青い鶴
宮守 遥綺
そして、彼女は消えた
それは、あまりにも突然だった。
朝、いつも通りの時間に出社した俺の机に乗っていたのは、一通の封筒。表面には俺の名前と会社名、住所が真っ直ぐに細い字で書かれていた。裏面に、差出人の名前はない。
しかし俺は、この手紙の差出人を知っていた。
この時点で嫌な予感はしていたのだ。
とりあえず、中身を出してみる。
出てきたのはきれいに畳まれた2枚の便箋だった。
1枚は白紙。もう1枚には、『ありがとうございました。ごめんなさい。』というたった2行だけが書かれ、右下に青色の千代紙で折られた鶴が、セロハンテープで貼り付けられていた。
「森内!」
それを読んだ瞬間、俺は同じフロアの後輩を大声で呼んでいた。今日のスケジュールを確認したり、メールを読んでいた連中が驚いたように俺を見る。バサバサ、と雑誌が何冊か落っこちる音が何処かから聞こえた。
「え?あ、はい!!」
パソコンでメールチェックをしていた森内は俺の声に慌てたように立ち上がり、小走りでこちらにやって来る。手には社用のスマートフォンを握りしめて。
「お前の所にもこれ、届いてるか」
机に便箋と封筒を並べる。白い蛍光灯に照らされた真っ白い紙。真っ白い封筒。それは容赦なく光を反射して、眩しい。踊っている細い文字が今にも消えてしまいそうだ。
「はい。机に置いてありました。全く同じものが」
「そうか……やっぱりな」
「え?」
押された消印に日付は、昨日。
何故、突然このようなものを送って来たのか。
封筒を手に取り考えても、わかる訳がない。
「あの、足立さん」
「なんだ」
「これ、誰から来たんですか。足立さん、わかってるんですよね」
一瞬、こいつは何を言っているのか、と思ってしまった。それが顔に出ていたのか、森内がビクリ、と肩を震わせる。それから慌てたように目線を便箋にやり、必死にその文章の先の人物を見極めようとした。
「……日ノ宮 遥だ」
はっとしたように森内が顔を上げた。そうして再び便箋に目を落とし、まじまじとその字を見ている。
今、作家の原稿は殆ど全てがパソコンだ。手書きの文字を見る機会なんて書類にサインを貰うときくらいで、名前以外の文字など見ることは殆ど無い。彼女の場合、メモを取るのもスマートフォンだったのだから、いくら3年前から森内が彼女の担当であるとはいえ、筆跡を知らないのも無理はない。
「そうだったんですね。知らなかった……」
「あいつ、執筆をパソコンに移行してからは殆ど何でも電子になったからな。無理はない」
「それなのに足立さん、よくわかりましたね」
その一言で、俺は気づく。
この手紙の、不自然な点。
何故、彼女は差出人を書かなかったのか。
恐らく、彼女はわかっていたはずだ。森内が彼女の筆跡を知らないことを。にも関わらず森内宛の手紙にも差出人を書いていなかった。
「……書き忘れ、か?」
差出人の書き忘れ、という事自体はそこまで珍しいことではない。珍しいことではないが……。
ぞわぞわとした何かが、背筋を這い昇って来るのがわかった。それはどうしようもなく不快な何かで、どこか重たい湿り気を帯びている気がした。とてつもなく嫌な予感だ。
「森内、お前、日ノ宮に連絡とったか?」
「いえ。まだです」
「……電話する」
自分の社用のスマートフォンを鞄から探り出し、電話帳にある彼女の番号をタップした。
呼び出し音が数回鳴った。
黙ってこちらを見つめる森内は、不安そうに眉尻を下げている。音は、一向に止む気配がない。
1分ほど鳴らしたところで、一方的に通話が切れた。向こうから、切られた。
「どうでした?」
「ダメだ。切られた」
試しにもう一度かけてみたが、案の定電源が落とされたようで繋がらなくなっていた。
俺は今日の自分のスケジュールを頭でさらう。午前にも午後にもそれぞれ人に会う約束がある。駄目だ。
試しに森内にも予定を聞いたがこちらも今日は日取りが悪く、定時まで予定が埋まっているらしかった。
「とりあえず、編集長には話をしておく。もうすぐ始業だ。今日の仕事が終わってから、また考えるぞ」
「はい」
森内が自分の机に戻って行くのを見届けて、俺は鞄の中から本を1冊取り出した。
淡い空色の中に薄く刷いた雲が浮かんでいる。巻き上がるように散っているこれは、桜の花弁だろうか。青みの強い紺色で、右上の方に『散華』とタイトルが入っている。左下に書かれている著者は、『日ノ宮 遥』。
机上のパソコン横に並ぶ本の列に、それを加える。自分が担当している作家の本は言わずもがな、数多の作家の本が並ぶその場所に、彼女の本は幾冊もある。
俺は彼女の世界が好きだった。
それはもうどうしようもなく、好きだった。
「お疲れ様です、足立さん」
「おう。戻って来たか」
定時を10分ほど過ぎた頃に、森内は俺の机にやって来た。本日の仕事を終えたらしい。
