幻業

水牛掴み取り処理場

幻業

 世に一つ、天を衝く黒い大樹が在った。十の熟れた果実と一つの白い花をぶら下げて、天からそれは生えていた。


 ぼとり、ぼとり。


 十ある実のうちの一つが腐り、中から清い白の翅の生えた処女おとめが降り落ちた。それに続くように、他の九の熟れた実から処女達が同じ様に落ち始めた。

 大樹の高き天からふちに向かって叩きつけられたその処女達は、暫く動かない。幾許かの時が過ぎて、漸く白い一つが体を起こした。白い処女は他の九体に目をやると、そのうちの一つの首筋に噛み付いて、青い脊髄を引き抜いて啜った。他の八体の分も全く同じに平らげて、残った肉は淵に重ねて捨て置いてしまった。噛んでいる途中に他の処女達が大きな音を立てて騒めいていたが、言葉のわからぬ処女は気にも留めなかった。


 処女が淵を這うと、向こうに黒い柱が蠢いていた。黒い柱は六百と五十五の足で淵を駆け回り、飛び跳ねた。処女は柱を目で追い続けて、そのうち自分の背中に翅があることを思い出した。処女は柱に飛びついて、柱の殻に爪を立ててしがみつき、足を丁度六百本もいだり、左手で頭蓋を握り潰して岩にしたりして楽しんだ。

 楽しい。楽しいとは、何か。見える者を粉々にすることか。処女にはそれがわからぬ。処女はそのまま柱を齧り捨て、淵の外へ歩いて行った。


 処女が淵からふしを通り歩いて行くと、そこに着いた。底には白い亡者どもがいた。ある者は朽ちた旗を掲げ、ある者は両の手を合わせて祈り、ある者は天に誓いを届かせんと叫ぶ。だが処女には、それらが何を意するか、よくわからぬのだ。

「母ヨ 母ヨ 命ヨ」

「ソノ瞳ヲ我ラニ捧ゲヨ」

 処女には言葉がわからぬ。亡者どもは乞う様に処女の周りにやってきて、歌を歌い出した。処女はそれが歌とは分からぬが、それでも亡者どもの顔を見渡して、処女がそれを真似して歌うと、周りの亡者達は一斉に金切り声をあげて、己の心の臓を握りつぶしながら果てていった。処女は遊び相手が居なくなったのか、悲しかった。

 悲しい。悲しいとは、何か。下劣な魂を無下にすることか。処女にはそれがわからぬ。仕方なく処女は炭になった亡者を骨だけしゃぶって抜け殻を淵に投げ捨てた。


 底を暫く歩くと、白い錆びた母屋が在った。処女はその中へ誘われるかの如く踏み入った。母屋は静かだったが奥に行くにつれ段々と騒がしさを増した。母屋の奥の奥、奥の奥へ、処女が立ち入ると、一つの打弦楽器が在った。九十七本の指を持っている。少し前まで耳障りな声を上げ続けていた楽器は処女が来ると急に黙った。処女には楽器の使い方がわからぬ。足を毟って齧ってみても、一口してすぐに吐き捨ててしまった。処女は楽器の指に目をやると、恐る恐る一番右の指を握りにいった。すると、指は急に奥まってしまって、代わりに処女の臓物を砕くような音が鳴った。処女は耳を塞いだ。歯を食いしばった。それから、両の手で目一杯の力で楽器を殴った。もう一回殴って、もう一回殴った。処女の耳が聞こえるようになると、楽器の指はもう動かなくなって、しまいに処女はそれを叩き割ってしまった。処女はこの楽器をひどく恨んだ。

 恨む。恨むとは、何か。耳に良くないものを淘汰することか。処女には恨むがわからぬ。恨むがわからぬが、この楽器にはもう処女は近づかなくなり、飛んで逃げていった。


 逃げた先の岩場には、また亡者の列があったが、もう熱を帯びていなかった。静かに呻き声を上げ徒花を砕き、嘗てのさがを喰らう亡者達はもう寸分の義務も背負わされていないのだ。無論、処女がその由を知る筈もない。処女はその亡者達の殻をぺりぺりと剥がして、中の骨だけを綺麗に舐めとった。それを見ていた、一人だけ歩みを進めていた亡者の成れの果てが、処女を見て呟いた。

