最終章 漆黒の翼

荒野へ続く道


 それから暫くしてフランソワが帰宅するのを送る口実で、執事はガブリエルにも侯爵邸へ同行するようにと強く具申した。一年の喪が明けるのなんて待てないと、彼女が言い出したのだ。気が乗らないガブリエルを無理矢理叔母の待つ馬車に乗せ三人は出発した。


 奇しくも季節は廻り、あの時と同じ秋になっていた。痛み止めの為にぼんやりしたまま潜った侯爵セルビノア卿の館の門。あの時は、屋敷の広大さに感動し、庭の自然との調和のとれた見事さに脱帽した。薬の影響でひどく緩んだ思考だった事は否めない。何故か今回の方が緊張に膝がガクガクして、最初に何と言ったらいいのだろうかと、溜息しか出ないガブリエルだった。


 彼の思いに関わらず、館の正面に馬車が停った。


 迎えに出た使用人達を見ながら、旅の間終始落ち着かないガブリエルに気付いていたフランソワは、年の割に度胸が座っていると思っていたけれど、やっぱり普通の子と変わらないと彼に微笑み掛けた。


「ルーサーにだけは事情を話してあるから、彼については何も心配しなくていいの。エレーナの事はこの際考えなくてもいいから、寛いで行きなさい。」


 そう言われ、何だか肩の荷が半分降ろせた気がしたガブリエルだった。


 玄関ホールで彼等を出迎えていた侯爵は、何も言わなくていいよと、いきなりハグしてきた。別にカイルのふりをして騙していた件についてペテンうんぬんと責めるつもりは最初から無いらしく、むしろカイルの無茶な命令をよく聞いたものだ。また会えて良かった、と言ってくれた。彼もカイルの横暴さは知っていた様だ。


 夕食の準備が出来たと、ベルを鳴らしたセルビノア家の執事も、ガブリエルの顔を見て驚いていた。亡くなったカイルとは双子だと聞いていたが、野獣を討ち取ったあの彼がそのまま現れたように思ったらしい。ガブリエルは、カイルとは印象を変えようと、彼が好まなかった緑色を基調としたスーツを着てみたが、効果は全く薄い様だった。


 彼の席はこの間と同じエドワードの隣に設定されていた。じっと黙って食卓に着いている彼に、こんばんはと、声を掛けてガブリエルは着席した。彼の声を聞き驚いたように顔を上げるエドワード。あのはしゃぎ過ぎる彼とは到底思えない沈んだ様子だった。


「失礼、こんなに似ているとは思わなかった。君達は双子だから当り前なのに。」


 エレーナに至っては顔すら上げなかった。


 食卓は文字通りカイルを偲ぶ会となった。しかし、誰も彼の事を詳しくは知らないのだ。婚約者のエレーナですら、それまで殆ど言葉を交わした事が無かったらしい。何も語られないのをとうとう我慢出来なくなったように、エドワードが泣きじゃくりながら、キツネ狩りの折、牧草地に妹を乗せて馬で彼が現れた時の事を話し出した。そして、あんな凄いやつが死んでしまうなんて、信じられないと、とうとう泣き伏してしまった。


 事情を知っている侯爵とフランソワは、息子の様子に複雑な表情を浮かべるしかなく、それらを聞きながら、ひたすら恐縮しているガブリエルに彼女が言った。


「貴方は彼の事を知っていたの?」


「いいえ、双子の兄弟がいるなんて全く知りませんでした。彼も少し人見知りな所が有ったので、結局ろくに会話も出来ず仕舞いでした。彼は、私の実家のスコット商会が経営難で喘いでいた時に奇特にも援助を申し出てくれていたのです。それで、アメリカの方へ事業の為に渡ってしまっていた両親に代わってお礼も言いたかったのですが。諸々の事情も全然知らなくて、知っていたら、いえ知らなくても、せめて同い年の友人としてでも、彼の話しを少しでも聞いて上げられたのではないかと、悔やまれてなりません。共に庭を歩く事ぐらい出来たのではと。」


