金魚

@shoma_neco

第1話

 水面が太陽の光を乱反射して煌めいた。この高校のプールは屋上にあるから、日差しを遮るものが何もない。記録的な猛暑の中、私は麦わら帽子とラムネだけを頼りにプールサイドに立っていた。

 私がこの馬鹿みたいに暑い中プールサイドに立てたのは、ある人のお陰だ。二年生きってのエースである彼が泳ぐ姿はみずみずしく、爽やか。水が弾ける音。繋がって聞こえる蝉の声。それらを忘れて無音の中にいるような涼しい気分にさせてくれるから、いくら見つめていても飽きることはない。

 けれど、いつも私はこうして遠くから見つめることしかできない。制服姿の私と水着の彼との間には、近いようであまりに遠い距離があるのだ。彼が泳いでいる間、私はプールサイドで待つことしかできない。この水槽に張られた大量の水が私と彼を決定的に隔てていた。まるで水槽の中の魚みたいに。憎たらしくて美しい水。

「ここ最近、暑すぎるよ」

 メニューを人より早く終わらせた先輩が、よく通る声で言った。ついぼうっとしていて気付けなかった。答えようと慌てて先輩と目を合わせた私は、またすぐに目を離した。

「そ、そうですね。次は……」

 私は練習メニューの記されたボードを必死に見やる。別に見なくても諳んじてみせられる、いつも通りの練習だ。私は自分にほとほと嫌気がさした。どうして折角話しかけてもらえたのに、こう無愛想な返事しかできないんだろう。今時は人工知能だってもっと可愛い切り返しができる。

「でもそのお陰で練習が減って、夏祭りの花火に間に合う。感謝しないと」

 先輩が手持ちのスポーツジャグを片手に言った。私は足元の先輩とボードを交互に見比べていた。まるでそこに憧れの人とうまく話すコツでも載っているみたいに。もちろん載ってなんかない。ぎこちなく笑えた自信すらもない。

「お前は誰と行くの?」

 ……そんな人、いるわけがない。信頼できる親友は彼氏とデートだ。私だって、できるならとっくに先輩を誘って―

「―いませんよ」

 先輩はすぐに飛び出してしまった。たぶん聞こえていなかった。私の話があまりにつまらないから、さっさと切り上げてしまったのだ。私はため息をついて、水の中を切り拓いて進む先輩を見やる。綺麗なブレストストローク。健康的に日焼けした肩がさっと泡の中に霧散しては、またすぐに浮かび上がってくる。彼を見ていると、なんだか頭がくらくらする。

 二十五メートルプールを往復する練習、彼が向こう側に向かう間が密かな楽しみだった。私はちっとも彼に近づけやしないけれど、それもいい。美しいフォームを最後まで崩さず、彼はプールの端まで辿り着いた。タッチターンを軽やかにこなして、こちらに向かってくる。

 目が合ったような気がして、私は視線を逸らした。無闇に眩い水面に映る夏の雲を眺めた。心地よい風が吹く。

 その時、頭の麦わら帽子がふわりと浮かんだ。そのまま飛び去ろうとする帽子を掴もうと、私は手を伸ばす。

 夏休みも、あと半分だ。

 人混みの喧騒に混じって、どこからか笛や太鼓の演奏が聴こえる。点々と連なる提灯の薄ぼんやりした明かりに促されて、人だかりは少しずつ前に進んだ。

 これまでは苦手だった雑踏も、今は気にならない。引っ張り出した浴衣と、ビーチサンダルとは勝手の違う下駄を下手くそにからから鳴らす私の隣には、憧れの先輩の姿があった。

 プールサイドでは私の方が人一人分は高かったのが、今では彼の方が頭一つ分も高い。下から見る先輩の横顔は初めてかも知れないと気付いた。また日焼けを重ねたのか、彼の頬が赤い。

「わっ」

 見惚れていた私は間抜けな声を漏らして体勢を崩した。下駄が小石に引っかかったらしい。いつも平たいプールサイドを歩いている所為かも。

「ぼうっとしてると、はぐれるよ」

 勢いで掴んでしまった手を握って、先輩はからかうように笑った。私も何故か自然に笑うことができる。

 私は今、甚平を着た先輩と並んで歩いている。見る人からすると、恋人同士に見えるんじゃないか。いや、あまりにも不釣り合いで、似てない兄妹に見えるのか。どっちでもいいや。

 腕時計を見て、先輩が空を見上げる。私も一緒に夜空を見た。

 真っ黒なキャンバスを真っ直ぐに昇った輝点が空高く爆ぜる。放射線状に拡がった光が、黒一色だった空を赤く染め上げた。

 綺麗だ。

 と思ったのもつかの間、次々と打ち上げられた花火が暗闇を一瞬にしてラメを散らしたような星空に変えた。

 私は手にしたビニール袋を思い出した。先輩がとってくれた二匹の金魚に、あの花火は見えているだろうか。

 「―おい!」

 先輩が怒鳴る声が聴こえる。こんなに激しい声は、初めて聴くなあ。ふわりとした気持ちとは裏腹に、体が異常を必死になって伝えるのがわかった。それを鬱陶しく感じて間もなく、私は生命の危機に気付く。

 空気。空気が欲しい。慌てて動かした足が、何度か空回って地面を得た。

 感覚が膜を突き破り、鋭敏さを取り戻す。

 体が冷たい。それに鼻が痛い。

「大丈夫か? ―顧問呼んできて」

 なんとか酸素を吸い込み、ぼんやり目の焦点を合わせると、そこには先輩のたくましい首筋があった。驚いて見上げる。

「え、ど、どうして……」

 私は混乱した。どうして私はプールの中で、先輩の横に立っているんだろう。本当は私には絶対に踏み込めないはずなのに。

「落ちたんだよ。大丈夫?」

 ―つまり。私はぼうっとして、プールサイドから水中に滑落したらしい。こんな馬鹿なことがあるのか。恥ずかしさで体が少し温まった気がする。

「と、とととにかく大丈夫です。着替えとか……ないですけど」

「どこも打ってないんだな?」

「ええ」

 どうやら無事らしいと分かり、顧問も飛んでくると、先輩は耐えられないという風に笑い始めた。やがて今まで見たこともないぐらい大きな笑い声に変わる。

 人はこんなにも爽やかに笑えるんだと知った。死にかけたにも関わらず、私はまだ先輩に見惚れる余裕があった。

「マネージャーが飛び込みしたって新聞に載るぞ」

「絶対、嫌です」

 そんなこと言われてもなあ、と先輩はまた笑う。会話らしい会話ができた。しかも笑ってくれている。

 そんなことに今更気付いて、私も笑みが溢れた。べたべたした汗も、体にまとわりつくような熱気もぜんぶ、水に流されてしまった。なんだか気持ちよくって、私は先輩と馬鹿みたいに笑い続けた。

「プールサイドで昼寝でもしてたか」

 顧問が真面目な顔で言うから、さらに吹き出してしまう。

「違いますけど、夢は見たかもです」

「へえ。どんな夢?」

 先輩が透き通った瞳を向けて聞いてくる。私は急に恥ずかしくなって、少しだけ離れた。

「花火の夢です」

 顧問や他の部員がまた笑う。でも、先輩だけは少し顔つきが穏やかになった。今日は見たことのない表情が多い気がする。

 その時はまさか、あの夢が正夢になるとは思いもしなかった。

「もし、今日の予定がないなら―」

 先輩が麦わら帽子を私の頭に乗せる。

 まだ、夏は始まったばかりらしい。

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