「君モ橋ヲ渡ルノカイ」

 やはり処女には言葉がわからぬ。でもこの亡者は、直ぐ前の方の、黒い霧の立ち込める谷を指差していたので、処女はそれを目で見て、それから爪を立てて亡者の肝を抉り取って貪った。頭を掴むとどうにも亡者が五月蝿くするので、首の骨も右と左に折り曲げてから引き抜いた。それでもまだ鳴る亡者の頭蓋は、

「アナタガ、救ウブンダケヲ」

 としきりに呟いていた。処女はとうとう痺れを切らしたのか、有りっ丈の力で頭蓋を踏み割った。もう頭蓋が喋らなくなっても、処女は大地を穿ち続けた。処女が踏み抜き穿たれた地は、穴となって淵となった。軈て処女は、淵となった窪みで、涙を流した。泣けども泣き叫んだ。

 泣く。泣くとは、何か。亡者の骨を抱いて咽せることか。処女には泣くがわからぬ。だが、泣くと一緒に涙を流すが共にある事がわかった。それがわかると、処女は益々泣いた。それは叫びというより最早哮りに近く、亡者の骨を両の腕で抱えて、上、上の上、更に天井の闇の上まで轟いた。

 泣けば泣く程に、底の黒い湖は渇き、淵に灰が溜まっていった。底の亡者は、みんな居なくなってしまった。処女は節を通って、上のずいへと渡っていくことにした。


 髄は液に晒されている。透き通るような水色が、其処彼処の窪みに溜まっている。ずっと白と黒だった処女は、その水色に右足の指を軽く突っ込むと、少しずつその中に浸っていった。

 処女は液を左手にとって、臓物へ注いだ。続いて右の手で、髪を軽く掬って、亡者達の黒い吹き溜まりを洗い流した。その途中に、窪みの奥底に白い柱を見た。柱は四十二の腕で這いずり出でて、処女に気付くや否や飛び跳ねて逃げようとした。だが処女はもう飛び方を知っている。柱を捕まえた処女は顎から柱に齧り付くと、両の腕、両の脚を用いて柱の硬い外殻を貫き、破り、こじ開けた。すると、柱は内側から数百の黒い腕を放った。処女は腕に絡みつかれ、翅を引き千切られ柱の大口の深淵に飲み込まれた。


 餌を食い終えた柱は処女を胃袋に抱えて、重たそうに歩く。破られた殻と殻とを粘液で継ぎ合せながら、這いずり回り、つつへと続く節へと向かう。


 ごきっ、ごきごきごき。


 柱が、呻いたのでは無い。柱の胃袋の深淵から、何かが他を覗いている。そして、一瞬。

 処女は、柱の中、深淵との繋がりを食い破って舞い戻った。千切られた翅も、元どおりになっている。寧ろ、一層黄色く輝いている。処女は喰らった。数百の腕の内の一本を引き抜いて、芯の骨ごと食い千切った。髄を啜っては黒い穢れを吐き出し、それが処女にとってあまり良くないものと分かると、今度は翅をぴんと伸ばして、その筋を刃と化して振り回し、腕を切りはらった。切られた腕は、暫く悶えたがすぐに炭になった。柱は唸った。一度食った筈のものが再び自(おのれ)と合間見えている。食ったものが自ら深淵より這い出てくることが、柱には初めてだった。柱にはもう、処女を喰らう術が無い。残った四十二の腕で、その牙に噛まれぬよう、ただ逃げに走るのみ。だがそれを、処女が許す筈も無い。処女は飛びついた。処女の爪が鋭く突き立てられ、黄色く光り始めた翅は今迄よりも一層処女をはやくした。その勢い、柱の芯を歪ませる程に。