 ガブリエルは言葉に詰まって下を向いてしまった。


 言い方を変えればそうなのだ。彼は何も嘘は言っていないが、まるでそこには別のカイル・バルドベークと言う温情溢れる人物がいるようだと後ろに控えるミカエルは黙って聞きながら思った。


 ふと見ると侯爵もフランソワも涙を拭っていた。


 エドワードに至っては、やっぱり君もいい奴だぁ! と彼に抱きついてオイオイ泣き始めた。エレーナも手で顔を覆い泣いている様だった。


 どうしたものかと、執事を見るガブリエルに彼は、こんなに悲しんで頂けるなんて、坊ちゃんは幸せ者です、と小さく言った。




 翌日、カイルが残して行った犬を見せるとエドワードに誘われ、ガブリエルはミカエルも伴い犬小屋へ向かった。


 狩猟は侯爵の趣味だが、領地内の環境保全に無くてはならないものなのだとエドワードは説明した。オオカミがいなくなって大型草食動物の鹿が近年増え始め、農作物を荒らすようになった彼らを適正数までに狩るのは領主の仕事だと言った。先日の催しの際には、正体不明の獣による被害が出ていた為、特別に狐狩りの形式で狩りが行われ、その野獣をカイルが仕留めたのだと、エドワードは親友を自慢する様に言った。


「そう言えば、その時の獣の毛皮が屋敷に届いていました。弟の遺品なのですね。大事にさせて頂きます。」


 やがて、高い柵で囲まれた犬の飼育施設が見えて来た。手前のゲージで五匹の子犬がじゃれ合い、中の白い一匹が、ガブリエルに気付き走り寄ろうとして急に顔色を変えて立ち止まると激しく咆え始めた。その子犬に対して、慌ててエドワードが制止を掛けたが、全く聞こうとせず犬は吠え続けた。


「こら、リリアン、これはお前のご主人様の兄上だぞ。」


 他の子犬達は尻尾を振って喜んでいるが、彼女だけは激しく威嚇して近付いて来ようとしなかった。


「何時もはもっと大人しいんだけど、やっぱり君と彼が別人なんだと分かるのかなぁ。似ているだけに余計奇妙なんだよ、彼女にとっては。ごめんね。」


 ガブリエルは、彼女の猛獣でも前にしたような剣幕に苦笑するしかなかった。


「リリアンですか。いい名前ですね。賢そうな子だ。このままここに居させてやって下さい。その方が彼女も幸せだ。」


「そうだね。それがいいと僕も思うよ。あの様子じゃカイル君を中々忘れないだろう。リリアンっていうのも彼が付けた名前なんだ。」




 吠え続ける子犬の所を離れ、二人はティータイムの為に屋敷に帰ったが、テラスに設けられたその席にエレーナの姿は無かった。


 仕様の無い子ね、と呆れるフランソワ。


 何となく、あの日屋敷の絵を書いた場所に彼女がいるような気がして、ガブリエルは席を立った。


「私が呼んで来ます。」


 彼に続いてエドワードも立ち上がった。


「僕も行こうか?」


 徐に牧草地を目線で差すガブリエル。


「いえ、彼女は、ほら、あそこです。」


 彼の見た先に、ぼんやりと大木の下に腰掛けているエレーナの姿があった。



   「想い出の中の面影」 

   

 お茶の席でガブリエルと同席するのがいたたまれず、エレーナは屋敷が見えるあの大木の根元に腰掛け、精一杯亡くなったカイルの事を思い出そうとしたが、どうも上手く行かなかった。


 あの秋の日までカイルとは殆ど話した事も無かったのだ。親同士が勝手に決めてくれて、ある日突然、この男の子が貴女の旦那様になる人ですよと紹介された。なんて綺麗な顔をした子なんだろうと思わず笑い掛けたが、恥ずかしがり屋の彼は目を逸らしてそれっきり。話し掛けても返事を返してくれたかどうかも覚えていないのだ。


