男の娘と道端で激しい一夜を過ごすことになった件

新米ブン屋

男の娘と道端で激しい一夜を過ごすことになった件

かあかあと ないた烏の まっくろさ


 この句はシュードー・スコティッシュフォールドという旅人が詠んだ稀代の一句らしい。

 芸術に全く興味のない俺には、この句の素晴らしさはいまいち分からないが、世間は彼を平成最後の天才と持て囃している。そこまですごい人物かどうかはともかく、どうみても外国の名前というのを人々は不思議と思わないのだろうか。俺にはこの句よりも名前が気になって仕方がない。

 まあ生涯俺とかかわることはないだろうし、考えていてもしょうがない。こんな暑い日差しの中だ、さっさと快適な家に戻ろう。


「あ、あの……」


「ハイ、ボブ。ワッチュアネーム?」


 突然背後から話しかけられて放ったフランス王もびっくりなリアクションは、俺と彼女の邂逅の絶望的なファーストインパクトとなった。




 じりじりと存在を主張する太陽の下、発火が止まらない顔を隠して言い分を伝えるのに電車のアナウンスワンコーラス分の時間を要した。

 これできっと彼女に俺がボブと言ってしまった理由を完全に理解してもらえ、これからの交流の一助となるだろう。大丈夫、喉元過ぎればなんとやらと聞くし、今の衝撃的な返答はグッドコミュニケーションのきっかけになるはずだ。だから爆発しそうな心臓よ、落ち着いてほしい。


「あっ」


 なんて脳内でめまぐるしく言い訳を重ねていると、彼女が何かに気づいたように声をあげた。身体がびくっとはねるのをなんとか抑えつつ、彼女にゆっくりと視線を向ける。


「はい、いかがなさいましたでしょうか」


 真っ黒な彼女の瞳が、仮面と化した俺の顔をじっくりと観察する。よくみたら顔の半分はマスクに覆われている。

 うーん、と眉をしかめ、また睨むように見る。かと思うと今度は首をかしげ、唸る。

 そうして彼女はおずおずと切り出した。


「もしかして以前、会ったことがありますか?」


 その質問をされて、まず思ったのは逆ナンパではないか、という期待だった。しかし自分に限ってそんなことはないだろう。では何か。暫し考えたが全く予想がつかなかったので、美人に話しかけられたという事実を喜ぶことにした。ラッキーだ。脇を電車がガタゴト音をたてて通り過ぎていく。ああ、夏の思い出になるな、これは。

 そんな感動の後に浮かんだのは疑念だった。

 感じた違和感を確かめるため、彼女の顔をこっそり見上げる。


「あ、すみません……こちらの思い違いかもしれません……」


 消え入りそうな声。さんさんと降り注ぐ日差しの中、顔を覆ったマスク。夏にも関わらず、纏っているのは肌がほとんど隠れるフリル付きの服。ゆったりとしているとはいえ、この気温じゃ暑いだろう。日焼け対策かもしれないが、それにしても不思議である。

 あれ、怪しいのでは。マスクをはずしても間違いなく容姿は整っていると言えるから浮かれてしまったけど、ヤバイ人なのでは。知り合いを装って壺を無理やり売り付けようとするやつなのでは。

 そう思うと、先ほどまで舞い上がっていた気持ちが嘘のようにストンと落ち着いた。ただ次の瞬間にこんなことを言ってしまう辺り実のところ冷静になっていなかったのだろう。


「いえ、好みです」


 真顔で初対面の怪しい女性に対して何故この言葉を返してしまったのか。再びほてる身体をごまかそうと、なんとなくポケットに手を入れる。蒸れてて暑い。すぐに手を出す。ああ、暑いなあ。


「それはよかったです……」


 ポッと頬を赤らめた、ように見える反応をする女性に、再び心が揺らぐ。マスクのせいで断言はできない。だがこれは絶対そうだろう。そうに違いない。心が信じたがっているのだ。

 怪しいのがなんだ。初対面の人でマスクつけてたら大抵そう思い込んでしまうだけだ。この人はただの美人で安全な人だ。そう思いたい。

 というかよかったってなんだ、その言葉。もしかして本当にナンパか!? サマーバケーションウィズ美少女の時代がついに訪れたのか!?