「オ オォォ オ オオォ ォォオォ オォ」

 柱のそれは号哭だ。ただ一つの命を守る為に、処女を喰らい、腕まで落とされた。それでも尚足掻こうとせん柱の、最後の踏ん張りの泪だ。

 柱のそれは怒号だ。自らの炎を断たんとする者、その冒涜への怒りだ。

 柱のそれは悔恨だ。自身の餌を、火を灯す薪を濡らされたことを悔い、それを乾かす間も与えられぬ恨みだ。


 そして、その柱のそれは、悲劇だ。


「e6848fe381aee6aebbe38288」

 処女は柱の号哭を知らぬ。怒号も知らぬ。悔恨も知らぬ。悲劇などにも、目もくれぬ。処女には、自らの発した、言の葉の意すら汲めぬのだから。

 処女の翅は引き裂く、柱の殻を。処女の脚は踏み潰す、柱の腕を。処女の顎は喰らう、柱の胎内なかにある深淵を。処女は喰らう。処女は喰らう。処女は、喰らう、喰らって、喰らって、喰らって、気付いた時にはもう、虚のみがそこにあった。

 処女は柱を食い散らかしていた。そこらに白い灰が嵩張るのも、柱の腕が黒く溶けるのも、骨が水色に還っていくのも気にしなかった。ただ柱の深淵が虚に化すまで、唯ひたすらに柱を喰らうのみ。処女は柱を喰い殺した。


 ――殺す、という意味とは。

 数多の屍を喰らってきた今なら、処女にはそれが理解できるやもしれぬ。今迄処女のしてきたことは殺しだ。白い柱を捕まえて喰らうことも、泣き叫ぶ亡者の頭蓋を踏み抜くことも、楽器の指を両の手で叩き割ることも、亡者達の心の臓を潰させることも、黒い柱の腕を捥ぐことも、そして、他の処女の髄を啜ることも。全ては殺すということ。殺すとは、生命を屠ることなのだ。

 ――生命、とは。

 今度は処女は生命という意義を自らに問う必要が有った。自らを動かせるものには、生命があるとするなら、では果たして亡者どもは生命なのか?打弦楽器の白黒の指が動いていたのも、生命ではなく意思の干渉では無いか?若しくは、そもそもそこに関わる意思とは何なのか?

 処女の頭蓋が揺らめく。白い柱の胃袋の中枢から喰らった深淵から腕を伸ばす概念の奔流が、処女の腹から胸に染み渡る。処女は苦悩した、或いは初めて苦悩出来た。処女は悩むことは出来ても、概念の全てを理解することが出来ぬ、許されぬ。頭蓋に熱がこもって、もう我慢の効かない処女は泣き出した。もう処女にはその涙を理解できる。悩みに悩んだ末に理解の効かない時、泣くことが出来るのだということを、そしてその不理解は振り切れない物だということも。処女の意思は奔流の一握りに必死に捕まってそれを自身に乞うと、とうとうその場に倒れ込んだ。



 髄の窪地は、冷たい。

 冷たいとは、肉体が少しずつ固まっていくような感覚。横たわる処女は眼を瞑りながらそれを理解した。

 髄の遥か彼方の縁から、黒の月が覗く頃、処女は漸く目を覚ました。気が付いた時には、周りを幾百の祈る亡者どもに囲まれていた。そのうちの一つが、処女に近づいて語り出す。

「輪廻ヨ、私タチヲ瀬ニ導イテ下サイ」

 処女は一歩退いた。まだ処女には言葉は早い。亡者の意思の破片を齧ることが精一杯なのだ。

「e4b88de58faf」

「何モ要ラズ、唯歌ヲ欲スルノミナノデス」

 もう一歩、二歩退いた。歌ヲウタウ。その行為は殺しを意味する。言葉を知らずとも、その理解はできる。処女は自身の深淵が蠢くのを感じた。あれだけ処女が執着した殺しが、今では自らせんとは思わないのだ。けれども亡者達はそれを欲している。処女の腹の深淵はそれを拒む。処女はまた頭蓋に熱を感じた。悩んでいるのだ。嗚咽して、叫んで、どうにか熱から耐えようとした。周りの亡者どもは狼狽えている。耳を塞いでいる。処女は唸った。これは、葛藤、か。また深淵から掴んだ奔流の一つに捕まろうとして、そこで処女の意思は途切れた。


