描かれた美しい景色
「遺 書」
カイルの遺書を確認した弁護士は、こんな歳で全てを背負わされ、責任の重さに耐えられなくなったなんて、何て可哀想な事になってしまったんだと言葉に詰まった。
ガブリエルはそれを聞いても、何かそら美しく誰かが描いた絵画を見るような気がして、何も実感が持てなかった。彼は決してそんな理由で死を選んだりはしないと思うからだ。
伯爵家の執事ミカエルは
しかしどう鑑みても執事の希望を叶える事は無理だと、警視ライトルは調書を書き終え困った事を言うと腕組みをした。同時にそんなに大事な主人だったのかと少し呆れもしたが、どうもそればかりでは無さそうだと刑事の勘が囁いていた。
「あんた、他にも何か隠しているんじゃないのか?」
ミカエルは赤く泣き腫らした目を上げ、ライトルを見た。
刑事の目はまるで心の奥底までを覗き込んできそうな程鋭かった。
隠しきれないと観念したのか、彼は新たな涙を零し内ポケットから手を震わせながら、誰かの血の手跡の付いた一通の手紙を取り出した。
カイルの葬儀は事情を考慮して身内だけでひっそりと執り行われる事になった。
教会の礼拝堂に安置された棺に収められた彼の顔は、発見された時の凄惨な様子とは全く異なり、見慣れた美しい面影に直されていた。
ガブリエルはエレーナに姿を見られない様にこっそりと、使用人達に隠れる様にカイルへ最後の別れを告げた。
「まさか僕らが双子の兄弟だったなんて知らなくて。独りきりで寂しかったよね。ごめんね、カイル。」
カイルの訃報を受け、急遽伯爵家の親類であるフランソワと共に駆け付けたエレーナは、黙ったまま墓穴の下に降ろされた棺に、エドワードに支えられながらも土を掛けたが、悲しみに耐えられなくなりその場に崩折れた。フランソワは彼女の肩を抱きながら、使用人の中に帽子を目深に被ったガブリエルを見付けると切なそうに唇を噛んだ。
数日後、何も知らされていないフランソワ達を尻目に、ミカエルを伴った大勢の警官隊が近くの雑木林に入り大規模な捜索が行われた。
何事かと遠巻きにしている伯爵家の使用人達には目もくれず、次々に見付かる遺体に現場は騒然となった。
埋められていたのは、殆どが元は伯爵家で使用人として働いていた者達だった。
とある麻袋に入れられた遺体が出ると更に現場は緊迫した。彼らを殺害した後、主犯の執事リードは何らかの理由でこれ以上罪を免れないと覚悟したのか、ナイフで自刃した。その遺骸だ。
彼が殺害の為に使った毒物は、彼の部屋の壁を改造した扉の奥から見付かった。動機は先物相場で被った大損を穴埋めする為に屋敷の金を使い込んだ事を使用人らに知られ、分け前を要求され追い詰められた末の犯行だったらしいと、警視のライトルは、ミカエルの証言として伯爵家の留守を預かる執事のスミスに説明した。全てはリードがミカエルに託した遺書の中で告白していたと。
ただ捜査にあたった警官達は、殆ど埋めたばかりと思しい遺棄された遺体にしては、まるで丁寧に埋葬された様なその様子に違和感を禁じえなかったが、犯行があった当日に当家を主人の用向きで留守にしていた書生のガブリエルとミカエルが帰宅後、彼らの遺骸をとにかく埋めてやってくれと主人に懇願され、主人に逆らえずやむなく雑木林に出来るだけ丁寧に葬ったのだと分かり納得した。
その他、カイルの自殺について若い執事は、リードの犯行を止められず、説得も聞き入れて貰えず、古参の執事に罪を償わせないまま死なせてしまった事を、全ては彼が自分の未熟さが招いた悲劇だと思い悩んだ末の事だったのだろうと言った。そして若い執事はそこまで追い詰められていた主人の心情も汲めず、結局は自殺と言う無残な結果を招いたのは自分にも責任があるのだから死刑にしてくれと、言ったのだとか。
ミカエルとガブリエルが遺棄に関わった事については、情状を酌量され書類送検のみで済むらしい。もう少し事情を聞いて滞りなく終われば執事も帰されるだろうと、ライトルは屋敷の一室で取り調べの為に呼んだガブリエルを前にそう言った。とにかく、主人の後を追わない様に執事が落ち着くまで決して目を離さない様にと刑事は彼に念を押した。