「ちょっと待て」と声を掛け、残りの仕事を確認する。急ぎのものが無いことを再度確認し、抽斗の中に入れてあった例の手紙を取り出す。
「あれから、昼休みにも電話をかけたが、電源は切られたままだった」
「そうですか……。どうしたんでしょう、日ノ宮さん」
「さぁな……。疲れたのかもな。今回、結構引っ張り回されてたろ」
もう一度、封筒の中身を取り出してみる。
隅々にまで目を通してみるが、やはり新しい情報は何一つ得られなかった。たった2行の文字と、青い折り鶴……。
「そう言えば、お前の手紙にもこの鶴って付いてたのか?」
「え?ええ、付いてましたよ。まったく同じ折り鶴が」
「色もか?」
「はい」
それに、違和感を覚えた。
「……編集長の所にも、同じ手紙が届いてた。折り鶴の色も同じだ」
こういったものを個人個人に渡す場合、その人間のイメージに合った色などにするのが一般的だ。買ったものを上から折ったとしても、折り紙や千代紙は通常、様々な色が交互に入っている。青だけ、というのはおかしい。
「青だけを選んで入れたのか……」
という事は、彼女はこの青い鶴で何かを伝えたいと考えるのが普通だろう。
「どうするんですか?」
「とりあえず、家に行こう。車は出す」
鞄に手帳とスマートフォン、少し迷ってから朝にそこに立てた彼女の小説を放り込んだ。そして代わりに車の鍵を取り出す。
「タイムカード、押すの忘れるなよ」
「わかってますよ」
そう言った森内が、「足立さんのも押しておきますよ」と言ってオフィスの入り口に歩いて行った。
きれいに折り畳んだ手紙を封筒に仕舞い、机の上に並べてある彼女の小説を眺める。
彼女が18歳で文壇に上ってから3年前に森内に担当を引き継ぐまでの11年間。俺は彼女と共に作品を作ってきた。資料集めに奔走したり、実際に現地に赴いたり、彼女と夜遅くまで議論することもあった。
文字通り、2人3脚でやってきた。
お互いにお互いをよく理解していたはずだった。
それなのに。
この手紙と青い鶴の意味が、俺には全く分からなかった。
「足立さん」
薄暮の時間は一番事故が起こりやすいという。白く暮れかけた空の色が目に刺さる。だからだろうか。
無言の車内でそんな事を考えながら走っていた時、例の手紙を眺めながらぽつりと森内が言った。
「何で、『青』なんでしょうか……。日ノ宮さんの好きな色でしたっけ?」
「嫌いではなかったと思うが……特段好きな色、って訳でもなかったと思う」
「じゃあ、何で……?足立さん、『青』って言われて、何が思い浮かびます?」
彼は手紙に貼りつけられていたセロハンテープから静かに小さな鶴を開放し、手の内で弄んでいた。尻尾側をつままれ逆さにされた鶴が、哀れにくるくると回る。
「『青』……海、空、川、湖……水族館?」
「ですよね。感情なら、マリッジブルーとかとも言いますし、憂鬱……それに悲しみ?」
そう言われて不意に頭に浮かんだのは、彼女の最新の小説『散華』の最後のシーンだった。
父親への復讐を果たした娘がそれまでの自分の人生を振り返り、そのあまりの空虚さに涙する。捨てられなかった父親への恋情とそれを否定されたことへの異常なまでの怒り。その感情に振り回されて復讐へと至った彼女の人生には、思い出と呼ぶべき記憶も、他人からの温かさも、そして未来に対する希望や目標も、何一つとして残っていなかった。あまりにも悲しく、空虚な……寂しい人生。初めてそれを自覚した少女はある日の夜中、父親と共に遊んだ海で、その日の美しい青を胸に自死する……。
「まさか、な……?」
絶望的な予感に、冷汗が流れる。
作家は、その精神を摩耗していくことで作品を生み出す。
自分の中にある何かを削り取っては捏ね回し、それを文章に仕上げるのが彼らだ。
出来上がった作品が良い作品であればあるほど、摩耗の度合いは大きいことが多く、より大きなエネルギーを作家自身が消耗してしまっていることが多い。
今回、彼女が書き上げた『散華』という小説。
これは彼女の今までの作品の中でも、1番の出来栄えであると言っていい。それはまず、間違いない。
それを裏付けるのが、今回の実写映画化とファンの急増だ。
もともと固定ファンが多く、「出せばある程度売れる作家」だった。しかし今回の映像化によってよりファン層が拡大し、『散華』は勿論、それ以外の小説の売上も上がっている。
だがこの『散華』という小説を書きあげるまでの過程で彼女が消耗したエネルギー……特に精神的な摩耗は、計り知れない。
今までも、作品を書き上げた後に沈み込むことは多かった。
もしも今回、それ以上の精神的な「空虚」に彼女が襲われているのだとしたら。
有り得ない話ではない、と頭の中で声が響いた。その声に背中を突かれ、俺はアクセルを踏み込んだ。
駐車場に車を停め、俺たちは急いでマンションのエントランスを潜った。