 ――葛藤、とは。相反するものを等しくしてやりたいという欲求。うつらうつらの処女は起き上がってからそれを理解した。

 もう処女の周りには、亡者はいない。嘗てそうであった黒い柱の亡骸があたりに散らばっているだけ。彼等は処女の歌を聴いた。自らの意思を頬張るその殻を脱ぎ捨ててしまった。これが、悲しさか。処女は灰色の涙を流した。悲しさとは、意思を意思のまま形にしてやれなかったことだと、処女は理解した。その意思とは、亡者だったものであり、そして処女の歌への意思である。処女はそのどちらも手にしてやれなかった。亡者も自らの意思を手放してしまった。両の意思を還してしまった処女がそれを深淵に問いても、今は返してくれなかった。


 髄は広く、とても処女の脚で歩き切ることは出来ない。況してや上へと続く節はこの髄の果てにある。息つかずに歩みを進めていた処女の肉体はもう草臥れていた。疲労を取るべく処女は小さな洞に籠ることにした。

 草臥れる、とは、肉体が萎れてしまうこと。処女はそう理解した。そして肉体が萎れてしまうと、まともに歩くことも出来なくなってしまうようだった。

 処女は不思議だった。白い柱を平らげてからというもの、まるでなにかを喰らおうという気が湧かぬ。それどころか別の事が幾ら考えども考えども深淵から流れ出てくる。まず、不思議という思い、不思議というべき概念すら、理解出来なかったようにも思える。処女は自身を不気味に思った。不気味、とは、脅威の対象だと理解した。その上で処女は自身が不気味だった。何故こんなにも自分自身に対して無理解なのか?自身が至らんとする瀬に何を見るべきか?これは、初めて処女が認識した疑念だった。然るべき行為が何なのか正当性を保持出来ぬのだ。けれども処女は縋る者もおらず、唯怒りが自ずと湧き出るのみだった。

 ――怒り、とは。それは嘗て白い柱が処女に向けてきた矛。自身の意思に反する意思への抗いが怒りであると、処女は理解した。そして次に、処女は自身の胸に爪を立て、右腕で心臓をもぎ取っては握り潰した。然し潰せど潰せども、幾らでも処女の心臓は生えてくる。自分自身に怒りを向けることは初めてだった。だが処女は自分を殺すことはどう足掻こうとも出来ない。辛かった。自身の中にあらゆる意思が介在することが、処女をさらに草臥れさせていった。処女にとって辛みとは意思を正当化出来ないことだ。もう、潮時だ。諦めを感じた処女は自分の心臓の欠片を一口だけ頬張ってから、横たわった。



〈e59897e381a6e68891e38289e3818ce7949fe591bde381a8e591bce38293e381a0e38282e381aee381afe381a8e38186e381aee69894e381abe5a4b1e3819be38081e4bba3e3828fe3828ae381abe593b2e5ada6e3818ce7949fe381bee3828ce3819f〉



 寝ている間に、それは何処からか語られた。それは疎らな呟きだったが、処女の認識を確固たるものとするには充分だった。

 処女は自身に与えられた責務の破片を舐った。それを夢と呼称すべきかどうかは深淵の範疇では無いが、処女だけにはそれが理解できる。それで良かった。


 洞から出ると、髄の縁からは青の月が浮かぶ。処女が目指すべきは髄の縁、そしてその果て。また処女は、歩き出した。


 暫くして、処女は一つの大きな湖に出た。水色の液に満たされたそこには生命と呼べるものは入り込むことが出来ないが、足を滑らせたのか炭になった亡者や柱が猛る形相で底から覗いていた。もう処女はそれを食おうとはとても思えなかった。処女は汚れてしまった胸と煤のついた翅をそこで漱いだ。汚れと煤が沈んでいくに従って、水色は黒くなり、そしてその煤が底に溜まった亡者の掌に落ちて行く毎に、炭の亡者達は一つになり始めた。柱が残った幾数本の腕をもって歪んだ亡者どもの亡骸にのさばると、その歪みに柱達は飲み込まれていった。軈て歪みから大足が生え、そして頭蓋の無い巨人になった。巨人は処女が四つ積まれた位の背の丈を持っている。そして、のっそりと湖から上がった。