「あのお、それで、お願いなんですけど……」


 女性は出会った時から変わらない遠慮がちな様子で、俺に何かを頼もうとする。

 俺はもともと困っている人をみたら放ってはおけない性分だ。ぜひとも相談に乗ろう。そこに下心はきっとない。ないのだ、きっと。


「はい、何でもどうぞ」

「え、何でもいいんですかっ!?」

「えっ?」


 顔に柔らかいと思われる表情を浮かべていたときだった。

 下を向いておどおどとしていた彼女のタガが外れたかのように、突然彼女は目を輝かせて俺の手を握ってきたのだ。

 夏なのに全然手汗とか掻いてない。俺の手絶対べったべたなのにまったくそんなことない。あ、や、やわらかいです……

 新品タオルかのごとく柔らかい彼女の手に夢中になっている間にも彼女は続けて喋る。


「今、綺麗な夕焼けが見られる場所を探していて、もし知っていたら案内してほしいんです!」


 目をらんらんと輝かせて、彼女は俺に頼みを告げた。

 夕焼け、か。こんな美しい人と夕焼けを見られたら人生最高の思い出になるのだろう。

 胸裏に浮かんだ欲望を何とか取っ払って、俺は彼女に答える。ちょうどおあつらえ向きな場所を知っている、俺は運が良い。


「俺の知っている場所でよければいいですよ」

「はい! ぜひぜひ!」


 出会った時とは打って変わって元気になった態度に戸惑いつつも、その場所を告げる。


「カラス峠っていうんですけど」


 小さい頃、親と何度も行ったあの場所だ。あのころは夕暮れ前には帰らないといけなかったから夕焼けは見れていないけど、きっと良い夕暮れを過ごせる場所だろう。


「カラス! いいですね!」


 俺と同じ高さにある瞳が、今空から照っている日差しと同じくらい輝いて見えた。


**


 道端で出会った謎の長身美少女と共に、坂を歩く。さっきいた場所は駅の近くだったから人はまばらではあるが、いるにはいた。しかし、峠に向かう山道には人はいなかった。

 確かに普通の人はこんな夏真っ盛りでお天道様がダブルピースしている下を歩かないだろう。おかげで流れる汗の量が尋常じゃない。これ絶対ワイシャツの背中濡れてるやつでしょ。あー、この人に背中見せたくない。


「暑いですね」


 俺がリュックから取り出したタオルで汗を拭いているのをみて、彼女はそうほほ笑んだ。

 そう言っている彼女はマスクで日焼け対策ばっちしだ。

 あれ。何かおかしくないか。


「あの、貴方は暑くないんですか?」


 そう、このやっばい暑さにも関わらず彼女は汗ひとつ掻いていなかったのだ。ほんとに人間か? 天界から遣わされた女神なのでは?


「暑いですよ」


 にっこりと返される。よく彼女を見てみると、皮膚の表面にかすかに汗が浮かんでいるような気がする。

 ああ、美人も大変なんだな。誰だって苦労はしてる、そう思った。

 ゆったりと横を歩く彼女の所作は洗練されていて、お嬢様みが感じられる。実に優雅である。美しい。


「……」


 あれ、何を喋ろうか。色々秘めてそうな人だけど、質問してもいいものだろうか。こういったときに気が利かせられないのは男としてどうなんだ。


「お名前うかがってもいいですか、親切な学生さん」


 気合を入れて、ついに質問しよう、と決意した矢先に彼女が話しかけてくる。コミュニケーションも完璧とは穴がない、素晴らしい。

 夏にマスクをつけているだけで疑うなんて俺は駄目な奴だ。こんなにも丁寧な人を疑ってはいけない。


「あ、はい。戸田江助とだこうすけです」

「うんうん」


 続けて、みたいな感じで相槌をうたれたので続けるしかない。


「高校二年生で趣味は寝ることです。あなたのお名前は」

「部活はなにやってるの?」


 ん?

 ものすごくくい気味で返答された。こちらの質問ガン無視だったが、多分気のせいだろう。たまたま聞こえなかっただけだ。こんな丁寧な物腰をした彼女がそうはしないだろう。


「部活は陸上です。種目は走り高跳びやってます。あなたのなま」

「走り高跳び! かっこいいですね! 自分との戦いって感じで陸上は素敵なスポーツですよね!」

「そうですね、皆と一緒にやってはいますけど、記録を出すのは自分ですから。ところで」

「あ、あ! ぼ、私は茶道をやってましたね!」


 ぼ?

