宮守 遥綺

とある大学生と猫

 「ありがとうございましたー」

 深夜バイトの男の疲れ切った声に見送られて、彼は店を出た。ゆったりと元の位置に戻って行ったガラス戸が、背後でガツリと音を立てて閉まる。コマーシャルでも流れている明るい独特のBGMは、それでも外まで聞こえていた。

 ザリザリと500円のサンダルの底を鳴らし、山沿いの道を住宅街へと向かって歩きながら、彼は大きく息を吐いた。

 曇天で月明りすらも無い暗い夜道に、ただ虫たちの合唱だけが木霊する。時折思い出したように通り過ぎる風はどこか冷たさを孕んでいた。もう、秋だ。

 携帯を開き、SNSを流し見る。たまたま目に入った友人の書き込みに彼はまた一つ息を吐く。

 『やっと就職決まった!後期までもうあんま時間ないけど、これで遊べる!!』

 コメント欄には、『おめでとう』『お疲れ』という文字が並んでいた。時々見知った名前があって、その下には『これでやっと遊べるな!!』という文字が踊っている。友人はその1つ1つに『ありがとう』と律儀に返していた。

 『おめでとう!ホントにやっとだな笑 俺も人のこと言えないけど……。まだ休みはあるから、思いっきり遊べよ!!就活お疲れ!!!』

 嘘だった。そんなこと、小指の先ほども思っていなかった。しかし指が、勝手に上辺だけの言葉を紡いでいた。そんな自分がひどく卑怯で卑屈な、嫌な奴に思えた。

 画面を消して、よれたジーンズの後ろポケットに携帯を仕舞う。そうしてふと視線を上げた時、見覚えのある柄をした猫が1匹、目の前を通り過ぎた。

 あの白い体の所々に黒い斑点がある猫は、いつも庭にやってきては日当たりのいい所でくつろいでいる野良猫だ。丁度半分くらいの所から黒色に変わっているあの尻尾を、彼は良く知っている。その猫が車道をこちら側に向かって渡り、少し先にある小さな公園へと入って行った。

 それを追うように歩を進め、公園の入り口に立った彼が見たのは、ベンチに腰を下ろして猫に餌をやる、紺の羽織を羽織り白い着物を着た女性だった。

 猫は慣れたように彼女の手から餌を貰い、その白く細い手がその背を撫でるのにも大人しく身を差し出している。その反応はまるで飼い猫のようだ。

 「その猫……飼い猫ですか」

 もしかして首輪がついていないだけで、この猫は彼女の飼い猫だったのだろうか。そう思い、彼は女性に声をかけた。もしも飼い主ならば、うちの庭に来ている事、隣の庭でフンをしているらしく隣人が駆除を考えている事を、伝えようと思った。

 「いいえ。この子は、野良猫」

 今度は猫の耳裏を撫でながら、彼女が言った。

「ただ時々、こうして会うだけ」

「こんな時間にですか」

「この時間の方が都合がいいからね」

 貰った餌を食べ終えた猫が、彼女の膝に飛び乗って丸くなる。彼女は当たり前のように猫の体を撫でている。

 「野良猫に餌あげたりしたら、周りが五月蠅いですよ」

 彼は彼女の隣に腰を下ろす。そうして膝の上の猫を見つめる。猫はやはり、庭に来ている猫だった。彼が動くのに合わせて、コンビニのビニールが音を立てた。

 「一度あげると、ついて行っちゃう子もいるから……。それは仕方ないよね。猫を嫌いな人もいるし。

だけど、安心して。この餌はあくまでこの子の労働に対する正当な対価だから。人間でいう、お給料みたいなもの」

 言葉の意味が分からず、彼は思わず彼女を凝視する。とても白い、滑らかな陶器のような横顔。そこに色を添えるのは、赤味の強い薄い唇だ。僅かに頬に降りる黒髪は街灯の明かりを柔らかく上品に纏い、その雰囲気に艶やかさを添えている。

