り分けられた画面をぼんやりと見ていた。



 耳が痛いほどに静かな、誰もいない街。

 全てが青く染まるこの街に朔夜が初めて訪れたのは、家族が死んだ、その夜のことだった。




 両親と弟は首都アスガードで買い物をした帰りに事故に遭ったのだという。


 朔夜はその日だけで肉親の全てを亡くし、絶望の淵に立たされていた。朔夜には遺体安置室に置かれた白いカプセルを見たあとからの記憶がない。

 気がついたときには家に帰ったあとで、何をするでもなく二階の子供部屋に上がり、それからずっと泣いていたのだ。


 泣いて泣いて、声がれるまで泣いて、不意に感じた肌寒さに目を開けるとそこはすでにこの街だった。


 今と同じくぐもった青い大気に包まれた街は、朔夜を道の真ん中に残したまま、静かに眠っていた。

 六つの小塔が周囲を取り巻く、信じられないくらい大きな塔。


 幼い頃の朔夜はそこからまっすぐ伸びるメインストリートらしき道の真ん中に立っていた。

 大路の周りには目の前の巨大建造物と似た、てんとう虫の殻のようなドーム様式の建物が所狭しと並んでいる。


 そこは形容でもなんでもなく、本当に全てが青い街だった。


 それは本格的な夜が迫る前の、まだほんのりと明るい夕暮れ時の空気の色と似ていて、そこにいるだけで何だか物悲しいようなそんな気分になった。



 朔夜は藍色の影を落とす、道路の上に引かれた白線を辿るように歩き、時折立ち止まっては辺りを見回した。


 視界を遮る障害物は何一つとして存在しない、やたらと幅の広い道路の脇に林立する同じような形の家居は一様に真っ白で、その形状と相俟あいまって深い森の中のきのこのように見えた。


 天に届かんばかりに高い建物に囲まれた中央塔はなにやら物々しい雰囲気をまとっていて、見つめているだけでも空恐ろしい気分になった。見上げれば空はビロードを貼りつけたかのように滑らかな紺色でいつも見ているものよりも数段綺麗に思えた。



 重力が低いのか、軽く足を踏み出しただけでも体が中空に浮く。朔夜はポンポンと飛び跳ねるようにして進みながらどうにかして人を見つけ出そうと声をあげた。けれどそれに応えるものはなくそればかりか街には人以外の生物も見当たらなかった。


 住宅らしきドーム型の建造物にはこんなにも辺りは暗いというのに明かり一つついておらず、この街が廃墟であることを如実に物語っていた。

 街の人間全てが、ある日突然神隠しにでもあったかのような美しい廃墟。

 けぶるような青い大気に侵された街の中で白い壁に書きなぐられた落書きの跡が目に沁みた。



 あまりにも音がしないので逆に音が聞こえるような気がした。キンとしたようなその音は人っ子一人歩いていないこの街の寂しげな雰囲気をさらに助長し、目に見えない恐怖感を朔夜に与えた。



 ぶるりと身を震わせ、パジャマの裾で首元を覆う。

 白いその寝巻きと自らの記憶だけがここに来る前と変わらず同じで、朔夜はやはりあれは夢ではなかったんだな、と他人事のように思った。


 青い電灯に照らされて浮かび上がる、真っ白なカプセル――朔夜は衝動的に脳裏に浮かんだ、その映像を払うように首を振りその場にしゃがみこんだ。



 何故一緒についていかなかったんだろう。



 朔夜は涸れるほど泣いたにもかかわらず、再び目尻を濡らし始めた液体をがむしゃらに拭った。こすりすぎたせいで目頭が酷く痛んだ。



───ひとりで大丈夫なの?



