第18話 結婚してください。でも……
シャワーを浴びてバスタオル一枚で部屋まで戻る。普段父がいる時間にこんな格好はできないが、仕事を辞めてると昼間からこういうことができてありがたい。
暖房のついた部屋で肌に化粧水をつける。髪をタオルドライしてから、覚悟を決めて着替える。
下着は上下とも揃える。普段だったらバラバラでも問題ないけど今日はそういうわけにはいかない。勝負下着なんて持ってないからせめてそれくらいは気をつかわないと。
ボトムはベージュのフレアスカートにする。トップスはオフホワイトのタートルネックのセーター。この上にジージャンを羽織ろうと思う。色気はないかもしれないが、これだったら万が一、汚れてもあきらめが付く。
机に座り、雅也から譲り受けためぐみの形見の化粧ポーチとスタンドミラーを取り出す。そして日焼け止めと化粧下地を丁寧に塗る。パウダーファンデーションを鏡を見ながら、顔の中心から外側に向けて塗る。この段階で毎回面倒くさいと思ってしまうが今回は手を抜かない。
以前に顔が薄いから眉毛はしっかり書けとめぐみに言われた。だから、あたしはアイブロウはペンシルしか使ったことがない。最初のころは何度書いてもきれいにしあげられなくて怒られたなと思いながら、眉毛の薄い部分を丁寧に書いていく。
アイシャドウは今でも嫌いだ。あたしが、これをつけると厚化粧したって感じになる。めぐみからはブラウンやベージュを選べばそんなにキツくは感じないと言われたが信じられなくてつけない時もあった。でも今回はキッチリやる。
パレットの一番上に入っているベージュをブラシを使ってアイホールに塗る。それが終わったらブラウンをまぶたの際に乗せるようにつける。
さらにペンシルで眼の際にブラウンでアイラインを入れる。一気にいくよりも少しずつ目尻から中央に、目頭から中央にという風に書き足す。
マスカラも苦手。そもそも目の近くにビューラーやペンシル、ブラシを近づけるのは今でも怖い。また余計にマスカラをつけすぎてダマになった。やり直し。
やっとアイメイクが終わってチークを頬につける。パウダーチークをつけたブラシを頬骨からこめかみに向けて滑らせる。
口紅ははじめてめぐみからつけてもらったコーラルピンクしか使ったことがない。他の色を試す勇気がないからだけど。まあ、これで唇を奪われた経験があるんだから悪いわけじゃないと思う。
リップブラシにつけて上唇の外側から中央にむけて少しずつ塗っていく。それが終わったら下唇も同じように塗る。唇にティッシュを押しつけてから、改めて口紅を塗る。
口紅なんてリップから直接横一直線に塗るもんだと思っていた。まさかこんなちまちまと塗るなんて想像もしてなかった。いつもより丁寧に塗る……。
階下に降りると母が「どこか出かけるの?」と聞いてきた。
「めぐみの墓参りに行ってくる」と言うと
「あたしも行きたいわ」と言ってきた。
「ごめん、今日は一人で行きたいの」
あたしがそう言うとかえって心配顔になった。心配しなくていいよ、たぶん……。
電車とバスで一時間ぐらいの郊外のメモリアルパークに西嶋家のお墓はある。
めぐみは結婚して西嶋姓を名乗っているから、このお墓に入るのは当然なのだろうけどまったく誰も知らないお骨と一緒に葬られていると思うといたたまれない。五年前こんなところから取り出してうちに連れて帰りたいと思ったことを思い出した。
手を合わせて、これからやることを許してほしいと心の中で懇願した。たぶん自己満足なんだろうと自覚はしてる。でも、今のあたしにはこれしか自分とめぐみの望みを叶える方法を思いつけなかった。
静かな共同墓地にカサカサッという足音が聞こえた。
……来た!
ゆっくり足音の方を向くと、紺の背広を着た雅也が歩いてくるのが見えた。ああ、お墓に呼び出したからそんな格好をしてきたんだ。どうしてそれを想像できなかったのだろう。自分の想像力のなさに呆れる。
「……よお」
ややぎこちなく右手を上げて挨拶をしてきた。あたしも笑顔で返事をする。こっちもぎこちなくなってるんだろうな。
「ごめんね。急に呼び出して」
「いや、もう声をかけてくれると思ってなかったからビックリしたけど」
あたしは一歩引いてお墓の前を指す。
「お参り、先に済ませたら」
彼は「ああ」と言って持ってきたお線香に火をつけて、手を合わせた。
その後姿を見ながら、このままただ黙ってお墓参りだけで帰ろうかと思う。あたしがただ許しさえすれば面倒なことはなにもないはず。ただ「結婚してください」と言えば結果はともかく事態は丸く収まるはず……。
「宮中、話しってなんだ。あのことだったら許してくれるなら、土下座でもなんでもするよ」
手を合わせながら彼がポツリと言った。
あたしはこくんとうなずいて
「それは……いい。そんなことしてくれなくても」
それだけ言えた。彼は、今も逡巡しているあたしを見てやきもきしているだろうに、黙って何分も待ってくれた。
一つ息を吸ってから彼の目を見た。
「西嶋雅也さん!」
彼がビクンと身体を硬直させたような気がした。いけない、声が大きすぎたかしら。
「……どうか、私と結婚してください」
少し声を落として言った。彼は驚いたようにこちらを見ていた。それはそうだろう。さっきまで想像もしていなかっただろうから。
「たぶん、あなたが私とつきあいたいと言ってくれた時にはもうあなたのことが好きだったんだと思う。それに気がついたのが遅すぎました」
「……ちょ、ちょっと、お前、彼氏は?」
「……別れた」
「……」
絶句してる彼をよそに話を続ける。
「気がついた時には、あなたは結婚して子どもを育てて、新しい彼女ができそうになってた。もう私が入る隙はないと諦めてました。だから、この間は……ビックリはしたけど嬉しいという気持ちもありました」
彼も黙って聞くことに決めてくれたようだ。
「私はあなたと家族になりたい。拓の母親になりたい。こんな私でも『ママ』と言ってくれる想いに応えたい。あなたたちの家族に私を加えてください」
あたしは背筋を伸ばして腰を曲げてお辞儀をした。視界の端から彼がこちらに近づこうとしてくれているのがわかる。
おもむろに顔を上げてから言った
「でも……あなたの『妻』にはなれません」
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