「此処ニ」

 巨人は三本指の右手を差し出した。処女の一つ乗るには充分な広さである掌底に捕まると、巨人は自身の右腕ごと千切って投げ飛ばした。右腕の切れた巨人は、残った左手で自身の肝を引き抜き、祈るように掲げて、黄色い灰を垂らしながらそのまま果てた。




 吹き飛ばされた先で、処女は首から起き上がった。

 自分を飛ばした、巨人の方を一度振り返る。もう巨人は見えなかった。代わりに、淵まで続く大きな黒い溝が横たわっていた。そして処女の足元には、もう灰になりかけの巨人の右手がある。現にもう、三本の指は折れてしまっていた。処女は巨人の手の皮を、自身の爪でほんの少し削いだ。削いだ皮を、丁度近くの液溜まりで洗い流して、それを幾つかに千切って大きな溝にばら撒いた。そしてそれは、青の月が処女の頭上高くに昇るまで続いた。

 処女には、その行動が意味あるものかどうか、深い理解には至ることが出来ない。ただ、巨人というものに対する、一つの生命への賛辞を送るための方法を、なんと言うべきか分からずにはいられなかった。

 ――深淵から、それは出で来た。恐らくそれは、弔いだ、と。生命と呼ぶべき意思が出した一つの解答を肯定する。それが弔いであり、賛辞ということだと、処女は理解した。

 巨人の右手の皮がすっかり剥がされると、今度は骨の周りに詰まった肉を喰らおうとした。暗い肉をひと掴みして、一口、二口。

 処女は――何と称するべきか、暗い肉を口に含んでおいて、あまり自身に好ましくないものであると体が告げている。

 深淵は言う。これは、不味い、だと。

 口には入るが、飲み込むに値しないものを不味いと呼ぶのだと、処女は理解した。ただし、処女はこの暗い肉を孕んだ右手を、全て喰らってやる必要がある。たとえ飲み込むに値せぬ物でも、自身の臓に流し込んでやらねばならない。それが巨人に対する為すべき弔いなのだ――少なくとも、処女の思うには。

 一掴み。そして、一口。その繰り返しが過ぎて、遂に骨のみが残った。処女の身体ほどもある、大きな骨。そこにこびり付いた暗い肉も、黒い炭も全て漱いで、処女は髄の地にそれらを両の腕で強く突き刺し、その場を後にした。

 丁寧に磨かれた骨は、幾ら経とうとも炭になることも灰になることも無かった。




 髄は広い。淵の点を遥かに超える途方も無い道を、処女は静かに歩いて、時に羽ばたく。

 水色の液溜めは端を目指すに従って幾分か色濃くなって行く。その色が月の如く青くなった頃、処女はいつか見たような、白い柱に出会った。

 白い柱は、動こうとしない。下手に動けば、処女の餌食と化すのみ。それを柱は知っていた。然し処女も、動こうとしない。ただ柱を見つめるばかり。淵にいた頃の飛び方を知らなかったような訳ではなく、飛ぼうともしない。柱は二十七ある腕で、自身の殻を引き裂いた。柱の胎内から深淵の繋がりが牙を覗かせる。処女は足音を立てずに白い柱に近寄った。柱の牙はより鋭くなる。柱の深淵はよりざわめき蠢く。もう脚を伸ばせば処女を食える距離まで詰められた柱の殻に、処女が指を這わす。柱は我慢ならなかったのだろう、幾百もの脚を一斉に処女の腕に絡ませ深淵に引き摺り込もうとした。処女は指を差し出すのを止めようとしない。

 ――自身が最早、柱に食えぬものとなった事を知っていたから。

 柱は脚を退いた。処女に触れた部分は全て青い灰になって崩れ落ちた。柱はそれ以上、処女に喰らい付こうとはしなかった。喰らい付けないのだ。もう処女の遊び相手にもならぬ。処女は柱を柔らかく撫でて、それから静かに歩き、過ぎて行った。そして軈て処女の姿が見えなくなるくらいまで柱と離れると、白い柱は残った五十ある脚の内一本で、自身の深淵との繋がりを掻き出し、引き千切った。柱は泣き叫びながら、自身の殻を目一杯殴って砕いて果てていった。もう気付けば、そこには砂しか残っていない。