 美しい人だ。人間とは、思えぬほどに。

 彼の視線を感じ取ったのか、彼女がこちらを向く。そうしてほんの少し、目を細めた。

 「……何か」

「貴方……何か思い悩んでいる事があるみたい」

彼女はそう言って僅かに口角を上げる。いつの間にか膝上の猫は座って彼を見上げていた。

 思い悩んでいる事。

そう言われて一番に思い浮かんだのは、やはりこれからの事だった。

 もう秋だ。採用活動の情報は春や夏に比べて格段に手に入りにくくなっている。周囲の友人たちの『決まった』『内定をもらった』という声を聞く度に、書き込みを見る度に。自分と彼らの受けている会社も業種も違うとわかっていても、焦りと不安が大きくなっていく。そうして追い立てられるように履歴書を書いて、面接を受けて……連絡を貰えずに絶望する。

 自分はどうなるのか。未来が……見えない。

 俯いて黙り込んだ彼を見て、しかし彼女は何も言わなかった。そっとその白い着物の膝を陣取る猫を撫でながら、ただ柔らかい眼差しで彼を見つめている。

 やがて顔を上げた彼は、そのまま空を見上げた。

 夜空は不思議だ。暗く、光などないはずなのに雲の流れははっきり見える。今日は流れが、速い。

 「……俺、今大学4年なんです。春から就職活動始めて……だけどうまくいかなくて。もう何社受けたのか、思い出すのも嫌なくらい受けました。一生懸命調べて、自己分析やって、履歴書書いて、面接受けて……。だけどどこからも、内定が貰えないんです。

周りの友達とか、ゼミ生もみんな決まってきてて……もう、どうしたらいいのかわからなくて……」

空を見上げたまま、呟くように彼は言った。穏やかさの中に、涙の色が混ざった声で。

「今までの人生で上手くいったことなんて何一つ無かったけど、それでもここまで自分が嫌になることもありませんでした。自信を持て、なんて言われたって……これだけ否定されて、自信なんて持てる訳もないです。今じゃ……死んだ方が楽なんじゃないかって考えることもある位です。

 どうせ誰からも必要とされていないなら、死んだって構わないって。死んだら未来の事なんて、もう考えなくてもいいんだって……こんなに辛い思い、しなくていいんだって」

 言い終わる頃、彼の声は震えを帯びていた。

 わかっていた。

 今初めて会ったこの女性に、このようなことを話すのはおかしいということくらい。しかし同時に彼は、弱音を吐く場所を求めていた。『頑張れ』『大丈夫だよ』と励ましてくれる言葉ではなく、叱責する言葉でもなく。ただ静かに頷いて、聞いていてくれる、そんな場所を。