 ぼ、ってなんだ。もしかして一人称がぼくなお方なのか。

 確かに背が高くてスレンダーだから、男装とかしたらかなり似合いそうではあるな。

 それにしても、彼女はずいぶんと焦っているようだ。さっきまでは気品すら感じさせるほどきっちりとした立ち振る舞いをしていたのに、今は手をあわあわとさせていて可愛い。


「そろそろお名前を訊いてもいいですか?」


 そろそろいいだろう。何か事情があったらそれを話してもらおう。

 足をとめて、ぎらぎらした太陽の真下で、彼女と視線を合わせる。そうしたら、彼女はまた初めて会ったときのように、目を伏せた。

 ああ、聞いちゃだめなことだったんだな。察することのできなかった自分を憎む。こういうところが彼女が出来ない原因だろう、反省しよう。


「……須藤すどう音子ねこ


 ぼそり、と。彼女は恥ずかしそうに告げる。

 それをきいて、俺は自分がまるで彼女に認めてもらったかのように思い、嬉しくなった。

 ああ、何か拝みたくなった。ありがとう神様、俺、美しい女性に話しかけられてよかったよ。これからは家に仏壇を置いて毎日神に感謝の祈りをささげよう。


「ねこさん、短い間かもしれませんが、よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」


 ねこさんはそう言って、上品に微笑んだ。


 気分が明るくなって、足取りも自然と軽くなる。カラス峠までは結構長い。このくらいペースをあげていかないと到着する頃夜になってしまう。女性と夜二人っきりはまずいだろう。高校生男子と深窓の令嬢のランデブーとかスキャンダル性が高すぎる。

 なんて考えつつも、気が付けばねこさんとの会話に夢中になっていく。情緒不安定というかは、実は感情豊かなのを普段は抑えているだけのようだ。会話の節々に元気が溢れていて、こっちもエネルギーを注入される。


「家には猫がいるんですけど、それはもう可愛くて」

「猫って可愛いですよね。のんびり屋さんなとことか。あ、ちなみに猫の名前はなんていうんですか?」

「名前? 江助くんは結構名前気にするのですね」


 ちょっとしつこかったかな。猫のどんなところが可愛いとか、そういう話につなげた方がよかったかもしれない。しかし一度言ったことを取り下げることはできない。続けて訊いてみよう。


「あ、はい。最近変な名前の詩人が気になっていて、多分その影響ですかね」


 あはは、なんて笑ってみる。あのカラスの句を読んだ彼の素性が気になって仕方ないのだ。目の前の彼女は知っているのだろうか。


「変な名前とか言っちゃダメですよ、江助くん!」


 ぷんぷん、と腰に手をあてて怒ったようにするねこさん。確かに他の人に対して変な、なんて言うのは失礼だろう。これは自分の感覚が間違っていたのだろう。


「ごめんなさい、ねこさん」

「いえいえいいんですよ。ちなみに猫はルウちゃんっていいます。ちっちゃくて可愛いんですよー!」

「可愛い名前ですね! 写真とかあったりします?」

「ありますよ! ちょっと待ってくださいね!」


 ねこさんは肩からかけていたポーチの中を探し始める。ふとしたしぐさでゆれるシャツのフリルに、艶のある黒髪がふんわりとした魅力がある。対照的に、少し顔を下にむけたとき見える鼻筋は通っていて、とても凛々しい。

 このお嬢様、実はアイドルとかそういった類のやつなのではないだろうか。こんな美しい一般人が町をほっつき歩いているのか。それだったら世の中最高すぎる。


「はい、こちらです!」


 声につられて顔を上げ、彼女が向けた写真が目に入った。


「……えっ!?」


 そこに映っていたのは、言葉の通り小さい体躯の猫だった。それだけならば、ただ可愛いとだけ伝えて会話が終わっていただろう。しかし、その猫の耳にははっきりとした特徴があった。


「……やっぱり、耳に目がいきますよね?」

「あっ、いえ、その」


 図星をつかれて思わず返答に困っていると、ねこさんは悪戯っ子のように笑って言った。


「この子、スコティッシュフォールドっていう品種なんです。この種は皆、耳がぺたりと折れ曲がっていて、それが可愛いって結構評判だったりするんですよ」

「あー、なるほど。そういうことなんですね、よかった、ちょっとだけびっくりしました」


 あはは、と笑って頬をかく。何らかの事情に突っ込んでしまったかと思い焦ったが、そうではないようでよかった。

 安心して再びまじまじと見つめると、ぽかーんとしている顔がわかり、自然に可愛いと思えた。猫ってオスでもメスでも気が抜けているような顔をしていて、どちらも可愛い。親に頼んだら飼えるだろうか。今度聞いてみよう。