 何かの行事の度に誘っても、執事が代筆した断わりの手紙が届き、来てくれた例がなかった。


 幼心にも避けられているのだと分かり、その内に、彼はきっと自分との婚約自体迷惑しているのだと思うようになった。


 何故、彼が将来の相手なのかと聞いても、彼のお父様との約束だからとしか言ってもらえなかった。


 てっきり嫌われているのだと思っていたのに、あの秋の催しには参加すると返事が来た。正直、信じられなかった。


(あなたがあんなにフルートが上手だったなんて知らなかった。乗馬も……怪我をしているのを隠してまで狩りに参加して、平気な顔をして笑ってた。私を野獣の牙から助けてくれたあの時のあなたは、本物の騎士だった。私、もらった詩のお返しをまだしていないのよ。なぜ、死んじゃったの。)


 涙がまた頬を伝った。


 人が近付く気配に慌てて目の下をサッと拭った彼女に、ガブリエルはそっと話し掛けた。


「お屋敷で皆さんお待ちですよ。一緒に行きませんか?」


 彼女は視界の中に人が入っている事もずっと気付いていた様だが、そんな事はどうでもよくまだ思い出の中に彼の面影を探していたいのか、彼の問い掛けには答えなかった。


「ここは弟が貴女に絵を描いて差し上げた場所ですね。お屋敷にその時一緒に描かれた絵が掛けて有りました。確かにここからの眺めは素敵です。はにかんだように目を伏せる貴女が視線を上げて自分を見て微笑んでくれるのを彼はずっと待っていたんでしょうね。」


 彼の言葉にエレーナは、ハッとして彼の目を見た。


「どうして……彼が描いた私の絵の事を知っているの? 誰にも見せていないのに。」


 エレーナは、目の前のガブリエルがカイルとは別人だと自分に言い聞かせようとしても、どうしても夢の様な彼の答えを望んでしまうのだ。それをガブリエルも分かっているが、全てを打ち明ける事は決して出来ない。


「ミカエルが話してくれました。彼はカイルの執事でしたから、貴女へ贈った詩の清書も彼が頼まれて手掛けたと言っていました。」


「そうなの……」


 がっかりしている彼女にガブリエルは小さく溜息を吐き、屋敷を振り返った。


「彼は心の中で決めていたのでしょうか、貴女に自分の気持ちを伝えられるこれが最後の機会だと。だから貴女にあの絵を渡したのかもしれないと執事が言っていました。」


「ずっと持っていたかった。彼はそう言っていたわ。お別れの意味が籠っていたなんて。だからいつもと違う風に振る舞っていたのね。」


 エレーナは目に再び涙を浮かべた。


 この風景の中、二人があの日と同じ位置にいる事をエレーナは果たして気付いただろうか。ガブリエルは切ない想いに目を逸らした。


 その時、いきなり屋敷の向こう側から全速力でこちらへ疾走して来る白い影が目の端に入って来た。後ろを犬の飼育係が叫びながら追い駆けて来る。しかし、人の足では到底追い付けない。


「リリアン! 止まれ‼」


 あっと言う間に白い猟犬は、二人の目の前に迫った。


「リリアン!」

 

 ところが、犬はいきなり何かに引っ掛かった様に止まった。どうやったのか、屋敷近くにいたミカエルが投げたロープに蜘蛛の糸に掛かった虫の様に絡め取られたのだ。動きを封じられた白い犬はそれでもロープから脱出しようと激しく藻掻いた。


 突然の出来事にガブリエルは、咄嗟に背後に庇ったエレーナを苦笑交じりで振り返った。


「驚きましたね。もっ、物凄いスピードだ。」


 屋敷のテラスでは、エドワードが慌て牧草地を駆けて来る。


 彼よりも更に早く、執事がガブリエルの傍らに寄ると、小さく主人に耳打ちした。


「これ以上は、ご褒美無しでは無理です。」


 ようやく飼育係が追い付き、犬に掛かった縄を解いて繋ぎ直した。


「まるで神業ですね、執事さん。凄いです。しかし、どうしたんだ、リリアンは。決して激しい気性の子ではないのですが。」


 エレーナは、何かを確かめる様にガブリエルの横顔を食い入るように見ていた。


 そこへようやくエドワードが到着した。犬が縛られているのを見て、安心した様に肩で息をしながらも彼はガブリエルを見た。


「大丈夫だった?」


「はい、何とか。」


 ガブリエルが彼に応え笑ったその時……


 犬は身をくねらせ、飼育係りの引き綱を解いて、アッ、と息を呑む人間達の目の前でガブリエルに踊り掛かったのだ。


 生後一年の子犬とは言え、体重は20㎏を超え立ち上がれば顔の位置はガブリエルの首の辺りに有る。元より犬は手加減などしない。不意を突かれて彼は、バランスを崩し地面に押し倒されてしまった。


