4

「サクヤ・キサラギ! サイト・シアク!」



 アリオス・ルオウの澄んだアルトが、イヤリングタイプのレシーバーから響きわたる。

 朔夜はオペラ歌手並みのその声にびくりとして足を止めた。

 名前を呼ぶのは歩かないように、と戒めるためのはずなのにこれでは逆効果ではないかといつもながらに思う。

 しかしどちらにしても朔夜にはすでに走る気力はなく、あるのは授業に間に合うようにゴールに辿り着くという心念のみだった。これ以上何か云われてはたまらないとイヤリングを外し、ぶらぶらと歩き始める。

 その後ろから軽い舌打ちが聞こえた。



「ニ十キロなんて……無理に…決まってんじゃん…っ」



 投げやりな台詞とともに蒸気機関のような荒い息遣いが聞こえた。音があまりに激しく、またあまりに至近距離で聞こえるので、朔夜は眉をひそめて後方をふりかえった。

 後ろには今にも死にそうな姿の少年がいる。顔からは濁流のように汗が流れ、オレンジ色の短髪もぐっしょりと濡れている。何をするとここまでなるのかと朔夜は思わずじろじろと見た。すると少年はその視線に気がついたのか、やにわに顔をあげ、ひきつったような笑顔を見せた。



 こういうとき、普通は励ましの言葉でもかけるのだろうか。



 朔夜はそんなことをぼんやりと考え、しかし何も云わなかった。


 スタートから全速力で走ってきたのかと思うほど疲れ果て、今すぐ倒れてもおかしくないくらいによろよろと道を歩く少年から目を離し、歩く速度を速める。


 朔夜も確かに疲れてはいたが、早歩きをするくらいの気力はあった。

 元々無理をして発作が起きても面倒だという気持ちが朔夜にはあるので、少年のように息も絶え絶えになるほど走ろうという気が最初からない。そのため心拍数は上がっていたものの、さほど疲れてはいなかった。

 見る見るうちに少年は遠ざかり、荒い呼吸も聞こえなくなる。朔夜はもう安心だとばかりにほっと息をついた。すると今度は前方にいた少年が振り返った。



「キサラギって見かけによらず体力あるよなぁ」



 ぎょっとする朔夜に構わず、少年は速度を落として、脇に並んだ。

 やや長めの前髪が印象的なその少年は驚くほど小柄だった。下の年齢制限は去年の段階で十二のはずだが、どう見てもそこまでいっているように見えない。

 ユニオンのメインコンピュータに侵入して出生データを書き換えたのか、というほど幼い容姿を持った少年は外見に似合わない粗野な動作で朔夜の肩を叩いた。



 痛い。



 朔夜はどこか遠くでそう思うと、叩かれた箇所を眺め、そこをこすった。

 感覚はちゃんとあるのに、録画していた画像を見るように現実感に欠けている。



「腕立て伏せの時だって回数はそんないかないけど、あんま疲れてないじゃん? 昔、なんかやってたりした?」



 首を振って答えると、少年は朔夜の反応の薄さを怒っているものだと勘違いしたらしい。少し慌てたようにこう付け加えた。



「――ああ、探られてるって思った? まあ間違いじゃないけど、単に人間観察が趣味ってだけだから、無害、無害。でも、ま、悪かったな」



 童顔少年はカラカラと笑い、足を蹴りだすようにしながら歩きの速度を速めた。

 人の気など全く気にしないその態度が朔夜に故郷の幼馴染みの一人を思い出させた。喋るのが好きで周囲の笑いを取るのに長けていた少年。喘息で外に出るのもままならなかった朔夜を疎(うと)んじ、同じ顔であるにもかかわらず、極めて健康体だった弟と二人、いつも遊んでいた。

 幼かった朔夜は窓辺からその光景を見下ろす度に泣きたいような気持ちになったものだ。

もっと幼いころにはそんなふうに感じたりなんてしなかったのに。あれは一体いつぐらいの出来事だったのだろう。



「なあなあ、キサラギ。自分がどんな理由で選考に残ったのかって知りたくね?」



 童顔少年は突如としてそんなことを云った。眉根を寄せる朔夜をよそにさらに続ける。



「俺はめっちゃ気になるんだよ。だからここにいる人間を観察していけばどういう基準で選ばれたか分かるかもしれないって考えてるんだけどさ、お前はどう思う? 求められているものが何なのか判れば、本物の最終選考までにそれを重視して伸ばせばいいし、効率良さそうじゃね?」



