第79話「……私は、何者でもなかったのですね」
オルパス村から少し離れた森の中で、ナナシはバルトロメオたちと向かい合って座っていた。
ナナシは相変わらずベージュの髪をした少女にしがみつかれたままである。動きづらい上に、少女の体は何故か岩のようにずっしりと重い。魔力を吸われる事はなくなったが、身動きは取れずにいる。ちらり、とナナシが少女を見下ろすと、ニコーと笑い返される。その笑い方は子供のようなと言うよりも、大人の――――それこそ、それなりに人生経験を積んだ人間が浮かべるそれだ。見た目通りの歳ではないのだろうな、とナナシは思いながらバルトロメオに顔を向けた。
「それで、話とは何ですか?」
「ああ、そいつはアルから聞いてくれ。そいつが俺らの依頼主だ」
顎をしゃくってそう言われ、ナナシは目を瞬いた。確かに見た目通りの歳ではない、とは思ったが、彼女がバルトロメオの依頼主だとは思わなかったのだ。
ナナシは意外に思いながらアルと呼ばれた少女に再び目を向ける。
歳は六、七歳くらいだろうか。ベージュ色の髪に白い肌と色素の薄い容姿をしている。儚げとも言えるだろうか。その中で、猫のような金色の目だけは爛々としているのが特徴的だった。
アルはナナシを見上げると、しがみついていた手を放し、数歩だけ離れ、地面に腰を下ろす。綺麗な座り方だなとナナシは思った。
アルは頷くと、ナナシの目を真っ直ぐ見つめた。
「うむ。そなたが何者なのか、という話じゃの」
アルの言葉にナナシは僅かに息を呑んだ。その言葉が単に『勇者です』という答えを期待しているのではない事は、何となくナナシにも分かったからだ。
勇者である事はすでに知られている。むしろ、この国ではナナシが勇者である事を知らない人間の方が少ない。
ナナシは勇者となってから、まだそれほど長い時間は経っていないが、国から各地に『今代の勇者である』という知らせは出ている。顔はうろ覚えでも名前を聞けば「ああ、勇者か」くらいには勇者ナナシの事は知られていた。
だから、そういう答えではないのだ。しかし記憶のないナナシには、それ以外に持ち合わせた答えはなかった。
「はて、あいにくと、私は記憶喪失なもので。前はどうかは分かりませんが、勇者ですとしか答えようがありません」
「前、ねぇ……」
ふと、バルトロメオが含むようにそう言った。その言い方が気になって、ナナシは少し首を傾げる。
「何か?」
「アルからの依頼で、あんたの事は大体、調べさせて貰っている」
「プライバシー的なアレがですね」
「ハハハ、そこは悪い悪い。まぁ、そこは横に置かせて貰うとして。……妙なんだよ」
バルトロメオは真面目な顔になり、腕を組む。
「記憶喪失だからって勇者なんて呼ばれるくらいだ、元々はある程度、名前が知られていてもおかしくはない。あの骨の勇者サマだって、評判はサイアクだが有名だった。強ぇってな。だがよ、あんたは違う。どれだけ調べようと、あんたが勇者になる前の情報は、何一つ出てこねぇんだ」
淡々と並べられる自分の情報に、じり、とナナシの心臓が締め付けられる。
普段ならば恐れを感じないようなナナシの表情が、無意識の内に強張り始める。それ以上踏み込ませるなと、ナナシの頭の中に警鐘が鳴った。
だが不思議と、制止の言葉は出てこなかった。
「勇者ナナシの名前が聞こえ始めたのは、この国の王城からじゃ。そなたが勇者であると国が大々的に知らせを出してからなんじゃよ」
バルトロメオの言葉を引き継いでアルが言う。猫のような金の目を検分するかのように細めて問いかける。
「のう、ナナシよ。そなたの記憶は、いつから始まった?」
「……何が言いたいのですかね」
「そなた、本当は分かっておるであろう? “おかしい”ということに」
アルの目が、言葉が、ナナシの心に突き刺さる。
心情を吐露しろと誘導されている感覚に陥って、ナナシは一度目を閉じた。
そうして心を落ち着けた
「おかしいと思ったら何なのですか? 私は勇者です。それ以上でも以下でもない」
そして動揺を言葉に出さないように、ナナシは淡々と返す。だが感情は隠しきれず口調として現れる。
「そなたは」
一瞬、アルの言葉は止まった。告げるべきか、止めるべきか迷っているような、僅かな間だ。
だがアルは前者を選んだ。
「……魔王を模して造られた存在じゃ」
そして静かにそう告げた。その言葉に、ナナシから表情が消える。
アルは少しだけ痛ましげな表情になった。
「ホムンクルスとも言うな。魔王の死を嘆き、否定した男が造り出した魔王の器が、そなたじゃよ」
「でたらめを」
声が掠れている事に、ナナシは遅れて気が付いた。