それを聞かされたガブリエルは、何か魔法に掛けられている様な感覚全般が鈍くなっている状態を味わっていた。
何故全ての罪をリードが負わされているのか。
少なくとも彼を殺したのはカイルだったのではないのか。
あの時、ミカエルも同じ考えだった筈なのに。
しかしガブリエルは刑事に敢えて聞かれると、自分には何も確証が持てない事ばかりで、証言出来る事は何も無い事に気が付いた。全ては状況から推測される憶測に過ぎなかったのだ。使用人殺害の犯人がリードではなく、カイルだと言う証拠もあの短剣だけでは弱すぎる。例え彼の指紋が付着していたとしても、混乱していて触ってしまったと判断されるかもしれないし、刺した現場を目撃した訳ではないのだ。二人が死んでしまっている今、 警
その他の以前の殺人についてはどうだろう。
死体さえも自分は見ていないのだ。
有ったのか無かったのかさえ確信が無いものについて何を言えるだろうか。
カイルの命令で死体を埋めるのを自分は手伝った。
それは事実だ。首を吊る前に彼が書いたと言う遺書も中を読んではいない。
ミカエルが全てを都合よく書き直したのだろうか。
ガブリエルは手で顔を覆って下を向いた。
お前は何も知らないと言うんだぞ ミカエルが、カイルの死体を前に狼狽する表の顔とは裏腹の、何時もの冷静沈着な声で耳打ちした声がガブリエルの脳裏に蘇った。
全ては自分を護る為にミカエルが一人で負った嘘と言う重荷なのではないかと、彼はその思いを押し殺す様に肩を震わせた。
泣くばかりの彼を前に、ライトルは慰める言葉を上手く告げられず帰って行った。
「手 紙」
フランソワは落胆したガブリエルを放っておけず、バルドベーク家に葬儀の後そのまま留まってくれる事になった。
書斎で二人きりになると、ガブリエルは叔母を前に堪えていた涙をはらはらと零した。
「全部、ミカエルから聞きました。」
フランソワは彼の肩を抱き寄せ、彼の母親から届いたと言う手紙を彼に渡した。
自分達が詳細を告げずにいた為に、出生の事情を知らない息子が、大学の寮を引き払い、書生として伯爵家で働く事に成ったと聞かされ、悪い予感に突き動かされたガブリエルの母は、伯爵家でも親切にしてくれていたフランソワを頼り、息子を助けてやってくれと言って来たのだとか。
ガブリエル宛の手紙には、伯爵の援助のお蔭でアメリカに渡り新天地を開拓中だと書かれてあった。借りたお金は分割で返せる見込みが出来たと言う事業の持ち直しも示唆する極めて前向きな内容だった。
〈お兄ちゃんの病死は誤報だったの。今一緒にここアメリカで栽培した穀物を英国へ輸出するルートを開発中よ。何時も貴方の幸せを願っています。母より〉
その文面を見た途端、彼の脳裏に思い浮かんだのは、この伯爵家と言う場の雰囲気に全然合わない照れ笑いする母の顔だった。
封筒の中には他に、古いバルドベークの紋章で封印されていた手紙が油紙に包まれ同封されていた。兄アルフォンゾの筆跡に間違いないとフランソワは付け加えた。
文面には自分と彼女の間に産まれた子供の名前は「ガブリエル」大天使の名と同じにして欲しい、いつも神のご加護があらん事を祈っている、と書かれていた。もしも彼が伯爵家に帰らねばならない事情が起こった時の身の証として指輪を渡しておくと書かれ、青い宝石を冠した古い指輪が入っていた。
〈僕の太陽エブリン。いつまでも幸せでいてくれ。本当は会いたくてしょうがないけど、精一杯我慢するよ。〉
そう書かれていた事が印象的だった。
ミカエルが言った通り、決して弄ばれ捨てられたのではなかったのだと思った。
読み終わったガブリエルは、脳内で勝手に賑やかに囀る母の声が聞こえてきそうで苦笑するしかなかった。きっと彼女は荘厳な、見方を変えれば暗いこの屋敷の空気を、あの無茶ぶりで混ぜっ返して顰蹙をかっていたに違いない。
「母とは知り合いだったのですね。でも、カイルと僕とではあの母が生んだ双子だと言うのに、性格がまるっきり違うみたい。不思議です。」