「……本当に、可愛いですよね」


 目を細めて物憂げにつぶやく様に妙な色気を感じ、思わず目を逸らす。愛おしいものを見つめているはずなのに、どうしてそんな悲しそうな顔をしているのか。美人の表情はどれもこちらの心が引っ張られる。


「江助くん、スコティッシュフォールドの耳がぺたりとしてる理由、なんでだと思いますか?」

「耳が寝てる理由、ですか。うーん、そうですね。遺伝かな、とは思うんですけど、耳がそうなる理由がわかりませんね」


 動物は自らの身体を環境に適応させるため、進化をする。ついこの間生物の授業でやった記憶からそんな予想をたててみた。耳が折れ曲がる進化がなんの得なのかわからない。音を拾うんだったら曲がってない方がいいはずだ。となると突然変異が当てはまるだろうか。


「それはね、突然変異から始まったの」

「突然変異ですか、そうなんですね」


 突然変異だったか。もう少し考えてから発言しら当たっていたかもしれない。着眼点は悪くなかったということだろう。といっても考えうるパターンは多くはないから予想はそこまで難しくなかったかもしれない。それならせっかくだし当てたかったな。


「じゃあどうして突然変異が数十年も続いていると思う?」

「え?」


 ここから会話が広がると思わなかった。でも言われてみれば確かにそうだ。突然変異は、一世限りのものであることが多いからそう呼ばれるのに、突然変異がそれを維持したまま長い間続くのは他の要因が手を加えている可能性がありうる。

 ねこさんは何かに耐えるように、語りはじめる。


「それは。私たち人間が手を加えてしまったからです」


 その発言はずしりと俺の背中に重石を乗せる。品種改良、というやつだろうか。突然変異した種を、手を加えて存続させる。科学技術が発達してから始まった、評論家によく批判される議題だ。しかし自分にとってその言葉は現代にすっかりなじんでしまった言葉で、今目の前のねこさんが責任を感じているようにしているのは、理由がわからなかった。


「私の家は、ペットの品種改良をして、たくさんお金を稼いだ、そんな家なんです」


 マスク越しでもわかる大きなため息をつき、夕暮れの近づく空を見上げる。薄幸のお嬢様が自分の家に嫌気がさして家を出た、そんな状況が浮かんだ。


「正常でない状態を維持するというのは、遺伝子異常を放置するということです。その危険性がわからないわけではないはずなのに……」


 そこまで話してからねこさんはハッとして視線を俺に向ける。


「ごめんなさい、忘れてください」


 そう言ってほほ笑むその笑顔はどこか儚くて、か細い女の子であった。


「いえ。ねこさんの気持ちがよくわかりました」


 表情筋が引き締まり、言葉が硬くなる。まさか深窓の令嬢がそんな悩みを抱えていたなんて。先ほどまでの安易に考えていた自分を恥じる。

 もっと、色々なことを学ぼう。そして、一人でも悲しむ人を救えるようになろう。目の前で悩んでいる人をみて、そう誓った。


「……ありがとうございます、江助くん」


 ぼそりとつぶやかれた言葉で、目の前の人と会えてよかったと確信した。


 抹茶色のワンピースを着たお嬢様と共に、ずいぶん長い距離を歩いて来た気がする。だが、それももうすぐ終わりだ。


「見えてきましたよ、カラス峠」


 旅の終わりだ。

 坂の上の黒々とした雑木林が目に入る。後ろを振り返ってみると、上ってきた長い長い坂が目に入る。こんな距離を歩いたのか。ねこさんとの話に夢中で全く意識していなかった。子供の頃はここまで歩いてこられなかったのを思うと、たいした成長だ。


「ここがカラス峠ですか! ほんとに真っ黒ですね!」


 先ほどまでの暗い雰囲気はどこへやら、今のねこさんは目の前のものに興味津々といった体だ。切り替えが早いのは生きていくうえで重要なことだと思う。

 初めは顔半分を覆うマスクに目がいく怪しい人物であったのに、今ではすっかり守りたい人候補だ。第一印象がマイナスだと後にプラスに変わりやすいというのは本当のことだったんだと思う。