 少年の話すことに興味はあったが、誰かと話すことは陰鬱だった。

 それよりも彼が告げた『本物の最終選考』という言葉を聞いて、朔夜は一気に気持ちが沈むのを感じた。



 本物の最終選考。それは登校初日にルオウが特別クラスの八十六名に告げた言葉からきていた。


 この度ナーサリーが特待生を募集したのは現在軍で進められている新しい企画の一端であること。試験に合格した八十六人には軍が求める素質があること。しかしその素質は試験や面接では全容を把握出来ないため、ナーサリーで実際に授業を受けて貰ってその過程で本物の最終合格者を決めるつもりだということ。


 これを聞いた生徒たちはもちろん反発した。

 折角ナーサリーに入学出来たと喜んでいたのに実は試験はまだ途中で、このあと、自分が落とされる可能性が少なからずあるということが生徒たちには我慢ならなかったのだ。

 しかしそのことについては軍側もいくらか措置を検討してくれていたらしく、もしも特別クラスから落ちたとしても一般クラスへの編入は認める、とのことだった。それで生徒たちの気はいくらか休まり、今に至るのだった。

 

 けれども一般クラスの生徒になるということは特待生として免除されていた諸経費がかかるわけで、全額免除の言葉に踊らされて受験した朔夜には好ましくない事態だった。



 思い出させないで欲しいと顔をしかめる朔夜に少年はなおも話そうと口を開く。しかしそれが言葉になることはなく、代わって少年とは違う声が入り込んできた。



「……そんなに、しゃべる気力あんなら走れよ……エステバン……っ」



 見ると、そこには先程疲れ果てていた少年がいた。戦場で負傷した兵のようによろよろと二人の元へやってくる。



「今更走ったって点数かわんねえし、だったら歩いた方がいいじゃん。つーか、シアク疲れすぎじゃねえ?」



「うっせーよっ……大体なんで……点数変わらないことわかんだよっ」



「ルオウ教官が名前呼ぶの、最初だけだから。これって走ってる奴らのタイム計り終えたらそれでオシマイじゃん。体力勝負の立派な軍人になって欲しいんだったら、いくら指導するのが面倒ったって少しは云うだろ。それに軍が欲しがってる人材が、ニ十キロくらい走れなきゃやっていけないような人間なら、最初の体力審査で落とされてるはずだろ。サイちゃん、一カ月近くもやってんだからそのくらい分かってくれよ」



「わっかんねーよ!」



 ぎゃあぎゃあと云い合う二人組を尻目に朔夜はぶらぶらと歩いていた。


 気分は最低だった。先程の最終選考の話題が耳について離れない。



 もしも落ちたらどうしようか。今更働くところなどないし、第一疲れるような仕事はしたくない。



 朔夜は落第後の進路について本気で悩みながら、石張りの道を辿っていった。




 三人のいる場所からちょうど反対の丘では先頭集団が走っている。人数はかなり少なく点々とした黒い粒が五つか六つ見えるだけだった。童顔少年が額に手をかざしながら朔夜が見えなかった五、六粒の黒い点の名を挙げていく。



「ウェーバー、ゲーリングにオハラ、シノン。女子トップはライデン――やっぱ、上位の面子はおんなじだな。ライザー、短距離は強いのにな。長距離は結構駄目みたいだ」



 ライザーという名に体がびくんと反応する。

 それでむかつきはさらに高まった。しかし朔夜の様子に気付かない二人組は能天気にも話を続ける。



「完走してんだから、オレらよりましだろ」



「まぁね」



 童顔少年は頭の後ろで腕を組んで、けらけらと笑った。そして前を行く朔夜のあとを追いかけるように足を速めた。



 細い金色の光が緑色の大地を照らし出す。朝露で濡れたのか、靴越しに伝わる草の感触は随分としっとりしていた。早朝特有のひそやかな空気の中、レシーバーから漏れるルオウの低い声が時折響いた。



