第19話 ただいま

 彼の歩みが止まった。

 いったいなにを言ってるんだろうと訝しんでる。

「めぐみが生きてる頃、何度もあたしに向かってあなたのことを取らないでほしいと言ってました。あの子は私があなたのことを好きだということをわかっていたんだと思います。それでも、あなたが以前言ってたように信じようとしてくれていたんだと思います。ただそれとは別に怖かったんだとも思う。自分が死んだ時、私があなたと夫婦の関係になることを想像することが……」

 あたしは声を詰まらせる。少し息を整えて続ける。

「私はめぐみの『まさくんを取らないでね』という言葉が大嫌いだった。その時はそんな気持ちもないのにどうして信じてくれないのかと思っていた。だけど、そうじゃなかった。それが私が本当にしたかったことだから、それを止められることに腹を立てていたの。だから、あの子を怒鳴りつけて……仲直りもしないまま……逝かせてしまった」

 お墓に目をやる。

「私はめぐみに大きな負い目がある。あの子の気持ちを無視してあなたと結ばれることができない。だから……」

 彼の方に向き直り、人指し指を一本立てて言った。

「あなたと家族になっても私には死ぬまで『指一本ふれない』でいてほしいんです」


「無茶なことを言ってるのはわかってる。他の人にだったらこんなことをお願いなんてしない。無理だから。でも、めぐみと五年間それをやってのけたあなたならできるかもしれない。あなたなら“あなたの家族になりたい”と“めぐみのことを裏切りたくない”という私のわがままを叶えられると思う。そう信じてる」