 一体、犬は何が気に食わなくて彼を執拗に襲おうとするのか。


 巨大な獣に襲われた森での事件の事が再現されたのか、エレーナが叫び声を上げた。


「キャーー‼」


 ところが……


 押し倒された現場からは鼻を鳴らす犬の声と、緊張も何も無い声が聞こえて来た。


「ダメだって、行儀の悪い子はお仕置きだよ。今からお茶の時間なの。どきなさい、リリアン。頼むから。もぉ、上着が泥だらけだよ。」


 叫んだエレーナも唖然としている。


 執事が物凄い勢いで尻尾を振る犬の首輪を後ろからムンズと掴み、思い切り口元を嘗め回されたガブリエルから引き離した。


「ですから、これ以上はご褒美無しでは無理ですと申しました。」


 涎だらけにされた顔をハンカチで拭いながら立ち上がり、呆然とする二人の兄妹の前でガブリエルは服の泥を払うと、ポケットから干し肉を三㎝ほどの長方形に切った物を取り出した。犬がそれを見て慌てて行儀よくオスワリをする。嫌っているどころか、既に完全なる主従関係が構築されている様だ。


 いい子だ、と言いながら頭を撫で彼は犬に干し肉を与えた。一口で噛みもせず呑み込むリリアン。次を期待している目。


「どう言う事? ガブリエル君。さっきはあんなに君を嫌って吠えてたのに。」


 エドワードの質問も道理である。


 ガブリエルは笑いながら、


「仕掛けは簡単です。」


 と言い、徐に犬に指一本を立て見せる。


 リリアンは勢いよく、ワン! 一声咆える。


「よく出来ました。いい子だ。」


 干し肉をやり、笑顔で犬の頭を撫でるガブリエル。簡単に言えば指で犬に指示を出していたのだ。


 彼は何食わぬ顔で犬を見た。犬は彼の目線に喜んで尻尾を振った。


「リリアンは本当に賢い子ですね。完璧に出来る様に、ミカエルに調教させたんですよ。」


 執事は、恐縮ですと、頭を下げた。


 ガブリエルは、そんな彼の様子に笑みを漏らした。


「本当は夜通し掛かってしまったんです。でも彼女覚えが早いから、時間を忘れてしまってました。本当にいい子だ、リリアン。」


 しかし、何だってそんな事をと、エドワードが聞こうとした時、いきなりエレーナがガブリエルの前に立ったかと思うと、思い切り彼の頬を平手打ちにした。


 エドワードが慌てて割って入る。


「いきなり何するんだ、エレーナ!」


 頬に手を当て彼女を見ているガブリエルに、目を真っ赤にした彼女は、感情を抑えられない強い口調で言った。


「貴方みたいに平気で嘘吐く人、大嫌いよ!」


 さっさと屋敷の方へ足音も荒く歩き去って行く彼女を、言葉を忘れて見送る男達。リリアンは飼育員に綱を持たれていながも、自分の主人に狼藉を働いた彼女に向って飛び掛らんばかりに吠え立てた。


「エレーナ!」


 エドワードが妹の所業を援護して言った。


「本当ごめんね。君の裏技が鮮やか過ぎて戸惑っているんだ。だけど犬に無断で芸を仕込んだだけで、あんなに怒るなんて意味が解らないよ。だってリリアンは、いずれは君の家の犬になるんだからね。何で君を嘘吐き呼ばわりするんだ? カイル君の犬を横取りしたと思っているのかな。後から僕がきつく言っておくよ。だから妹の事は許してやって。」