 朔夜はこの世に独りになったかのような錯覚を起こさせる朝の空気が好きだった。


 少し肌寒い風と立ち込める草の匂い。霧雨のような細かい水蒸気を混じらせた弱々しい光。何もかもが遠くて、じっとしていると体が浮きあがるようなふわふわとした感覚を味わうことがあった。細胞が分解して分子に還元されていくような不思議な感覚。


 しかしこの日はその感覚を味わうことは出来なかった。原因は至近距離でくだらない話に花を咲かせる二人組だ。苛立ったりすることはないものの、距離をおいて欲しいと朔夜は思っていた。

 しかしそんな朔夜の気持ちをよそに二人はまたもやシン・ライザーを話題に出した。



「おぉっと、シアク愛しのライザーが今ゴールイン!」



 童顔少年は爪先立ちしながらぴゅうと口笛を吹いた。朔夜は聞かないふりをして足を速めた。



「愛しのじゃねえし! あいつ男だろ! つーかいい加減ライザーって呼び方やめてやれよ。本名はシン・ゼンだろ」



「ゼンよりライザーのが呼びやすいんだし、今の総帥がゼン家なんだからイコールみたいなもんじゃん。他の奴らだって皆そう呼んでるよ」



「呆れたやつだな。お前は他の奴らがやってれば自分もやるのかよ! 相手が嫌がってたらどうするんだよ」



 童顔少年は朔夜の肩にひじをかけてきた。



「あんなこと云ってるけど、あいつ、入寮して開口一番『あの子、可愛い』とか口走ってたんだぜ。それこそ相手が嫌がることかもしれないのにな」



 冗談めかして云うその言葉に、朔夜は応答することが出来なかった。遠い世界の言葉を突然投げかけられて戸惑っていたからではない。目の前に子供が立っていたからだ。


 陽光を反射して銀色に輝く石畳。緩やかにカーブした石の道にいるはずのない子供が立っている。


 防寒性の薄い上着に厚手のスラックス。

 灰がかった不思議な色の髪をやや長めに伸ばしたその子供は、大きな焦茶色の目を閃かせ、朔夜を無表情に見つめていた。幼い頃の自分と寸分違わぬ顔。


 朔夜は身じろぎも出来ぬまま、その子供を凝視した。急に立ち止まった朔夜に不審を覚えたのか、前を行く少年二人組がふりかえる。



―――朔



 子供は朔夜の方へ一歩近付いた。同じ顔。同じ声。同じ体。呪われたように全てが同じその子供は四年前に死んでしまった双子の弟、のぞむだった。



―――朔



 子供はゆっくりとこちらに近付いてきた。ぐずぐずと崩れるような不安定な歩き方はとても人間だとは思えない。朔夜は一、二歩後退あとしざると、そのまま動けなくなり縮こまってしまった。


 全身が絶えずぶるぶると震え、咽喉のどの奥がひきつったようになって声も出せない。そんな朔夜を嘲笑うかのように子供は自分より背が高いはずの朔夜の頬に手を当て、やにわに微笑んだ。完璧な笑顔。そんなものが世にあるのだとしたら子供の顔は正にそれだった。一糸の乱れもないその顔は人間のそれではない。


 朔夜はますます恐怖を感じてがくがくと震えていた。

 目を離したいのに離せない。目の前の子供に神経の全てをもぎ取られてしまったかのように何もすることが出来なかった。

 そんな朔夜の頬に、子供は当てていた手を皮膚の中にのめりこませる。ずぶずぶと入っていく手を視界の端に入れながら、朔夜はやはり何も出来ずにいた。恐怖で息も出来ず、窒息しそうだった。



―――うらぎりもの……



 一瞬凍りついたかと思うほど、体感温度が一気に下がった。刹那、耳の奥で何かが破裂するような音がした。それとともに世界も返ってくる。

 淡青色みずいろの空と緩やかな緑の丘。心配そうに覗き込む二人の少年が目の前にいる。



「どったの? ラギちゃん」



「何だよ、ラギちゃんって」



「いちいちつっこむなよ、おい本当に顔、真っ青だぜ」



 二人は何度も朔夜に話しかけたが、彼にはすでに聞こえていなかった。

 覗き込んできた少年の手を力一杯払い、朔夜は逃げるように走り出した。



「ラギ!」



 その日、朔夜は朝練を中途で放棄したことを咎められて、反省文を直筆で書かされる羽目になった。

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