第33話 じっさいの太公望はどんな人物か?

『封神演義』にも登場する太公望。

 じっさいにはどんな人物だったのでしょうか?


 太公望は姓を姜、名(諱)を尚、字を子牙といいます。

 そのため「姜子牙きょうしが」や、氏が呂なので「呂尚りょしょう」と呼ばれたりします。


 また春秋戦国時代における斉の国の開祖ともいわれ、「斉太公」とも呼ばれます。


 歴史上では伝説的な人物なので、なにをしていたのかについては諸説あります。


『史記』によれば、太公望は東海のほとりの人で、祖先は(中国古代の五帝の一人)に仕え、治水で功績があったといいます。

 それによって呂、もしくは申(いずれも河南省)の地を封られました。

 呂尚の「呂」はここから来ています。 


 呂尚は老年までずっと貧しい暮らしをしていました。


 あるとき、周の西伯(文王)が狩りに出かけようとしたとき、占いをしたところ、

「王の補佐たる者に出会えるだろう」

 とのお告げが出ました。


 そこで狩りに出たところ、渭水のほとりで魚釣りをしていた呂尚に出会ったのです。

 この時点で呂尚は老年に達していました。もうおじいさんです。


 西伯は呂尚と語り合い、

「あなたこそ、まさにわが太公(亡き父)が待ち望んでいた者だ!」

 といいました。

 ここから「太公望」と呼ばれるようになります。


 西伯は太公望を車に乗せて帰り、師と仰ぎました。

 こうして太公望の補佐により、周王朝が興ったのです。


 もう一つは、太公望はもともと紂王ちゅうおうに仕えていたという説です。これもおなじく『史記』に書かれています。


 太公望は紂王のもとで働いていましたが、無道だったのでそのもとを去り、自分の仕えるべき主をさがしていました。

 こうして各地を転々とし、やがて西伯に仕えたといいます。


 他にも諸説ありますが、『史記』では、

「いろいろ説はあるが、とにかく呂尚は文王と武王の師匠だったのだ」

 と強引にまとめています(この強引さがけっこう好きです)。

 

 太公望といえば、兵法書の『六韜』『三略』の著者としても有名です。

 これらについてはまた後日取り上げていきたいと思います。

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