エレベーターで5階に上り、彼女が住んでいる部屋のチャイムを鳴らした。しかし、返事はない。
「電話かけます」
森内がそう言って社用のスマートフォンを耳に当てるが、すぐに首を振る。電源が入っていないらしい。
「日ノ宮!!おい!!」
安いマンションではない。ドアにはそこそこの厚みがある。叫んだって中に聞こえないことはわかっていた。それでも、頭の中で響く嫌な声が俺に声を張らせていた。
10分ほどそうしていると、エレベーターが開く音がした。そうしてそこの50代くらいに見える管理人らしき男と、俺と森内の丁度間位……30代くらいの背広姿の男が降りてくる。背広の男がこちらを指さして何かいい、もう1人がそれに頷く。管理人らしき男が、ゆっくりと近づいてきた。
「静かにしてくれるか、お2人。廊下に響いて五月蠅いって言われてる」
「あ、すみません……。あの、ここの部屋の人は……」
「そこの部屋の人なら、昨日出て行ったよ。日野さん、だっけ?女の人」
「いい人だったんだけどな」と管理人は残念そうに言った。背広の男は、いつの間にか消えていた。
「あの、行先とかは……?」
「さぁ?何も言ってなかったな。ただ、中の家具だとかは殆ど処分してったよ。本もかなり売り払ってたし。持って行ったのは多分、炊飯器とかそういうものだけじゃないかな」
炊飯器を持って行った、という管理人の発言に、俺の中で騒いでいた奴が静かになる。彼女は……少なくとも死ぬつもりで手紙を出した訳ではないようだ。
「申し遅れました。私、新海出版の足立 泰史と申します。彼女とは仕事で関係があったのですが、今朝手紙が届いていまして。その手紙が少々不可解だったもので、こうして伺わせていただきました。お騒がせして申し訳ありません」
後ろで、森内も一緒に頭を下げたのが分かった。
するとそれを聞いた管理人の顔色が変わった。大きく目を見開き、驚いたような顔をしている。
「アンタが、足立さんか」
まじまじと俺を見て、徐に彼は口を開いた。
「此処の人から、1週間以内にアンタがここに来たら、渡してくれって言われているものがある。一緒に来てくれ」
1階の共同ロビーに着いた所で、管理人は「取ってくる」と言って関係者用と書かれた入口に消えて行った。俺と森内はその場に取り残され、突っ立ったまま、その後ろ姿を眺めた。会話は、無かった。
数分程して、管理人が本を1冊右手に携えてやって来た。
「これだ」
ほれ、とでも言うように差し出されたのは。
「『青い鳥』……?」
俺が受け取った本を、森内が横から覗き込む。
それを見た瞬間、彼女が伝えたかった事が分かった気がした。
「……だから、『青』だったんだ」
「え?」
「じゃあ。確かに渡したから」とだけ言って管理人は去って行った。
俺は鞄から彼女の手紙を取り出し、森内に本を一旦預けて便箋を開く。
右下に貼りつけられた、青い鶴。
「『青い鳥』だ。幸せを呼ぶ、青い鳥」
俺はゆっくりと鶴を便箋から離し、元の紙に戻してみた。中に、何か小さく書いてある。
『全て、青い鳥に託します』
その文字を認めて、俺は本を後輩の手からひったくり、表紙を開いた。
「足立さん?」
「見ろ。これ」
そこには、少し長い文章が横書きで書かれていた。青いボールペンで書かれた、細く小さなきれいな文字。
日ノ宮 遥がまだ手書きで原稿を書いていた頃に読んでいた柔らかい字だった
『この前発表した作品で、私は初めて自分と向き合いました。
過去、現在、未来……今まで考える事を避けてきたことを、執筆期間、ずっと考えました。
作品が世に出て。次の作品を書こうと思いました。
しかし、書けませんでした。
そこで気付きました。
「日ノ宮 遥」は私の中で死んでしまったのだと。
今まで、ありがとうございました。そしてこのような形で消えていくことをお許しください。
関わった全ての方に、青い鳥が幸せを運んでくれますように。
日野 遥香』
「……無理だ」
「え」
差出人を書かなかったのは、彼女の中で作家である彼女が死んだ、という事を伝えようとしたのだろう。
だが。
「あいつは、『書かないと生きられない』」
彼女の鋭すぎる感覚は、本人を苦しめる。それを吐き出す場所が、彼女にとっての小説なのだ。
それが幸運な事でないことは確かだった。それでも彼女がそのような過酷な星の元に生を受けてしまっている事もまた、事実だ。
呆然と俺を見つめる森内に背を向け、俺は本と便箋、折り鶴だった紙を鞄に仕舞う。
ガラス張りのドアから見える外はもう、暗闇だった。
了
青い鶴 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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