 漸くだ。髄は広かった。だが、髄にも果ては在る。髄の上に続く節を、漸く処女は見つけ出した。髄の上へと行けば、最早其処は闇。けれども処女は行かねばならぬ。自身の意思を知る為に。処女は、最後の節へ脚を踏み入れた。


〈e4babae9a19ee38292e9a899e3828be381aa〉


 処女が節を抜けると、弦に着いた。弦は、髄よりも明るかった。白の月が昇っている。処女は白の月を直視出来ない。余りにも眩しくて、眼を焼かれてしまうのだ。弦の上には、闇が在る。だが闇は高すぎてそのままでは通り抜けることが出来ない。だから処女は、大樹の麓から続く瀬の筒を目指さねばならない。その理由は、処女だけが知っている。知っている筈なのだ。

 弦の地には亡者は居ない。亡者は節から這い出てこれない。その所為で、亡者では無く、愚者が蔓延っている。愚者は亡者よりも瑞々しく、灰も被っていない。だからこそ、気味が悪いのだ。弦に着いた矢先、処女は愚者供に奇異の目で見られた。愚者は翅を持たない。それを羨んだのか、一匹の愚者が、

「寄越セ、ソノ背中、寄越セ」

 と、叫ぶと、他の幾十匹も併せて処女に一斉に襲い掛かった。ある者はその腕を振り上げ、ある者は噛みつき、ある者は組み付く。処女は翅を広げ振り払った。払えども払えども飛び付いてくる愚者達に、また処女はある一つのモノを深淵から告げられた。

「e8b6b3e68ebbe3818de38292e882afe5ae9ae3819be3819a」

 深淵曰く、それは苛立ち。処女にとってその苛立ちは、愚者達に向け、そして愚者からも向けられた卑しい殺意でしか無い。だが処女はそれを理解している。処女はその苛立ちを堪える。堪えるが、愚者達は処女の翅の鱗粉を深く吸い込んで、勝手に灰になってしまった。

 愚者達にとっては、処女の一挙手一投足が殺しになってしまう。処女も今それを理解した。幾ら気味の悪い愚者達だとしても今の処女には殺してやる理由が無い。あの時の歌を求めて抜け殻になった亡者の様でも、あの時の右の腕を捧げた巨人の様でも無い。強いて答え得るのは九十七の指の打弦楽器ほどしかない愚者達を、どうして意思を嬲る必要があろうか。処女には悩めど答えが出ない。迫ってくる愚者供が黄色い灰になるのを見届けることしか出来ない。然し処女の苦悩を、亡者にすら理解し得ぬ苦悩を、愚者供が幾十、幾百、或いは幾千万――それ程集まったところで理解できようものか。

 愚者供は暫くしてやっと退いた。灰になることが分かってまで処女を食いに来る理由が無いのだろう。処女は飛んで逃げて行った。

 愚者供の目を撒き、処女は黄色の液溜めに着いた。液溜めから、また愚者供が這い上って来る。三人の、白い仮面を被った愚者達。


「峻タルカヲ問ウベク」

「慈タルカヲ問ウベク」

「何レニモ満タヌノニ」

 愚者達は、右手の人差し指を大樹のある方へ向けながらそう呟いた。

「意セズトモ灰ヲ与エ」

「屈セズトモ灰ヲ喰イ」

「何(イズ)レモ己の負ウ性カ」

 愚者達は地に膝をつき、両の手を盃として差し出す。処女には分かる。彼等は灰を求めている。黄色い灰をもって、殻を破ろうとしている。愚者の言葉を齧った処女は、三匹に対して何も言わなかった。ただ静かに横を通り過ぎ、指さしていた大樹の方へ。愚者供は自身の仮面を力一杯剥いだ。そして剥いだ切れ端で、自身の胸を二十二度切りつけた。