「貴方達は冬至の日を跨いで生まれたのよね。先に生まれたカイルは夜が支配する冬の様にいつも冷たい目をしていた。でも後に生まれた貴方は、長く寒い冬が終わり春に向かって伸びて行く太陽の日差しみたいだわね。きっとそんな生まれ合わせなのだと思うわ。」
何故こんな結末になってしまったのか、彼の真意が分からず問い質そうと機会を伺ったが、ガブリエル自身の立場も単なる書生から、伯爵家の正式な当主へと、元の所に戻された歯車がぴたりと噛み合うように展開して行き、部屋も使用人の使うものではなく二階の一室に移されたのを始まりとして、弁護士を交えての手続き等、何かと忙しく以前のようにゆっくり二人だけで話せる機会が中々作れなくなっていた。疑問に思っていた事も、そんな流れに乗ってしまった自分を自覚する内にこの伯爵家を簡単に失くす事など出来ないのだと分かった。しかし、このままリードの名誉も挽回できないのは口惜しい気がした。
執事頭の彼が残していた遺書をフランソワも
証拠として採用されたリードの遺書がカイルによって無理矢理書かされたのだとしても、ミカエルはそれを上手く利用したのだとガブリエルは思っていた。もしも当主であるカイルが犯罪者となれば、きっと伯爵家自体が前代未聞の不名誉を歴史に刻みお取り潰しになってしまうのだ。それも殺した人数が少なくとも四人以上となれば、犯罪史上稀に見る殺人鬼と言われるだろう。
ミカエルは、自分に伯爵家を継がせる為にカイルを自殺に見せ掛けて殺したのではないだろうか……そんな想いが暗くガブリエルの心を覆っていた。
それから数週間後、例の獣の鞣革が届いた。
フランソワはそれを送った主の、不謹慎なのか、想い出の品のつもりで気を遣ったのか、今一意味不明な贈り物を苦笑交じりに眺めながらガブリエルを見た。
「こんな時に言うのも可笑しいのかもしれないのだけれど、全ての手続きが完了したら、改めてエレーナと正式に婚約してやって欲しいの。貴方も憎からず思っている筈よ。」
母親の目から見ても、彼女が恋しているのは、貴方なのだからと。
「そのお話しは一旦完全に白紙に戻すのがいいのではと思います。彼女がこんな卑怯者を許してはくれないでしょう。それに僕は弟の喪に服する身です。」
苦笑するフランソワの脳裏に、彼の隣に座って楽しそうにしていた娘の様子が有った。
「貴方はあの催しの時、どう思って彼女と接していたの?」
「それは……あくまでカイルとしてあるべき姿を演じていました。自分の気持ちなど介在しておりません。彼女の事はとても眩しく遠い存在として見ておりました。まだ彼が僕の双子の弟だなんて知らなかったので。」
「じゃぁ、もしもエレーナが許せば、考えてくれるの?」
ガブリエルは答えなかった。フランソワは、彼が命令されるままにカイルを演じた事で、エレーナや他の者に対して嘘を吐いていた事に拘っているのだと思った。
「あの子に会ってやってはくれないの?」
「とにかく、一年の喪が明けましたらもう一度考えましょう。」
フランソワは仕方無さそうに納得したのか頷いた。喪中。確かにそうなのだから。
「分かったわ、急いては事を仕損じる……そうねよ、期が熟すまで待ちましょう。」
彼女が席を立って部屋を出て行くと、ミカエルが何か言いたそうに彼を見ていた。
「言いたい事が有ったら言ってもいいよ。今は二人だけだから。」
彼の言葉に執事は、彼の傍らに歩み寄って来た。
「彼女との事を前に進めるべきだと私は思う。フランソワ様があんな風におっしゃるのも、エレーナ様がとても憔悴し切っておられ、このままでは病気になってしまわれるかとご心配なのだ。」
ガブリエルは執事を見た。
「僕はエレーナには相応しくない。僕の歩く道はきっと地獄へ続いている。そんな道に何も知らない彼女を導くわけにはいかないんだ。あなたとなら地獄に落ちようと怖くない。伯爵として生きろと言うならそれでもいい。ずっとあなたが一緒にいてくれるなら。」
彼の強い視線に執事は深く溜息を吐き、ガブリエルを見た。
「もしかして、カイル坊ちゃんを私が殺したと思っているのか?」
「……違うの?」
執事は彼の目を切なげに見た。
「私がそんな事をすると思うか? 出来る訳がない。何を心配しているんだ。お前は本来自分がいるべき世界に戻って来たんだ。堂々と胸を張って生きろ。それが自ら死を選んだ坊ちゃんへの何よりの供養なんだ。」