 ガブリエルは、自分を見上げるリリアンに笑い掛けながら撫でた。


「もちろんです。僕とした事がエレーナさんにはすっかり嫌われてしまったみたいですね。でも、思っていたよりもお元気そうだ。」


 大地を踏み鳴らす様に屋敷に帰って行くエレーナの後ろ姿を見送る二人。エドワードも妹のそんな様子に笑っていた。


「僕に言わせればね、妹の化けの皮がやっと剥がれたって所かな。大人し過ぎて逆に心配だったんだ。でも、もう大丈夫。ありがとう、わざとやってくれたんでしょ? どんな慰めの言葉より怒らせた方が妹の場合、復活が早いんだ。」


 傍らに控えていた執事が、時刻を気にする様に懐中時計を取り出し確認し言った。


「ガブリエル様、そろそろ出発しませんと到着が遅くなってしまいます。お荷物は馬車に積んでございますので、皆様へのご挨拶がお済みになられましたらお越し下さい。」


 深々と彼は頭を下げ、失礼しますと言ってその場を後にした。


 もうそんな時刻になっていたかと、エドワードと共に屋敷へ向って歩き出すガブリエル。飼育員に連れられている犬を振り返り、

「申し訳ありませんが、リリアンはやはりここに置いて行きます。お願い出来ますか?」


「でも、この子、こんなに君に懐いているのに?」


 ガブリエルはエドワードに微笑んだ。


「またここへ来る口実を残させて下さい。」


 彼は犬の頭を名残惜しそうに何度も撫でた。犬も別れが分かるのか大人しく撫でさせた。


 エドワードは明るく笑って頷いた。


「そうか。そうだね。責任もって預かるよ。」



 

   「荒野へ 」

 

 帰宅する馬車の中……極めて険悪な沈黙が執事から流れてくる事に、ガブリエルは身震いしていた。それでも恐る恐る言ってみる。


「そんなに怒る事ないじゃない。エレーナが立ち直る事が一番重要なわけで、僕だってあのタイミングでまさかリリアンが乱入して来るなんて思わなかったんだ。もう少し上手く彼女を傷付けずに出来た気もするけど。仕方が無いよ。結果としては上出来だと思うよ。」


 ジロリと彼を見る執事。


「普通に話しをさせて頂いて宜しいですか?」


 ドキリとしながら、どうぞ、ご随意に、遠慮無く、と言うガブリエル。まだまだ主人に徹しられそうもない。


 ではお言葉に甘えて遠慮なく、と前置きをして大きく溜息を吐く執事。


「お嬢様は相当おいかりりだ。まったく白々しい。私を嵌めるのが目的だったんだろ。考えてみればあんな芸当を仕込まなくても、そのままにしておいてもリリアンは元々人懐っこい犬なのだから、あのエドワード坊ちゃまが彼女にとってお前が特別だと言う認識すらしなかった筈だ。一晩中犬と根比べさせられるとは私とした事が、悔しい事この上無い。」


 ふっと目を逸らすガブリエル。


「そっ、そうかもしれなかったね。でも随分楽しそうだったけど、虐待寸前の調は。そう言うの得意だものね。」


 執事が一気に赤面したのをガブリエルは見逃さなかった。


「全部想定内だよ。彼女とは普通の従兄妹同士として付き合って行ければいいのだと思う。」


 彼の口元に浮かべた笑みが、切なさの中に消えた事に執事は気付いた。


 彼の目を正面から見るガブリエル。


「どう考えても許されないでしょう。彼女はカイルの婚約者だったんだ。彼の気持ちを考えると、僕に彼女と結婚なんて無理だよ。カイルの事はよく知らなくて分からないけど、本当の自分を彼女に見られたくなくて素っ気無くしてたんじゃないかな。裏庭に有ったペット達の墓を見たんだ。随分沢山飼っていたんだね。どれだけ寂しい思いをして来たのかそれを見ただけで分かったよ。片時も独りではいられなかったんだね。でもみんな自分のわがままのせいで死なせてしまった。そんな自責の想いがあの場所には込められていると思う。きっとちょっとの不注意が元で死んでしまう動物達みたいに、自分で気付かない内に彼女までそんな目に合わせてしまうんじゃないかと怖かったんじゃないかな。だから交流を持てなかったんだ。彼女はカイルにとって所謂手を触れてはいけない聖域だった。それを僕が無神経に踏み荒らした。だから、僕はそんな事情が有ったなんて知らなかったとは言え、自分が許せないんだ。」