「言っていると思うたか? そなたとて、本当は気付いておったのじゃろう? 魔剣に込められた魔力の中にある、過去の戦いの記憶を受け継ぐのが勇者である――――などという方法などないのだと」
ナナシの心臓が鳴った。じりじりと締め付けられる感覚に、ナナシは胸の辺りを手で掴む。けれど感じた痛みは治まらず、鼓動も先ほどより早くなっていた。
アルの言葉は全て嘘っぱち――なんて言い切る事が出来ればナナシも楽だった。だが出来なかった。ナナシだってそう思った事があるのだ。
勇者博物館で調べても、本で調べても、それらしき記述は一切見当たらなかった。
勇者だけの秘術だから隠されているとも思ったが、本来の勇者とは後付けなのだ。功績や実力が認められ勇者に
そしてナナシがそう確信したのは、スケットンと出会った時だ。スケットンは魔力の中の記憶を受け継ぐなんて方法を知らなかった。いかに評判が悪かったとしても、スケットンは勇者だ。その悪評を誰もが知っている、正式な勇者なのである。
そのスケットンが勇者が知っているべき事を知らない。それがどんな意味を持っているかなど、ナナシにだって分かった。
ただ――――ナナシはそれを、
「魔剣の魔力を受け入れる度に、そなたの中に魔王の記憶が植えつけられる。そうしてあれは魔王を蘇らせようとしているのじゃ。……魔王の死後に
「…………」
アルの言葉がナナシの耳を通って、どこかへ消えて行く。聞かなければならない話なのに、ナナシの耳はそれを留める事を拒んでいた。
動揺と、落胆が大きすぎたのだ。
「…………平気かの?」
ふと気が付けば、アルが気遣うように顔を覗き込んでいた。
ナナシは「ええ」と小さく頷く。
否、平気などではない。だがそれすらも、言葉にする事が億劫で、ナナシはただ頷いた。
「だが今はまだ器としては不完全じゃ。記憶もそうだが、魔王の器として十分と言えるほどの、核となるものが足りておらぬ」
「核、ですか」
「うむ」
そう言うとアルは徐に、着ていたワンピースの上部を肌蹴る。
恥ずかしげもなく晒された胸には、不自然に抉られた形の紫水晶が埋め込まれていた。紫水晶は心臓の鼓動のように脈を打って輝いている。
「妾も人間ではなくての。この石が魔力を生み出して生きておる」
アルはその細い指先で紫水晶にそっと触れる。大事な宝物を扱うような、慈しむような触れ方だ。
「欠けておるじゃろう? この一部が、そなたの体にも埋まっておる」
そう言うとアルは肌蹴た服を戻し始めた。ぽちぽちと、留まっていくワンピースのボタンを見ながら、ナナシは『ああ』と思った。
言われてみれば、などという事は無かった。だが不思議と納得出来てしまっていた。
ナナシは記憶喪失だ。そう国王から言われて「そういうものか」とナナシはずっと思っていた。だからいつか戻るだろう、とも思った。
幾つかの疑念はあったが、それでも旅をする中で、自分の知り合いらしき者の話題も幾つか出ていた。だから自分には記憶を失う前があると、少しホッとしていたのだ。
記憶はいつ戻るかは分からないし、戻った後でどうなるかは分からない。それでも記憶が『あった』という事実は、ナナシにとって大事だったのだ。
だが、違う。そうではない。記憶など初めからなかった。
その事を、ナナシは今、納得してしまった。
「……私は、何者でもなかったのですね」
ぽつりと呟くように出た言葉は、驚くほどに力がない。
自分に向けられているアルやバルトロメオらの視線に、憐むような色が混ざった事にナナシは気が付いたが、どうでも良かった。
「核を、お返しすれば良いのですか?」
自暴自棄のようなナナシの言葉に、アルが目を細める。
「……そなたはそれで良いのか?」
「必要と、されるのならば」
ナナシが頷くと、アルは目を伏せ小さく息を吐く。
それからバルトロメオの方を向いた。
「……バルトロメオ。せめて痛みがないように頼む」
「ああ」
バルトロメオは頷くと立ち上がり、背中に背負った戦斧を手で持った。
振り上げられた刃が、春の日差しに照らされて鈍く光る。
ぼんやりとそれを見上げたナナシの目に、スリジエの花が映った。スケットンと出会った洞窟の外に咲いていた薄桃色の綺麗な花だ。
(……スケットンさん)
ふと、スケットンの顔が浮かんだ。
自分が死んだらスケットンはどう思うだろうか。ナナシはそう思いながら目を閉じた。
その頭上めがけて、戦斧が振り下ろされる。
――――その時だ。
金属同士がぶつかる音がナナシの至近距離で響く。
ナナシが思わず目を開けると、そこでは鮮やかな真紅のマントを靡かせたスケットンが、その魔剣でバルトロメオの戦斧を受け止めていた。
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