 自分を一人置いていくことに心苦しそうな表情を浮かべる母親。



───薬をちゃんと飲むんだぞ



 何度もふりかえる母の背に手を回し、玄関に誘いながら最後に一瞥いちべつをよこした父親。


 喘息の発作を起こし、家族で行く予定だった買い物についていくことが出来なかった。

 そのために一人取り残されてしまった。


 朝方には発作は治まっていたはずだったのに。養生なんてせずに一緒に行けばよかった。


 手はぬぐってもぬぐってもあふれ出す涙でびしょびしょに濡れていた。体が痛くなるほどの悲しみはとうの昔に涙によって消化され、胸の内には何も残っていない


 それでも朔夜は泣き続け、やがて涙は一滴も出なくなった。泣けなくなるのというのもそれはそれで辛い。朔夜は焼けつく顔面と空っぽの体をひきずりながらよろよろと立ち上がった。

 目の前にまっすぐ伸びる道路の中央に何か白いものがいることを発見したのは、ちょうどそのときだった。



 ゆらりと立ち昇る、陽炎のように不確かなほのじろい光――朔夜にはそれが人の姿に見えた。


 腫れた目を凝らして見ているうちにじょじょに光の輪郭が鮮明になっていく。そして彼は白い光を身にまとったその人影が自分と同い年くらいの幼い少女だと知った。


 先程までは確実に誰もいなかった道路の真ん中に立ち、少女は微笑む。


 花びらを重ねたようなデザインのロングドレスを着た少女と、人も車も通らない公道のギャップに、朔夜は何だか恐ろしくなって全身を大きく震わせた。


 そんな朔夜の気も知らず、少女は白い燐光を発しながらゆっくりと近付いてくる。煙のような残像が目にのこった。



「誰?」



 訊くと少女はふわりと笑った。



「ゆえ」



 言下に少女は朔夜の手を取った。

 その手はおよそ生きている者のそれとは思えないほど何の体温も感じられなくて、朔夜は再び全身に鳥肌が立つのを感じた。

 それでもその手を振り払い、逃げようと考えなかったのは少女の笑顔があまりにも屈託なく、邪気を感じなかったからだ。


 真珠の粉を振りまいたような、きらきらと輝く白いもやをまとわせ、少女は顔をのぞきこんできた。



「遊ぼ」



 その言葉におずおずと頷くと、少女は花がほころぶような満面の笑みを浮かべた。


 そして空気のような自然な動作で朔夜を中空へと誘った。





「朔夜」



 呼ばれて朔夜はつむっていた目を開いた。


 初めて出会ったときと何ら変わらない少女が上から覗いている。年齢も身にまとった服も同じ。しかしそれをいえば朔夜もそうだった。外の世界では絶え間なく時間は流動しており、あれから四年もの月日が流れたというのに、この世界にいるときの朔夜の姿は家族を亡くした日から全くもって変わっていない。



「どうしたの? さっきからずっと何か考えてる」



 ところどころひび割れた地面に横たわったまま、朔夜はゆえを見上げた。

 

 藍色の闇に埋もれることのない白いその姿は、存在するもの全てが青で埋めつくされたこの都市ではかなり異質だ。


 少女が身動ぎをするたびに、透きとおるような細い髪がきらきらとした光をこぼし、真っ青な大気へと還っていく。



「──ゆえと会ったときのことを思い出してた」



 色素が抜けたように青い瞳に自分の姿が映っている。朔夜は透きとおったようなその瞳を見つめていることが出来なくて、再び目をつむった。


 ゆえは余計なことは決して訊かない。ただ黙って側に居てくれる。


 両親が死んで四年しか経っていないのにあんまりそのことを思い出したりしないのは、きっと彼女が側にいてくれたからだろう。けれどもそんな彼女でも、最近の朔夜の憂鬱を払うことは出来なかった。



 苛々する。



 朔夜はゆえの存在を拒絶するようにまぶたに力を入れた。

 そうしてしばらく経つと、いつものようにゆえの存在が希薄になり始めた。

 


 ひとけのない青い都市とともに全てが眼裏の暗闇に溶け、やがて一つになる。

 そしてあの音が聞こえ始めるのだ。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……

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