 ガブリエルは下を向いて小さく首を振った。


 ……執事は言葉が出なかった。


 そんな信じられないほど美しい世界は、あのカイルの中には存在していなかった事ぐらい執事をしていれば分かる。しかし、目の前の彼の中には当り前に描かれているのだ。それはそれでいいのかもしれないと、執事は喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。


 ふと、懐の電報の紙に気付き、執事の改まった口調に戻るミカエル。


「今朝、スミスから電報で、例の公爵ロンダート家ご当主が心臓発作で急にお亡くなりになられたそうです。バルドベーク家当主宛の遺書により、ご親類筋ではありませんが遺産の一部を頂戴する事になりました。こちらが概算額です。お疲れとは存じますが、ご帰宅後すぐにご弔問にお出掛けになって下さい。」


 ガブリエルも彼の手元を覗き込み、小さく頷いた。


「なるほど。確かに天秤に掛ければ一目瞭然だね。スコット商会への出資額とは桁違いだ。でも何故譲渡可能なの? ご遺族の方々はそれで納得しておられるの? そもそも、受け取るべきはカイルなんじゃないの? 彼は亡くなっている。僕が遺産の相続は出来ない筈だ。」


「よくご覧下さい。宛名はガブリエル様になっております。ご遺族方も故人の考えは分からないが、遺志を尊重すると署名されたらしいのです。あの方もさすがですね、カイル坊ちゃんが亡くなり、双子の御兄弟の存在をお知りになった時点で、あの時の貴方が、カイル坊ちゃんの誇りと伯爵家を守る為に、身代わりと成ってあの場所にそれ相当の覚悟で臨まれたその兄君なのだと、お気付きになられた様です。あくまであのホテルのスイートルームで会った貴方に受け取って欲しいと望んでおられた様です。先日公爵家に当主交代のご挨拶に伺った際のご様子でもお分かりになられるかと存じます。邪なご自分の想いに対する懺悔も込められているのではと、私は解釈致しました。つまりは、あの方は貴方に感服し己を恥じておられたのでしょう。その一方で替え玉などと言う卑怯な手を使ったカイル様に憤っておられたのかもしれません。最後の頼みと思って受け取って差し上げられては如何でしょうか。」


 故人ロンダートにとって、このと言うよりも自分達の父親アルフォンゾ・バルドベークに対する歪んだ羨望の方が強かったのではと、ホテルの部屋で彼と交わしたほんの短い会話を思い出すガブリエルだった。


〈ずっと苦しかった。君に私の心に巣くう獣を見透かされてしまいそうで。許してくれ給え。友人の皮を被っていた私を。〉


 彼が何の事を言っているのか、その時は分からなかったが、自分が伯爵家の血を引く者と知った今は、その意味が分かる。息子である自分を通して今は亡き親友と語りたかったのだとガブリエルは思った。


 公爵は学生時代親友だったアルフォンゾから、叶わぬ愛の裏返しに当時彼が付き合っていた恋人を横取りしてしまったらしい。破綻させてしまった得難い友情を後悔していたと、あのホテルの部屋で公爵は跪きガフリエルの手に縋って泣いたのだ。公爵家が今存続できているのも、彼が自分の子供を身籠った彼女を黙って公爵家に送り出してくれたお陰で、男色家で女性との間に性交渉が持てない自分が跡継ぎを持てた。血が繋がっていなくても愛していた人の息子を育てられ、公爵家にとって不名誉以外の何物でもない事を、長い間秘密にしてくれた事を本当に感謝していると告白したのだ。