 彼は複雑な表情をしてる。

「もし、『そんなこと無理だ。やりたくない』って言うなら」

 あたしは大きく深呼吸をした。

「その時は、この場で私を押し倒しても、どこかに連れ込んでくれても構いません。そうなったら……精一杯お相手します」

 目を瞑って続けた。

「そして、あなたたち家族の前から姿を消します。めぐみのことを裏切った私にはあなたたちの家族になるという望みを叶える資格はないから」

 目を開けて彼を見た。その表情からはなにも読み取れない。

「どんな選択をしてくれても、あなたのことを恨みません。迷惑もかけません。決定に従います」

 ……もう全部言ったよね。言い残したことはないよね。頭の中で決めたことをもう一度さらってみる。

「……ひとつ聞いていいかな?」

 考え込んでいた、あたしに向かって彼が尋ねてきた。

「拓を……養子にすることは考えなかったのか?」

 もちろん、考えてたわよ。まっ先に。

「そうなったら、あなたの家族になることは無理じゃない。あたしは雅也のことが好きなの。それが大前提だから」

 ふと思いついたのでついでに言ってみた。

「なんだったら、あんたを養子にしてもいいのよ」

「それって可能なの?」

「いや、わかんないけど」

 彼は憑きものが落ちたような顔を見せて右手を差し出してきた。

「……?」

「忘れたか?めぐみが告ってくれた時、こうやって握手を交わしたんだよ。それから五年間『指一本ふれない』がはじまったんだ」

「そうだったっけ?」

 彼はうなずいて手を差しだしたまま

「宮中恵子さん。どうか俺の……俺たちの家族になってください。お願いします」

そう言って頭を下げた。

 あたしは迷わずその手を取った。十一年前には取れなかったその手を。この手はこんなに暖かかったんだ。

 彼はあたしの手を握りながら

「五年間できたことだからな。楽勝だよ」

と朗らかな口調でそう言った。

「めぐみが『まさくんは負けず嫌いで見栄っ張り』って言ってたけど本当にそうだ」

 あたしが笑いながら言うと

「負けず嫌いはともかく見栄っ張りってのはなんだ」

と反論してきた。知らんがな。めぐみに聞いてくれ。

「あ、そうそう。あたしともダメだけどもちろん他の女と浮気するのもダメだよ。わかってると思うけど。あんたはめぐみ以外の女を知らないままでいてほしいんだから」

 思い出したのでついでに追加すると

「え?……ああ、もちろんわかってるさ」

と、しどろもどろで返してきた。

「ちょっと待って。本当にめぐみ以外の女性を知らないの?」

「あ、当たり前だろ。……いやモテなかったわけじゃないからな。これでも愛しあって結婚したんだから……そんな死んだからってすぐにどうこうなんてできないだろう」

「……見栄っ張り」

「待て、これは『見栄』じゃなくて本当にモテないわけじゃないんだからな。……そうだ!結婚してくれるのはいいけどお前、部屋の中を裸でうろつくなよ」

「なによ!そんなことしたことないわよ!」

「この間、俺んちで風呂に入った時、裸だったから俺を外にいさせたんだろう」

「裸じゃありません。ちゃんとバスタオルを巻いてました」

「そんな格好の女を部屋に住まわせて手を出すななんて生殺しを要求するなよ」

「わかってるわよ!ちゃんと服も着るし、メイクだってしません」

とあたしが断言すると雅也は

「いや、せめてメイクぐらいして綺麗になってくれないと告った俺の立場がないだろう」と言ってきた。

「あんたの立場なんかそれこそどうでもいいわ!」

 あたしの言葉に彼が黙る。その間、彼の右手をずっと握り続けていた。この手を離したら二度と触れることはできない。

 彼も同じ思いだったのだろう。見つめ合ってお互いにうなずいて、息を合わせて、手を離した。


「あんた本当に家を出るの?」

 荷物をバッグに詰めているあたしの横で母が心配そうに尋ねる。荷物と言っても当面の着替えとメイク道具くらいであとはおいおい運び出せばいい。

 いずれにしてもあのアパートでは家族三人は狭すぎる。いつかは少しは広いところに引っ越さなければならないなと彼と話している。それもあたしが働き口を見つけてからだ。そのためにも今は荷物は最小限に絞っておきたい。

「もう結婚してるんだからいつまでも別居してるわけにはいかないでしょう」

 母の顔を見ずに黙々と作業しながら答える。

「なんの相談もしないで勝手に入籍して」

「もう二十七なんだからいちいち親の許可をとらなくてもいいでしょう」

「あんた……本当に式あげないつもりなの?」

「めぐみだって入籍だけで済ませたじゃない。今は無駄なことにお金を使う余裕なんてないんだから」

「結婚式は無駄なことじゃないでしょう。うちだって少しは出せるわよ」

「そのお金は自分たちのために使ってよ。……まあ、うちが困ったときは助けてもらうかもしれないけど」

 バッグのファスナーを締めて立ち上がる。

「これが最後ってわけじゃないんだから、ちゃんと拓をつれて遊びに来るわよ」

 まだ床に座ったままの母に向かってそう告げる。

「……わがままばかり言って……ごめん」

 黙っている母に謝る。母はやおら立ち上がって

「……困ったらいつでも助けを求めなさい。必要だったらこの部屋と隣の部屋の壁を壊して一つの部屋にしたっていいんだから」

 怒ったような心配そうな顔で見上げて、そう言ってくれた。そして左手を伸ばしてあたしの右頬にそっと触れる。

「いつからあんたの頭をなでることができなくなったのかしらね」


 ボストンバッグ片手に家を出てふと立ち止まる。今の時間なら拓の幼稚園がそろそろ終わる頃だ。いっそ迎えに行って一緒に帰ろうか。その時、

「ママ」

 背後から声が聞こえた。

 振り返ると拓がこちらに向かって走ってくるのが見えた。その後ろに幼稚園バッグを手にした雅也の姿も。

「おお、おかえり」

 あたしは拓に向かっていつものように声をかける。拓はあたしの脚にむしゃぶりつくように飛び込んでくる。あたしは空いている手で帽子を被っている息子の頭をなでる。

 そしてやってきた雅也に向かって

「ちょっと、なんでこんな時間にここにいるのよ」

と小声で問いかける。普段なら拓の幼稚園が終わる時間に彼の仕事が終わっていることはない。

「同僚に無理言って代わってもらったんだ。今日はお前が引っ越してくる大事な日だからな」

「引っ越しったって……すぐそこじゃない。荷物だってこれ一個だし。……まさか、クビになったりしないでしょうね」

 それが一番心配なのだ。結婚してすぐに家族三人路頭に迷うのは勘弁してほしい。

「大丈夫だよ。おい、拓。自分の荷物くらい自分で持ちな」

 雅也は拓の幼稚園バッグを彼の肩にたすきがけでかけさせる。そして、その手であたしのボストンバッグを奪い取る。

「自分の荷物くらい自分で持てるわよ」

 奪い返そうと腕を伸ばす。けれど彼は高々と腕を上げてバッグをあたしの手の届かないところまで上げる。もちろん、これでも高校時代はバスケットボール部のレギュラーにまでなった身だ。今だって彼の持っているバッグを奪い返すくらいまでジャンプすることはできる……はず。

 だけど、それをやってもし彼に触れてしまったらと思うとおいそれとできない。それを見越しての行動だろう。おのれこしゃくな。

 バッグを取り返すことを諦めると視界の下に小さな手が伸びているのが見えた。見ると、息子があたしに向かって右手を差し出していた。彼の左手は父親の手を握りしめていた。

 あたしは迷わず息子の手を取る。拓は何かを言いたそうにしている。それに気がついた雅也が

「早く言えよ」

と彼を促す。あたしは立ち止まってしゃがみこむ。

「なあに?」

 あたしの問いかけに「あたしの息子」ははにかみながら

「おかえり」

と言ってくれた。


「ただいま」


 自然にそう応えられた。

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ふれない 塚内 想 @kurokimasahito

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