「俺も久しぶりに来ましたけど、前よりも黒さが濃くなっているような気がします」


 ところでカラス峠という名前であるが、それは公式につけられたものではない。本当は名前なんてない、ただ海際にできた黒い木々の群生がある崖のような場所だ。そこは遠くからみると、生い茂る黒い木々のせいで、真っ黒なくちばしが突き出ているように見えるらしい。それがカラス峠、と誰かが言いだした。俺の生まれる前からその名前はあったようで、今や地元民以外にも知られている。有名になったのはSNSにあげられた一枚の写真で、それはカラス峠から撮影された夕焼けと海の写真だった。

 その写真は俺も見たことが合って、水面に反射する夕焼けが非常に美しかった。芸術に関心を持たない俺でもわかる、そんな一枚だった。


「カラスが飛んでいるわけではないんですね」


 その場に立ちすくんで、何かを考え始めるねこさん。

 確かに名前だけ聞くと、カラスがたくさん飛んでいる峠というイメージが思い浮かぶ。


「そうですね。たまにいることもあるらしいですけど、基本は静かな場所みたいです」

「へえ、そうなんですか。それにしても、なかなか暗いですね」


 もともと日の当たりのいい場所ではないのもあって、まだ日が沈んでいないこの時間帯でも暗い。ここら一帯だけまるで別世界のようだ。


「珍しいことに街灯もないですからね」

「えっ」


 何気なしにつぶやくと、ねこさんの顔色が変わる。どうしたのだろうか、あ、まさかお嬢様だし自分の身元のことを気にしているのだろうか。まさか見ず知らぬの他人と一緒にいるわけにはいかないだろうし、そういうことか。俺が守ります、なんて言ってみたかったなあ。


「大丈夫ですよ、夕焼けを見たらすぐに帰りましょう」


 もうすぐねこさんとの別れがくる。その寂しさを誤魔化すように笑顔をつくる。


「あ、そういうことじゃなくて……」


 ねこさんがうろたえている。そういうことじゃない、とはどういうことだろうか。


「あの、このあたりって、人通りが少なかったり?」

「そうですね。たまに親子が来るくらいですね」

「きた!!!」


 突然、ねこさんは絶叫する。え、何かこんなに声野太かったっけ。

 ガッツポーズを決めるねこさんはしばらくうおおと唸っていたが、困惑の極みで見つめる俺に気付くと、再びハッとする。


「あ、すみませんなんでもございません」


 過剰なお嬢様分を押し付けられ、黙り込むしかなくなってしまう。

 こんな清楚な人があんな声出すわけないな、情緒豊かみたいだし、その一環だろう。


「夕焼け、楽しみですね!」


 ぬぐいきれぬ不安が胸の奥で渦巻いているが、それをなんとか押しとどめて、うなずいた。


 メモ帳で何かを確かめるねこさんを脇目に、俺は来る夕焼けへと思いをはせていた。そう、それを人は現実逃避と呼ぶ。しょうがないのだ。今の俺の心臓は爆発寸前、一本でも導線が切れたら速発火だ。

 俺は、何を信じたらいいのか。不審者のようなお嬢様から、明らかに雄々しい声が響いてきたのだ。かすかに抱いた恋心もおじゃんである。これにはアガペーを唱えたイエスも許してくれるだろう。

 彼女、ともう言っていいかわからないが、須藤音子と出会ったときに覚えた違和感を思い出してみる。まずはその背丈。女性にしては高い方だ。まあスレンダーな女性もいるのでこれはセーフだ。次に、大きなマスク。男性と女性の骨格はかなり違うらしいので、これは男女差のごまかしのためのマスクなのではないだろうか。


「……シュ……ド……」


 ぼそぼそと独り言をつぶやいているようだが、全く耳に入ってこない。俺の脳内を支配しているのは、彼女の性別だ。

 そして、身体のラインが出にくいゆったりしたシャツ。更には、自分のことをぼく、と言い間違えた疑惑。そしてそして、すっと通った鼻筋。

 いや待て自分。男がこんなさらっさらの髪をしているわけがないだろう。己の髪の毛と比べればわかる。これは男子が持つには無理なはずだ。男性らしい体格をした女性だっているだろう。こんなお嬢様がもしそうだったら、それにコンプレックスを持って隠そうとするのもありうるだろう。

 と、ここまで考えて思う。この人、少し男っぽいだけの女の人なのではないだろうか。根は少年だけど、親からお嬢様であることを強制されているだけの、深窓の令嬢。ありだ。これは十全にあり得るだろう。何迷ってるんだ自分、彼女を疑うなんてありえないだろう。


