第17話 お姉ちゃん。……まさくんを取らないでね

「遅くなってごめん」

 ドアを開けて彼を招き入れる。もう五分以上は経ってたと思うが寒空の下で待っていてくれた。

 玄関に入った彼からは嗅ぎなれない匂いが漂ってきた。

「……飲んできたの?」

 彼はコクリとうなずいた。

「珍しいね。下戸だって言ってたのに」

 ニッコリ笑ってふらついている彼の手を取る。

「ごめん。……別れた」

 ボソリと彼がつぶやいた。身体が硬直する。

「……そうなんだ」

 ちゃぶ台の前に座らせて黒のダウンジャケットを受け取る。電気ポットから白湯を注いで彼の前に置く。

「どうしてか……聞いていいかな?」

 彼の右斜め前に座る。

「……いきなり母親になる自信がないって言われた」

「そっか……」

 いちばん無難な断りかただよね。でも案外、本音かもしれないとも思う。ついさっきまで、あたしもそう思っていたんだから。

 ましてや男の子の母親になるのは、かなり覚悟がいる。女からみたらなにを考えているかわからないし、気がつくと危険なことを平気でやっているから息つく暇がない。

 それでも今までやってこれたのは伯母という責任が薄い立場だったからでしかない。母親になればこの子の安全と将来に責任が生じる。

 あの人もそういう風に考えたとしても不思議じゃない。もちろん、俊一さんの言ったようなことを考えたかもしれないけど。

「こういうことって言っていいのかわからないけど、よかったんじゃないかな。やっぱり覚悟がないと他人の子の母親になるなんて難しいしね。それでも拓に会ってくれるだけでも十分いい人だと思うよ。あんたやっぱり女を見る目があるよ」

 一気呵成に喋る。

 めぐみ、あんた偉いよ。雅也があたしにふられた時に間髪入れずに自分を売り込むことができたんだから。あたしは無理だわ。

「そうだ!あんたがいつ帰ってくるかわからなかったからビールを買っといたんだ。飲めるんだったら一緒に飲もうよ。飲めないんだとしてもせめてお好み焼きくらいは食べてよね。頑張って作ったんだから」

「……お前が作ったのか?」

 やっとこちらを向いて話しかけてきた。

「そうだよ、作り方わかんなくて苦労したんだから。あんたの得意料理なんだってね。リクエストされてビックリしたよ」

 振り返って冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出してちゃぶ台の上に置いてから、冷凍室からお好み焼きを一枚取り出すために立ち上がる。その時、「恵子」と声をかけられ左の手首をグッとつかまれた。

「えっ?」

 振り返ると同時に腕を引き寄せられ、唇を塞がれた。


 最初に思ったのは「やっぱり下手くそだな」だった。めぐみが言ってた通りだったなと。力任せに過ぎるんだよ。

 あの時、病院でみせてくれたキスはとても上手に見えたんだけど。それはやっぱり対象への愛情の差かしら。

「……ねえ、彼女とは?」

 唇を外されて真っ先に聞いた。

「なにも……」

 雅也はそれだけ答えた。

 本当かな。本当だとしたら、あたしで二人目か。めぐみ相手だってそんなに回数を重ねてなかったと思うし。ずっとやってなかったとしたらそりゃ下手なままだよね。もう一度キスされる。今度はちょっと上手くいったかな。

 ……そうだな。このまま既成事実でいっちゃう方が楽かもしれない。

 強引にあたしを横に寝かせて首筋に唇を這わせる。そんなに力任せにならなくても、こっちは力を抜いてるのに。テンパっててそんなことも気がつかないのか。

 右手はあたしの左手を抑えたまま、トレーナーの裾から左手を入れて胸をまさぐる。今日、二人の男から揉まれたけど、まさかそれが親子とはね。そういえばこいつが知ってる女はあたしたち姉妹だけか。えらく狭い人間関係だ。そう考えると笑いが込み上げてくる。

 彼に笑い声を聞かれないように顔を左に向ける。目の前にテレビが見える。

 その横に写真立てが見えた。



「お姉ちゃん。……まさくんを取らないでね」


 ……ダメだ。やっちゃダメだ! 写真立てのめぐみがそう言ってるような気がした。そうだ、あたしは雅也をめぐみから奪っちゃいけない。

 あたしは空いてる右手で彼の後ろ髪を鷲掴みにした。強引に彼の頭を引き離して頭突きをくらわせる。体勢からしてそんなに痛くなかったはず。だからさらに襲いかかってくるかもしれない。

