09. 巨石
落下の際に感じる腹のむず痒さが、何秒にも
視界が固定されていなければ、まだ車が転がっているかと錯覚したであろう。
白呆けた風景でも、天地が固定されたことくらいは判別でき、転移嵐が治まったと知る。
「つっ……」
「ミサキ、大丈夫か?」
呻く彼女は、目を閉じて痛みに耐えていた。
よく見ようとシートベルトを外し、上半身を乗り出したセイジは、彼も左手の甲が血だらけだったのに気付く。腕を何かにぶつけ、裂傷を負ったらしい。
怪我に構わず、ミサキの顎を持って、彼は軽く自分へ振り向かせた。
彼女は左側頭部を打っており、こめかみ辺りが真っ赤に染まっている。グローブボックスからタオルを出し傷に当て、彼女自身の手を取って押さえさせた。
「回復薬を使う。ちょっと待ってくれ」
「転移は……成功したの?」
「分からないけど……」
徐々に色を取り戻していくフロントグラスの外へ、彼は顔を向ける。
「……川底じゃない。一面の草っぱらだ」
「失敗、なのね」
後部席は惨憺たる有様で、固定ベルトの外れた電圧解析器が破片を撒き散らしていた。
後ろへ手を伸ばしたセイジは、へし曲がった機材の外枠を押し退けて、苦労しながらも薬剤ケースを掴む。こちらは損傷も無く、しっかりした緩衝材の力で中身も無事だった。
小瓶の蓋を開けると、自身の腕と彼女の頭、それに痛みを感じる打撲箇所へ垂らす。
ミサキの顔付きが平静を取り戻したのに安心し、彼は瓶を手渡した。
「他に痛い場所があれば、治療しとけ」
「ええ……」
体を起こした彼女は、服の上から脛の辺りに薬を振り掛け、もう大丈夫だと瓶をケースに戻す。
動けるようになると、ミサキはすぐに外へ出ようとしたが、その前にペンダントを確認するように告げられた。
「光り方が尋常じゃなかった。壊れてないか?」
「形代が?」
革紐を手繰り、シャツの下から出したペンダントのトップを、彼女が掌の上に乗せる。
月明かりに照らされたガラスの目玉を、二人はしげしげと見つめた。
「割れてるな。ヒビだらけだ」
「粉々にはなってないけど……寿命かしら」
「転移の力が強過ぎたんじゃないのか」
「セイジのは?」
俺のは金属製だから、そう言って同じようにペンダントを取り出した彼は、変わり果てた姿に目を剥く。
「曲がってやがる」
「ぐにゃぐにゃね。握り潰したみたい」
銀の十字形は、無惨にも紙屑のように丸まっていた。
形代が転移エネルギーに
「形代が、転移を防いだの?」
「……有り得るな。力を弾くのかもしれん」
「それじゃあ、いつまで経っても成功しないじゃない! 転移の瞬間に、形代を捨てれば――」
「鼻血を噴き出して、ぶっ倒れる。メガネの醜態を見ただろ」
「なら、どうしろって言うのよっ」
各種の兆候現象下において、通常は歩くのもままならず、転移嵐まで進行すると、生命の存続も危ぶまれる。
だからこそ形代は必須、力の流れに逆らわなければいけない。それが転移を阻害しているのなら、ジレンマもいいところだ。
声を荒げるミサキも理屈は分かっているため、遣り場の無い憤りに、歯噛みするしかなかった。
「取り敢えず、車を降りよう。偵察しながらでも話せる」
無言で頷いた彼女は、小さな携帯ライトを持って外に出る。
セイジは車の後ろに回り、クラネガワがくれた大型ライトを持ち出して、周囲をぐるりと照らしてみせた。
なだらかな丘陵地には、木が疎らに生えているだけで、風に揺れる草原がただただ広がる。黒熊も、草わらにポツンと停まっている状態だった。
車まで取り残されたのは、直前まで二人の
彼らの一部として認識した形代が、黒熊ごと転移を防いでくれた。望んでいないにも拘わらず、だが。
月の位置からして、車は大体北を向いており、その前方には草が生えていない一帯が在った。
歩み寄った二人は、それが舗装された道路だと理解する。
「元の地形は、全く見えないわ。相当巨大な転移陣だったのね」
「車で移動しよう。巨大でも、何にも無いゾーンだな」
「あれは?」
道の先に目を凝らしていた彼女は、地平線に角ばったシルエットがあるのを認めた。徒歩で向かうには遠く、セイジの提案に従って、車で近くまで行くことにする。
黒熊のエンジンは一発で始動し、走行にも問題は見当たらない。これがせめてもの幸運だった。
「平屋かな。監視所のような……」
ガーピーと、交信器が耳障りなノイズを放ち、彼の注意を削ぐ。こちらは無事では済まなかったようだ。
おそらくニキシマからの状況確認と思われたが、自動受信は機能しておらず、手動ボタンを押しても反応が無い。
「交信できないか、調整してみてくれ」
「ショックで設定がリセットされたのかしら」