「あ、夕焼けだ!」


 ねこさんに袖を引っ張られて思わず顔を上げる。

 俺の視界に映った夕焼けと海、そしてねこさん。その光景は今まで見たどんな写真よりも本当に綺麗で、心を打たれた。ああ、この人とここにきてよかった。色々あったが、それもまた一興。この光景を美しくするためのスパイスだったのだ。芸術に疎い俺にそう思わせるほど、素晴らしい風景であった。


 ぼんやりと二人で夕焼けを眺め続けていた。

 それも沈んでいく、そんな時間になった。ここから離れたくない気持ちが勝って動けない俺だったが、唐突にねこさんは語りはじめる。


「江助くん、もうすぐ夜だね」


 敬語じゃないその口調に驚く。暗い木々の中で、真っ直ぐにこちらを見つめるねこさんの印象はお嬢様にしては艶やかすぎる。その色気にくらくらしながら、ねこさんの語りを聞く。


「衆道って、知ってる?」


 しゅうどう? それはいったいなんなのだろうか。サッカーは蹴球というらしいし、その系列だろうか。


「その様子だと、知らないってことでいいのかな?」


 とりあえず、はいと頷く。


「実はぼくはね、俳人なんだ。俳句を読む人」


 俳人。初めて聞いた言葉だ。というか、一人称はぼくなのか。

 ん?

 急速に、脳内が加速していく。


「ペンネームがねシュードー」


 俳句、カラス。シュードー、スコティッシュフォールド。旅人。

 ピースが浮かんで、頭の中でパズルが組み立っていく。


「シュードー・スコティッシュフォールドっていうんだ」


 シュードー・スコティッシュフォールドって……


「あの変な詩人!?」

「そうだよ」

「男じゃ?」

「男だよ」

「……その長い髪は?」

「似合うでしょ?」

「お嬢様じゃ?」

「ぼくはそんなこと一言も言ってないよ」


 笑顔で答えながら、じりじりと俺に詰め寄ってくる。見た目はどうみてもお嬢様で、身の危険を感じる必要はないはずなのに、どうしてこんなにも背筋が冷えるのか。


「猫の話は……」

「あ、それは本当だよ」


 そうなのか。噓の中の真実にまんまと騙されたということだ。いや、ただの俺の勘違いか。ねこさんは自分からそんなことは言っていないしな。

 たまには女性っぽい男性がいてもいいだろう。うん、そうに違いない。

 ぽっかりと空いた胸に蓋をして、ねこさんに感じた何かをそっと奥底に押し込めた。


「ぞれじゃあ、帰りましょうか。変な名前とか言ってごめんなさい、新しい俳句、楽しみにしてます」


 もう何も感じる心がない。あはは、と機械的に笑いながら別れを促す。そう、これはひと夏の過ち。失敗は成功の母。この経験を忘れずに、強く生きていこう。

 と、海側から冷たい風が吹いてくる。ふと海を覗くと、日が落ち行く様子が目に入る。もう夜が近い。そろそろ家に帰らないと。

 そう思い、ねこさんに背を向けようとすると、ガシッとズボンを掴まれる。


「どうしました? 夜も近いですし、そろそろ帰らないと」

「まだ、衆道について教えてないよ?」


 ああ、確かに。肌寒くなってきたし、帰りたい気持ちもやまやまだが、せっかくだしそれくらいは聞いていこうかな。


「そうでしたね。衆道って何なんですか?」

「うんうん、それでは教えて進ぜよう!」


 妙にノリノリだ。そんなに面白いことなのか。


「言葉だけじゃ伝わりにくいから、実戦からいくね」

「はあ。どうぞ」

「じゃあまず、ベルトをとってくれるかな?」


 注文の多い料理店か。さっきまでのようにジョークでも入れてくるかと予想しつつも、とりあえず指示に従う。


「うん、次に地面に寝転んでくれるかな?」

「え?」

「ほら、はやく」

「え、ちょっ」


 明らかにおかしい指令に戸惑っていると、両肩に手を置かれ、地面に押し倒される。


「や、やめてください! 服汚れちゃいますって!」

「大丈夫、痛いのは一瞬だから」

「ちょ、それはどういう」

「……いただきます」

「え、な、アーッ!!」


 この夜、俺は身を持って衆道の意味を知ることとなったのであった。

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