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「整列!」



 集合場所に生徒たちの群れが形成されるころになると、主任教官のアリオス・ルオウがどこからともなく現れて、厳しい声を張りあげる。

 その声に、立ちながら船を漕いでいた生徒たちも、無理やり覚醒へと導かれる。



 ルオウは、褐色の肌と銀色の髪を持った美しい女性である。外見年齢は二十代後半というところだったが、不老治療さえも可能な現代において、年齢は大した意味をなさない。


 最近では若い外見に飽きた大人が、わざわざ皺を入れるという現象まで起きているほどだ。尉官であるルオウの場合もそうだと思ったのだが、端末で見た履歴を信用すると本当に若いようだった。


 今すぐ、モデルにでもなれそうな整った外観をした主任教官のやる気はほとんどゼロに等しかった。


 朔夜が入寮初日に遅刻したときも、彼女は酷く迷惑そうな顔をして一言、遅れるな、と云ったきり、適応されるはずの罰則も下さなかった。



 軍の中でも、ナーサリーや専門大学を卒業していきなり尉官階級に昇格する、いわゆるエリートは、叩きあげの軍人たちからしてみれば目障りな存在で嫌われている。

 何も知らない一般人がたった四年の年月としつきで昇級階段を駆けあがるのが嫌なのかもしれない。その辺りの事情よく分からなかったが、それを差し引いたとしても彼女の態度はあまりにも露骨だった。


 今日もほとんどの朝練メニューをこなし、残すところ長距離だけというところになるとルオウはいかにも億劫そうに嘆息した。

 彼女は長距離走の間、何もやることがなくただ立っているということが我慢ならないらしい。長距離の前は決まって溜息を吐いた。



 そのルオウが嫌がる長距離走の舞台は、寮を見下ろす平原と決まっている。


 一面に広がる柔らかな緑の下草と緩やかな丘の合間に流れる小川。青々とした葉を茂らせた木々が点々と生える若緑の草原は、寝転がるのには最適だが、走るのには全く適さない。


 刈ってもいない緑色の毛氈もうせんに埋め込むようにして置かれた敷石が道の全てで、毎朝ここでニ十キロメートルもの距離を走らなくてはならない生徒たちは決まって文句を並べていた。


 細い金色の光が緑色の大地を照らし出す早朝の草原、短距離を測り終えた八十六人の生徒たちは主任教官の号令一下、丘をぐるりと囲った石畳の道を走り出す。

 緩いなぞえを上り、下り、ある者は話をしながら、ある者は考えにふけりながら、思い思いに走る。




 微温ぬるい風が耳朶じだをかすめ、緑色の景色とともに後方に過ぎ去った。

 もやが張った朝方の草原は曇りガラスの向こうのようにくぐもっていて、ホログラムの山が煙のような白い霧に溶けている。

 焦茶色の幹と若緑の下草、よもぎ色の草葉。水彩で描いたような薄霧うすぎりの丘に弱々しい早朝の日光が降りそそぐ。


 寮周辺では暖かに感じた風も、高原の気候を再現しているらしいこの場では冷たいとさえ思えた。吐息こそ白く染まることはないものの、生徒たちの吐く息は知覚出来るように荒い。

 始めの方には聞こえていた話し声もじょじょに衰退化し、今では全く聞こえてこなくなった。

 石畳を蹴る音や草を踏む音だけが無言の空間に広がっていく。


 朔夜は一定の速度で呼吸をくりかえしながら、おざなりなスピードで走っていた。朔夜の後ろにいるのはすでにこれ以上走れないと見切りをつけた者ばかりで、いまだ足を動かしている者は総じて彼の前を行っていた。



 どくどくと高鳴る鼓動を聞きながら、霞の向こうの緑の風景をぼんやりと眺める。携帯が義務付けられている軍支給の端末の説明モードをオンにすると、途端に植物の名が読み上げられた。


 ケヤキ、ミズナラ、シラカバ、ブナ。

 アザミにハコベ、シロツメクサ、ハルジオン。


 暗澹あんたんの五百年に宇宙で暮らさなければならなくなった原因、急性感染症オズを引き起こすOSVは地上のほとんどの動植物に罹患し、そのDNAを書き換えていった。

 新暦元年以前に起こったとされる神代(かみよ)の戦争にも耐え、生き延びた生命はこれが決定打となり、原種は全滅した。


 約二百年もの月日をかけ除染した結果、一部のDNAを改変することによって地上に根付かせることに成功した。その実験区域が第六から第十にまたがるエリアだった。

 ここで生まれた新たな生命体はDNA管理協会に登録され、転写、複製され地上に植えられた。



 現在は縮小され、第九エリアのみがボタニカルガーデンとして利用されている。

 地球上の植物の祖、そして他の追随を許さぬ種類数が軍自慢だった。一年に一度、一般人に向けて公開される創設祭ではあまたの学者が訪れ、草原のいたるところに白衣の群れが、という光景も見られた。



 第九エリアは特に食料プラントとして運営された場所であり、このエリアには田園風景が広がっていた。ウイルスに汚染されていない純粋培養のイネ科植物を育てるため、感染源として疑われた昆虫や爬虫類、鳥類や哺乳類と、全ての動物が立ち入りを禁じられた。滅菌に滅菌を重ねた機械が種を蒔き、肥料を補充し、かんを整え、収穫した。


 現在の姿となったのは、暗澹の五百年が明けて五十年以上経過した頃、軍が統括するようになってからだ。


 マーカー処理という名のDNA改変によって生まれた動植物の転写複製は、一定以上のライセンスとユニオンへの書類提出が必要だったため、自然保護以外の目的で使用することは出来なかった。

 しかも手続きが煩雑だったため、高値での転売が横行し、コロニーの元住民による種苗盗難が相次いで起こった。

 軍とDNA管理協会の手が入って以降はそのようなこともなくなったが、今も地球の環境で増えにくい生物の闇取引は存在し、軍も目を光らせている。



 しかしそんな歴史的背景も絶滅植物の話も、実際にこの場所を使用するナーサリーの生徒たちにとってはどうでもいいことだった。


 地上にはほとんど存在しない植物が、数多く生息しているというのは学者ではないから分からないし、遺伝子バンクの由来ともなった歴史的にも貴重な特別性DNAなのだと云われてもあまり興味のない話だったため、そうですか、くらいにしか思わない。

 彼らはそれよりも一刻も早い『走りやすい運動場』への改変を願っていた。

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