 始めは、会って話をしたいと何度催促しても、色よいどころか梨の礫の返事しか返さない伯爵家の息子に腹を立て、是が非でもものにしてやろうと思っていたらしいが、部屋に現れた彼は、今まで見ていたカイル・バルドベークとは全く違う雰囲気を纏い、情欲の捌け口などにしてはならない、彼が恋した若い頃の親友そのものの青年だった。その不思議も双子の兄弟の存在を知り謎が解けたのだ。しかし、カイルに行った蛮行は彼の持つ二面性を裏付けている事の一つだろう。


 自分の子供でもないのに跡継ぎに成る様に喜んで迎え入れたとは、その心理は計り知れないが、公爵家が継承されて行く為にはどうしても子供が必要だったとは言うものの、理解し難い事だった。黙っていろと言われれば、すっとそうしていようとガブリエルは思った。


 公爵が譲渡に踏み切った遺産は、秘密を半永久的に共有する代償だろうか。いや、そもそもあのホテルでも、別に誰にも口外しなければ黙って墓場へ持って行けたのに、そこまでして伯爵家との繋がりを保とうとするのは何故だったのだろう。そんなにアルフォンゾ・バルドベークと言う人を愛していたのだろうか。


「分かった。それであの方が心おきなく天国へ行けるのなら受け取ろう。葬儀参列は当前だね。行くよ。日程を調整しておいてくれ。」


「かしこまりました。」


 暫く窓の外に目をやっていたガブリエルは、気を取り直した様に真っすぐにミカエルを見た。その瞳に少しの翳りは有ったが小さな光も灯っていた事が執事を安心させた。


「先日話した総合商社の件だけど、相談に乗ってくれそうな人の目星は付けて有るか?」


 執事は手帳を取り出して言った。


「その件でしたら、セルビノア様の……」


 と言いかけ、過ぎて行く景色に視線をやった執事は目を丸くした。彼の様子に気付いたガブリエルも、彼が見ている方を見て慌てて窓を開けて叫んだ。


「リリアン!」


 白い犬は、セルビノア家の牧草地をぐるりと回る石畳の道を行くガブリエルの馬車目掛け、さすがは猟犬としか言いようが無い最短距離をとると言う本能で追い掛けて来たのだ。


 馬車を止め降りて来たガブリエルを見た犬は、更に速度を上げ嬉しさの余り彼に駆け寄るとそのまま飛び付いた。


「どうしても僕と行きたいの?」


 リリアンの答えは聞くまでも無かった。


 自転車で犬を追い掛けて来た犬の世話係に大きく手を振り、ガブリエルは馬車に犬と共に乗り込み言った。


「この子は僕が連れて帰るよ。後は宜しく!」


 世話係の男も、了解した、と彼に手を振り返した。


 誰しもこの犬の様に生きられたら幸せだろう。

執事は、嬉しそうに耳の下を大好きな主人に撫でられるリリアンを見てそう思った。


 そんな何気ない日常は過ぎて行く。


 私がご用意させて頂いた台本シナリオは如何でしたか? カイル坊ちゃん。



****

 終りにテーマ曲にイメージするものを選んでみました。

 直接は飛べませんのでURLをコピーの上、

 別ウィンドウで開いて聴いてみて下さい。

 LIBERA『You were ther』あなたがいるから https://youtu.be/1ufVbrhj5KY

****


 何故こんな事になってしまったのだろう。

 それがどんなに酷い嘘だとしても、

僕はあなたを愛している。

 例えどんなに険しく苦しい道へ導かれるとしても、

僕は決してあなたを疑ったりしない。

 人に謗られ石持って追われようと、

共に背負った重荷は煉獄まで持って行く。

 あなたの翼が漆黒の闇に溶けていようと、

あなたが示した道ならば、

僕は何も怖れはしないのだから。


                   


                            === 完 ===


 最後までお付き合い下さいました方々、

 本当にありがとうございました。

 人は何を信じるのかと言うのがテーマだったのですが

 全ての根底にはただ愛が存在すると私は思っています。

 それが善なのか相対する存在なのかは別として

 そこには存在するのかが問題なのだと。

 これにて閉幕といたします。

 

                         桜木 玲音




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漆黒の翼 桜木 玲音 @minazuki-ichigo

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