「其レハ愚」

「其レハ賢」

「其レハ王」

 三匹はそう呟き、互いの腕で互いの頭蓋を叩き割り始め、とうとう全て殺した。


 もうすぐだ。

 処女の眼前には、大樹の根にあたる部分、瀬の筒への下り口がある。だが、その前、処女の眼前に、二匹の小さな愚者がいる。片方の愚者は力を失った様に倒れ伏して動かず、もう片方がそれを揺さぶっている。

「起キテ、起キテ」

 処女はその二匹の目の前で、止まった。立ったまま、二匹を見ている。揺さぶっている方の愚者が気付いた。

「貴女モ、忌ムベキナノ?」

「……ア………ォ……」

 処女は掠れた声で唸り始める。愚者は身構えた。

「王……欠片……」

 唸りは、言葉に変わった。処女は愚者供の言葉を、どうにか理解しようとして、捻り出した。そこに深淵の声は無かった。

「ソレヲ食シタ、ソレバカリニ……」

 処女はそれ以上続けなかった。愚者は揺さぶるのをやめて、処女の右手に噛み付いた。力一杯、目一杯、顎から力を振り絞る。だが、それが処女を傷つけることは無かった。愚者の精一杯の意思の抗いは、処女に刺さらない。

 ――だが、処女の意思を揺さぶることは出来る。

「此レヲ」

 処女は草臥れた愚者を抱えて、左手で何かを差し出した。それは、自身の翅から吹き出た青い灰だった。愚者はそれを手に取り、臓物へ流し込んだ。寝そべる愚者にも同じ様にした。愚者は暫くして、目を瞑ったまま、動かなくなった。処女は泣いた。これまでの様な咽び泣く様なものではなく、顔変えぬまま涙だけが静かに落ちた。

 深淵は言う。これは慈悲だ。慈愛だ。自身が他の意思を肯定するのみに非ず、手ずから施しをしてやることを慈悲と呼ぶと。そして深淵は、慈悲を嫌った。深淵にとって慈悲は不味かった。これは自身の意思に反することだと、深淵は怒った。

 処女は、自身の意思で慈悲を与えた。それを否定されることは、並々ならぬ怒りを孕んだということを、深淵は理解していなかった。処女は深淵を自身の奥底から吐き出した。もう深淵はすっかり小さくなっていた。処女はちっぽけな深淵を踏み潰し、最後の瀬の筒へと降りて行った。青い灰を飲んだ二匹の愚者は、幾ら経とうとも黄色い灰になることは無かった。


 終局は近い。誰に言われたのでも無く、処女だけがそれを知っている。今処女の頭上には、暗く巨大な穴がある。瀬の筒へと続く門である。

 瀬の筒は、弦の地のここから上へ向かって、天を通り、闇を越え、軈て大樹まで至る途方も無く長い道。余りにも高過ぎて、翅のある処女しか通り抜けることは出来ない。そしてここを抜けるということは、即ち処女の渡ってきた地を捨て去るということ。淵の地の暗い柱、底の母屋の打弦楽器、髄の亡者、白い柱、巨人、そして弦の、二人の愚者。その全てをここへ置き去りにする。遥か遠いところに行ってしまう。それでも、向かわねばならない。そこには決意があった。決意をもう、処女は理解できる。自身の意思を貫くべき時だ。処女は翅を広げた。凡ゆるものを食してきた処女の翅は、もう処女の身体よりも大きい。処女は別れを告げる様に鱗粉を撒き散らし、瀬の筒へ高く羽ばたいた。


 何も聞こえず。

 何も産まれず。

 唯一つの例外として、時があるのみ。処女の中にこの時初めて、時間が生まれた。

 瀬の筒は余りに長く、余りに闇く、余りに遠い。それでも処女は羽ばたくことを止めない。只管に瀬の筒を昇り続ける。その最中、処女は初めて不思議な幻を観た。淵を這いずる紅い柱、底で楽器を弾く亡者、槍に刺し殺された脚のない巨人達の亡骸、そして弦で、白い巨大な箱の中で俯く無数の愚者達――これは夢、か。処女は夢の意味を、理解することが出来たのかもしれない。