「それが信じられないんだ。あの彼が自ら死を選ぶなんて。」
「そうだな。あんな尖った一面しかお前にはお見せにならなかったから。繊細で気弱な所もお持ちだったんだ。確かにリードを殺したのは坊ちゃんだ。」
「じゃぁ、何故。」
「お前が街へ出て行った後、お部屋に呼ばれた。四人を殺害したのはリードだ、信じてくれ、とおっしゃった。私はてっきり坊ちゃんが公爵の事で腹を立て、彼らに毒を盛って殺したのだと思っていた。その時点で間違っていたんだ。随分以前からお屋敷の資金の帳尻が合わない事が度々有った。リードがその立場を利用して事もあろうに使い込んでいたんだ。」
「うそ、リードがそんな事をするなんて。」
「信じたくはなかったさ。奴こそ獅子身中の虫だったんだ。私達が侯爵家へ出掛けてすぐに奴は薄々勘付き始めていていたロイ達を殺した。私達が戻って来るまでに使用人全員を入れ替えるつもりだったらしい。だから私に前から人数を揃えておけと言っていたんだ。使用人が大勢いた時は、気付いた使用人だけを殺し、また別の者を仲間に引き入れて何人も森に埋めさせていた。使用人がいきなりいなくなるのも、資金の帳尻が合わないのもリードの仕業だと坊ちゃんは分かっていらしたらしいが、証拠も残さない巧妙さに彼を問い詰める事も出来なかったと嘆いておられた。坊ちゃんは、御家の恥になる事だから、何とかご自分の力で解決しようとしておられたのだ。なぜ私にご相談下さらなかったのか。仕舞いには自分が若いからバカにされているのだと涙をお見せになった。滅多に弱音を吐かないあの方がどけだけ悔しい思いをされていたのかと少し同情もした。それでもリードを殺してしまったのは間違った判断だったと私は坊ちゃんを突き放してしまったんだ。警察に自ら名乗り出るべきだと言って。」
ミカエルは肩を震わせて顔を手で覆った。
ガブリエルは信じられないとばかりにミカエルを見た。
「……じゃぁ、本当に彼は……自分で……」
小さく震える様に何度も頷くミカエル。
「でもなぜ首を吊るなんて方法を? 毒物を使えば、もっと楽に……」
「見付けられなかったんだと思う。後で
ミカエルは、ゆっくりガブリエルの目を見ながら静かに続けた。
「実は坊ちゃんの遺書がもう一通有った。私宛に書かれたものだ。伯爵家存続の為に自分の犯した過ちを自らの命をもって償う。その代わり、全てに目を瞑ってくれと書かれていた。血を分けた兄弟のお前に対する自分の非道をどんなに詫びても許される事ではないが、せめてもの償いに伯爵家を存続させ、お前を次期当主に迎えるにあっては何も異論は無いと署名がしてあった。私には、最後のわがままとして、この家に留まり兄を護ってやってくれと、酷く乱れた字で書かれていた。これを読んだらすぐに灰にして忘れてくれとも。まったく、あの人はどこまで傲慢なんだ、人殺しまで無かった事にしろだなんて。」
ミカエルはそっとガブリエルを見た。彼は今語った言葉を一句一句嚙締める様に理解しようとしているのか、ずっと彼の瞳を見詰めていた。
「少し間違っていると思うだろうが、最期には貴族としての誇りをお見せになったんだ。お召になっていた服は国王の戴冠式などに着用する特別な物だ。覚悟のご最期だったんだ。坊ちゃんの死を無駄にしない為に分かってくれ、ガブリエル。」
ミカエルは静かに目を閉じた。
学長室で初めて彼に会った時には、まさかこんな時が待ち構えているとは思わなかった。胸の高鳴り。ただそれに身を委ねてみたかったのだ。
ガブリエルは堪えられず唇を震わせて涙を零した。全ての想いを込める様に彼の肩をしっかりと抱き寄せるミカエル。
「だから、お前がダメだと言っても私はずっと付いて行くよ。執事として。」
それは彼の決別の意思を現す言葉なのだとガブリエルは悟り目を閉じた。
もう自分達の歩む道は分かれてしまった。
すぐ傍にいても、決して交わる事の無い道、主人と執事なのだ。
つづく
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