 上になっていた雅也を突き飛ばす。伸ばした手の先にハンドバッグが当たった。

 あたしはそれを振りかざし、彼の頭に叩きつける。何度も、何度も。

 彼は腕で頭を庇いながらうずくまる。戦意は喪失しているようだ。だけど、油断しない。その時、

「パパをいじめちゃダメー!」

と奥の部屋から拓が飛び出してあたしに向かって体当たりしてきた。

「やめて、やめて、やめてよ。嫌がることをしちゃダメだって言ってたじゃん」

 拓があたしにむしゃぶりついて離れようとしない。それを見たらあたしも戦意喪失した。

「……いじめてないよ。これは……そうプロレスごっこをやってただけだから」

 なによ、このベタな言い訳。

「プロレスごっこ?」

 あ、意外と効いてるかもこの言い訳。

「そう、パパと遊んでただけだから。お姉ちゃんの勝ち」ハンドバッグを持った手でガッツポーズをする。

「カバンで叩いたらプロレスじゃないんじゃないの?」拓が指摘する。

「あっ?そうか!じゃあ、反則負けだ」

 笑ってごまかす。乱れた着衣のまま、拓を抱き寄せる。

「ケンカじゃないから。安心した?」

 拓はうんとうなずいた。


「拓……寝たよ」

 あたしの膝を枕にして眠ってる甥の寝息を聞いてから、その父親に告げた。

「……ごめん」

 あたしに叩かれてからしばらくうずくまっていた彼が起き上がってやっとそれだけ言った。

「……同情はしてる。だから、謝罪は受け入れる。……でも、許すことはできない」

 右の首筋を手でぬぐいながら答える。もうすっかり乾いているけど、そうせずにはいられなかった。

 拓の頭をそっと膝から降ろして立ち上がる。

 トレーナーの裾から手を入れて下着の乱れを直した。慌てて彼が視線を外す。あたしはブルゾンとハンドバッグを手にした。

「帰る」

 彼はあたしに向かって「送るよ」と言ってきた。

「冗談でしょう……」

「送り狼になったらどうすんのさ」さすがにその言葉は飲み込んだ。


 ブルゾンは玄関を出てから羽織った。

 雅也たちの家のドアを見ながら、スマホに向かって「自宅に電話」と声をかける。

「……あ、お母さん?恵子。もう帰ったの?……うん。ねえ、お父さん帰ってる?……うん、代わってくれる?……あ、お父さん?うん今、ま……拓んち。申し訳ないけど迎えにきてほしいんだ。暗くなって怖いから。……そう、雅也はダメだよ。拓ひとりにさせとけないでしょう。……うん、ごめんね。帰ったら晩酌つきあうから。……うん、ありがとう。外で待ってるから」

 通話をオフにする。目の前に「にしじままさや たく」と書かれた紙で書いた表札が張り付いたドアが見えた。

 黙ったとたん、嗚咽が込み上げてくる。ダメだ。あたしに泣く資格なんてない。


 それから一週間。バイトを探すでもなく部屋でボーッとしていた。

 あたしはいったいどうしたいのか?そんなことばかり考えてた。

「なんかあったら絶対知らせなさいよ。……友だちなんだからね」

 多央の言葉に甘えて連絡しようかと思ったができなかった。

「ねえ、恵子」とドアの向こうから声が聞こえた。

 開けると不安げな顔で母が立っていた。

「なんか拓ちゃんが来て『お姉ちゃんいる?』って聞いてるのよ。あんたたちなんかあったの?」

 ……?

 玄関まで降りてみると神妙な顔をして拓が突っ立っていた。

「どうした?なんかあったの?」

 そう言ってもなにも言おうとしない。もしかしたら母がいるから話せないのか?

「お姉ちゃんの部屋においで」

 手を差しだすと握り返してきた。部屋に連れて行って床に座らせると

「……お、お姉ちゃん」

と言ってきた。だからなんで突然お姉ちゃん?

「この間はごめんなさい」

と父親譲りの天然パーマの頭を下げてきた。なんで謝るの?

「お風呂でおっぱい触ったから怒ってるんでしょう?」

 ……へっ?

「だからもう僕んちに遊びにきてくれないんでしょう」

 ああ、そういうことか。たしかに一週間、拓とも会ってなかった。でも原因は、あんたのパパがおっぱい揉んだからなんだけど。……ってそれはさすがに言えんわ。

「そっか謝りに来てくれたんだ。ありがとう」あたしはお礼を言った。

「でも、別に怒ってるわけじゃないよ。ちょっと調子が悪かっただけだから。気にしないで」

「本当?」

 うなずく。

「それで『お姉ちゃん』って言ってご機嫌とろうとしてたのか。考えたね」

 鼻を突っつく。顔を真っ赤にして照れてる。ああ、この子は母親似なんだとわかった。通りで可愛いはずだよ。

「ねえ拓。『けーこママ』って呼んでいいよ」

 目を見開いて驚いてる。てっきり「お姉ちゃん」と呼ばれたいのかと思っていたんだもんね。

「……『ママ』になってくれるの?」

 おそるおそる聞いてくる。あたしは答えずに拓の頭をくしゃくしゃっとした。

「けーこママ?どうしたの?」

 ……?

「泣いてるの?」

 目元に手を当てる。右手の人差し指が濡れた。

「……やだな。目にゴミが入ったかな」

 あたしがそう言うと拓は立ち上がり、あたしの頭をぎゅっと抱きしめた。

「なによ……『俺の胸で泣け』ってか?カッコいいじゃん」

 涙声で言う。カッコつけてるのはあたしの方じゃないか。

「……ねえ。“けーこママ”これから泣くけど笑ったりしたらだよ」

「うん」

 拓は力強く答えてくれた。

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