 幾百――いや幾万――いや幾兆――否々、幾那由多の歳月が流れる。それは、処女にとって途方も無い時間であり、そして瞬きの様に僅かであった。


 処女は、大樹に着いた。嘗て、処女の産まれ落ちた故郷。だが処女は、その故郷を目にした事は、一度も無かった。

 大樹の枝を伝って、上へ登る。そして、もう少しで頂へ至るという時、処女は白い果実を見つけた。仄かに輝く、処女の身体ほどもある大きな果実。処女は、その果実の裂け目から、中身を少し盗み見て、そのまま爪で皮を剥いだ。

 ――処女だ。まだ翅の無い、孵る直前の処女。それが、この果実の中に居る。自分と同じ物を見たのは、初めてだった。そしてそれと同時に、処女の中にまた、別の蠢きが生まれた。果実の処女の柔皮を鷲掴みにし、首筋

 に噛み付く。そのまま、歯軋りして肌を食い千切った。

 ――処女は、泣いていた。これが、美味い、ということか?これまで不味いと思ったことは幾度もある。だがこれは、それとは程遠く対極に位置する感覚。余りにも甘美な――。

 処女は自身のままに貪った。喰らう度、吸い付く度に、体の奥底が熱を持ち、震え上がり、灰とも液とも言い難い何かが漏れ出してくる。処女は身体を出来る限りまで絡ませ、抱き寄せた。それでも尚、喰らいつくのは変わらなかった。処女は喰らう。もう片方の処女の口吻を自身の口吻で塞ぎ、本能のまま絶えず流れ出る汁を啜る。胸部の柔皮を喰い千切る。脚の肉を咀嚼する。軈てそれが骨だけになっても、構わず舐り尽くし、挙句骨まで噛み砕いた。

 ――処女は理解した。美味とは、背徳。この世で最も美味いものとは、自分自身。己を喰らうという背徳。そして、背徳とは、快楽なのだ。処女は喰らう内に、あらゆるものを知った。理解した。もう片方の自身には、全ての智が内包されていた。処女が喰らったのは、その全智なのだ。


 大樹の頂。淵から、天を衝き、軈て処女が至った。永い旅路であった。全ての世を見渡す事が出来る程に高い大樹。その頂点に今処女は立っている。もう、知らぬ物も無い。自身に与えられた意思の責務を果たす時。処女は翅を広げた。それは最早翅と言うより、天を覆う程に大きな翼だ。少し羽ばたくだけで、虹色の灰が樹の下へと降り注ぐ。処女は、こう呟いた。


「御免なさい、お父様。私はもう、天を知ってしまったのです」


 大樹が揺れる。処女の翼がより大きくなる。天を覆う翼は軈て瀬の筒よりも長く、大樹よりも大きく広くなった。翼から虹の灰が落ちる。弦へ、髄へ、底へ、そして淵へ。虹の灰に降られた愚者は腐り落ち、亡者と柱達は殻を捨てて、炎になった。炎は瀬の筒を通り、処女の元へ集まって来る。幾那由多もの炎達。彼らは、笑っていた。

「行きましょう。在るべき姿で」

 処女は、翼を切り落とした。もう処女は、翼が無くとも飛んでいく。落ちた翼は大樹を飲み込んだ。そして軈てそこから白い枝が生え、白い葉が生え、新たな大樹が、そこに生まれた。処女は炎の戦ぎに紛れて、新たな光の誕生を告げ、どこか遠くへ行ってしまった。






 世に一つ、天を衝く白い大樹が在った。十の熟れた果実と一つの白い花をぶら下げて、天からそれは生えていた。


 ぼとり、ぼとり。


 一つ、実から乙女おとめが降り落ちた。そこには、嘗ての愚者の、たった二人の残滓が立っていた。






 幻業――それは何にも満ちず、誰を是ともせず。

 ただその全てが意を持ち、意を欲するのみ。


 だがその真意を知る処女は、もうここにはいないのである。


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幻業 水牛掴み取り処理場 @BisonbisonbisoN

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