シフトレバーの前辺り、二人の座席の間に設置された交信器へ、ミサキは体を屈めてツマミやボタンを弄り出した。
その間にも、車は目標に接近して、シルエットの正体が明らかになってくる。
道路は建造物から多少離れた位置を通っており、途中で未舗装の脇道が出ていた。
別れ道への入り口に車を停め、セイジたちは砂利道を歩いて行く。ニキシマには悪いが、報告は後回しだ。
「家屋じゃなかったな。何だこれは……遺跡か?」
「環状列石、ストーンヘンジそっくりね」
「ストーンなんだって?」
遠くからは見えなかった窪地へ道は続き、その後また平原の高さへと戻る。
列柱は簡易な防護チェーンで囲われていたものの、乗り越えるのは容易な高さで、二人は鉄鎖を跨いで巨石の元へ踏み入った。
立ち並ぶ石の柱は、セイジの背の数倍の高さがあり、いくつかのペアは上部に直方体の石が横に渡されている。
「曰くはありそうだけど――」
石柱の一つに触れた彼は、思わずその手を引っ込めた。
「なんっ! 遺物か、これ!」
「そりゃ遺跡なんだろうし、そうでしょ……きゃっ!」
セイジを真似たミサキも、普段のクールさを忘れて
巨石から感じる力は、そこらの遺物の比ではない。触れた途端、猛烈なエネルギーが、石の方から彼らの身体へ流れ込もうとした。
これ程の力は、一体どんな効果を発動させるのか。調べたくはあっても、高電圧を浴びたようなショックを味わったことから、流石のセイジも二度目の接触を躊躇する。
右手をふわふわと中空に
「……無理しない方がいいわよ」
「だけど、気になるじゃないか。こんだけデカいと、運べもしないな」
気合いを入れ、指先に集中した彼は、石に触る寸前で動きを止める。
「何か聞こえないか?」
「風の音……南東の方が騒がしいような」
「違う、上だ。空から聞こえる」
二人は夜空を仰ぎ、物音に耳を澄ませた。虫の羽ばたきに似た微かな震動音は、彼の勘違いではない。
「プロペラだ。軍の大型艇が来てる」
「早い! 第十一都市からでも、もっと掛かるはずなのに」
「群発性転移に気づいて、ヤツらも上空で待機してたんだ」
踵を返し、セイジが叫ぶ。
「交信器を直して、他のチームと連絡を取ろう!」
「こっちへ来ると思う?」
「分からん、軍のセンサーが優秀なら、ストーンなんちゃらに反応するかもな」
車へ駆け戻ったセイジは第二種暗号通信機を起動し、ミサキはニキシマチームとの交信を図った。
どちらも目当ての電波を捉らえるのに手間取り、そうこうしている内に、プロペラ音が明らかに大きくなってくる。
雑音ばかりの暗号通信機に愛想を尽かした彼は、じっとしているのを嫌って、エンジンキーを回した。
道を逆に戻り、東へ暫く進んだ時、ストーンヘンジの上空に巨大な影が差し掛かる。
「降下部隊だ」
大量の黒点が巨石群に降る様子が、バックミラーにも映る。
ゾーンを急襲して、重要拠点を押さえる降下ゾーン兵は、遺物も使用してくる対策部隊の精鋭だ。
地上部隊に任せず、降下兵を投入したということは、軍も巨石の特殊さを認識しているということだった。
右に折れる道を見つけたセイジは、ハンドルを切って南へ向かう。針路は南東、ミサキが聞こえたと言う
彼女もようやく交信器の調整を終え、ニキシマの使う803の周波数に合わせると、即座に野太い声が上がった。
『――応答しろ! 倒れてんのか?』
「こちらキササギ班、ゾーン南東へ移動中。手動切り替えなので、がなり立てないで」
受信と送信を同時には出来ないことを、ミサキが真っ先に伝える。
一拍置いて、ニキシマが針路を変更するように忠告した。
『南は地上部隊が進行して来てる。逃げるなら北に向かえ』
「みんなはどこ?」
『俺たちは真北、メガネは北東だ。タイザに戻ったシェールは、交信が途絶えた』
軍に拘束されたのだろうという予測に、セイジが思わず聞き返す。
「タイザに軍が来てるのか!?」
『サトウの報告じゃ、劇場が接収されたらしい。スカベンジャー連中も、半分は捕まった』
治外法権とまでは言わないものの、タイザに軍が近寄ることは、かつて無かった。
彼らの存在は暗黙の了解だったはずだが、今回は国防軍まで動員して、街ごと占領するつもりのようだ。
ニキシマの通信を聞いても、セイジは変わらず南東へ車を走らせる。
「北へ行かないの?」
「連中が何をやってるのか、覗いてからだ」
ゾーンは彼らが想像した以上に広く、南は劇場のすぐ近くにまで及んでいた。半径だけでも、踏破するのに車を飛ばして十分は掛かる。
草原を蛇行する道を行く黒熊は、南東の騒乱を目指してスピードを上げた。
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