 彼女はただ静かにその言葉を聞き、そして徐に口を開いた。

 「貴方は、今までの自分は頑張って来たと思う?」

「……俺よりも頑張ってきた人なんて、いっぱいいると思います。だけど俺は俺なりに、頑張ってきたと思いますよ。少なくとも、頑張らなかったってことはない」

 彼は力強くそう言い切った。彼女の目を、しっかりと見て。

 それを聞いて、今度は彼女は柔らかく笑んだ。それは、そして途方もなく暖かかった。

 「努力は、人と比べるものじゃない。自分で『頑張った』って胸を張って言えるなら、それでいいんじゃないかな。

 じゃあ、もう1つ。

 貴方の夢は何?内定を貰って、仕事をして……そして貴方はどうなりたい?どう生きたい?」

「どう……生きたい……」

 問われて彼は、答えに窮した。

 自分に問いかけ、何度も見返したはずの自分の中を探る。まるで抽斗を全てひっくり返すかのように。見つからない答えを、血眼になって探した。

 自分は、どう生きたいのか。どうなりたいのか。

 しかしこの短時間では答えなど出るはずもない。緩く首を振った彼を見て、彼女は少し考えるような仕草をする。そして。

「じゃあ、小さい時の夢は?」

「小さい時、ですか?えっと……消防士だったこともあったし、警察官だったこともあります」

「そっか。その時は、どうしてそうなりたかったの?」

「警察官も消防士も……テレビとかで観て、強くなって人を守るっていうのが、ヒーローみたいでかっこいいなって」

「憧れ、だね」

「はい」

「今は?」

「え?」

「消防士とか、警察官とか。今は、なりたいとは思わないの?」

「今、は……」

彼は少し考えた。そうして、緩く首を振った。

「無理ですよ。勉強はそこそこできるけど、体力に自信ないし……」

 子供の頃の憧れは、所詮は憧れで。

 自分の適性やら性格やらを知ってしまった今では、消防士も警察官も自分には向いていないとわかる。

 それに気が付いたのはいつだったか。

 その時に彼は、そのキラキラと美しい光を放つ憧れを捨てたのだった。

 「……絶対に叶わない夢を、人間は見ない」

「え?」

「昔仲の良かった人がね、言ってた。

 人は、手に入る夢しか見ないんだって。『こうしたい』『こうなりたい』って思うものは、努力すれば叶う……手の届く範囲に、必ずあるんだって」

 彼は彼女のその言葉に、胸を抉られる思いだった。

 彼女に突き付けられた気がしたのだ。

小さな憧れを捨てたあの日。

 お前は、ただ努力から逃げる言い訳に『自分には向いていない』という有体な言葉を使っただけだったのだと。

 「だからね、どれだけ遠い道のりでも……一度憧れたなら、夢を見たなら、消防士も警察官も貴方の手の届く範囲にあるんじゃないかな」

 消防士も、警察官も、小さな彼の憧れだった。

 『かっこいい』という理由にもならない理由だけでなりたいと、いつかなれると思うことが出来ていた。

 『将来の夢は何ですか』という問いに、何の恥ずかしさもなく答えることが出来ていた。

 憧れを、夢だと思い込んで。

 あの頃は。あの、ただ毎日を楽しく過ごしていたあの頃は。

 そこに、現実味がなくてはいけない、などという制約は存在しなかったのに。

 では、今は?

 憧れを、夢と言ってはいけないのか?

 夢は、現実味のあるものでなくてはいけないのか?

 「今の、貴方の夢は何?」

 彼女の問いは、ただただ優しかった。


 「……にゃあ」

 大学生の青年が去った後、猫は徐に鳴いた。呆れたような眼差しで彼女を見ている。

 「ふふふ……だって、ああして話を聞くのは楽しいじゃない。人間と直接話なんて、今の時代じゃあ人間のふりをしないと出来ないから。いくら名高い竜神様ですって言ったって、信仰が薄れている今じゃあ、信じてもらえないし。何より、そんな事したら、セイラン様に怒られちゃうでしょう?」

 それを聞いて猫はまた「やれやれ」とでも言うように短く鳴いて、その膝から飛び降りる。彼女を見上げ、「早く帰りますよ」ともう1度鳴く。

 「はいはい。ちゃんと帰りますよ」

 ゆるりと立ち上がり、羽織の袖に彼女はその両の手を仕舞う。そうして、からん、ころんと高下駄を鳴らしながらゆっくりと山に向かって歩き出した。

 白い着物の裾には、大輪の紺色の牡丹が咲いている。彼女が歩く度に揺れるその花は、まるで風に揺られているようだった。

 「今日はありがとう。またお話、聞かせてね。他の子達にもよろしく」

 麓にある朽ち果てた木目の鳥居の前で、彼女はそう言って猫の頭を撫でた。そうして踵を返し、羽織の裾を揺らしながら階段を昇って行く。

 その後ろ姿に猫がもう一度、にゃあ、と鳴いた。



 

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宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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