猫ちゃんこんにちは

M.A.L.T.E.R

第1話

小学四年生の少女、長田歩美は下校中だった。

雨の滴る水色の傘の下、歩美は嬉しそうな表情をして歩いていた。

(今日のテスト、苦手な科目の理科だったけど、百点だったんだよね!)

歩美は三年生に上がって新たに増えた科目の「理科」でこれまで一度も百点を取った事はなかった。


道端の水たまりに足を突っ込んで水が跳ね返るのも気にならないぐらい彼女は嬉しかった。


何度目かの水たまりを超えた時、歩美の耳に「ミャ━オ」という鳴き声が聞こえてきた。

しかし、彼女の頭には響かず、歩美は歩を止めなかった。


もう一度、歩美の耳にミャ━オという鳴き声が響いた。

(うん? こんな雨なのにどこで鳴いてるのかな)

彼女はその足を止めて周りを見回し始めた。


しかし、彼女の普段の目の高さにその声の主は見当たらなかった。

歩美のくりくりとした瞳は一瞬、上を向いた後、下の方に移動していった。

すると、歩美の真下に声の主を認めた。


「……捨て猫?」

彼女の首が傾げられる。

そう思ったのも当然だろう。五月雨に打たれてその三毛色の毛をぐっしょり濡らしている猫の下に、「拾ってください」と身勝手に書かれている段ボールがしかれていたのだから。

その猫は、歩美の方を向いて必死に鳴いていた。

けれど、歩美はその叫びを無視しなくてはならなかった。

「ごめんね、猫ちゃん。私の家じゃ猫飼えないの……」

歩美はお詫びとばかりにその猫の頭を撫でた。

それがいけなかったのかもしれない。

先ほどよりもゆっくり歩き始めた歩美についてきてしまったからだ。

「ダメだって言ってるでしょ、私の……私じゃあなたは飼えないのっ!」

すり寄ろうとする猫から逃げるように、歩美は走り出した。


息を切らして家から最も近い交差点までやって来ていた。

(こ、ここまでくれば大丈夫……)

膝に手をつく歩美だが、その足元に濡れた毛が触れる。

「!!!」

手の先には、寂しそうな目をした三毛猫の姿が。

だが、歩美はその目を直視できなかった。

「ごめんね……」

それ以上の言葉を告げるのが、辛くて、たったそれだけ言って、青になった信号を渡ろうとした。

しかし、その足の裏は横断歩道の白線につくことはなかった。

「………………」

気づけば歩美は水色の傘を閉じていた。

彼女は背中を雨に打たれながら、猫を抱き抱えていた。

その口はきゅっと閉まり、目の焦点はただ一つの事を見据えていた。


今なら働いている親は帰ってきてない。

歩美は濡れた体を一緒に拭き、猫を自分の部屋に入れた。

しかし猫を抱え上げたのはいいが、歩美は猫の飼い方など一ミリも分からない。

「どうしよう……」

図書館に行けば、飼い方は分かるだろうが、どうやっても

「お金がない……」

歩美にはおこづかいというものは一銭もない。これでは餌も買えない。

猫を撫でたまま、歩美は考え込んでしまった。

「それにしても猫ちゃん、全然嫌がらないな~。人懐こいのかな?」

撫でられるままになっている猫を見て、彼女はそんな感想を抱いた。


結局、歩美は決断を下せないまま夕飯の時間になってしまった。

「そこで待っててね、猫ちゃん……絶対だよ?」

この日の夕飯は歩美の好きなカレーライスだったが、ほとんど味を感じず、テストで百点を取ったことも上の空だった。

皿の中の八割がお腹に収まった頃、事故が起きた。


ミャーオ


「!!!!!!」

歩美の顔が、ダイニングの開けられたドアの下に向けられる。

「あ……あ……」

恐怖に染まる。

後ろの気配が立ち上がる。

そちらに振り返る。

「ご、ごめんなさ……」

歩美のお母さんは何も言わない。いつも怒るときは何か言うのだが。

後ろを見て後ずさろうとする、その視界には

「猫ちゃん……」

歩美の瞳に三時間前の光が戻ってくる。

「お母さん! 私、ちゃんと最後まで飼うから! だから…………飼ってもいいですかっ!!!」

後半の方はただ勢いで叫んでいるだけだった。

すると、無表情だったお母さんは破顔一笑、

「あっはははは! 歩美、面白すぎ! お金もないのにどうやって飼うのよ!?」

「…………」

「いいわ。でもね歩美。どんな事があっても絶対に捨てちゃダメよ?」

ひとしきり笑ったお母さんは歩美の瞳の奥を見つめてそう訊いた。

「……うん……」

歩美はうなずいた。

お父さんと猫はその様子を静かに見守っていた。


早速動物病院に行き、至って元気なのが分かったので、ワクチン接種や去勢手術まで滞りなく進んだ。

これで、穏やかに過ごせるかと思われた━━


────────────────────


手術をする獣医さんの麻酔を見た瞬間に、手に汗を握り、一瞬震えた。脳裏にはかすかに残る残虐な……


────────────────────


「これで、ミケに会えるね!」

一式のペット用品を設置し終えた歩美は、入院中に名付けた猫の名前を口にした。


動物病院で歩美はミケと目を合わせる。

「?」

一抹の違和感を覚えたが、彼女は特に気にしなかった。

「はい、ここがお家だよ~」

持ち運び用ケージの扉を開けてそう言った。

だが、違和感は……本物だった。

出てきたミケを撫でようとすると、

ミケは思いっきり伸びてきた少女の手を、噛んだ。

「ッツ! 痛い! 痛いッッッ!」

突き刺さった跡を、歩美は手で抑えるが、指の隙間から血が漏れてくる。

しばらくして、数滴の血痕を残して、血は止まった。

「うう…………何かダメだったかな……? 昨日は撫でさせてくれたのに……」

歩美はミケの方を見やるとその目は恨みの色に染まっていた。


それ以来、餌や水をあげたり、トイレのしつけとかもしたが、決して歩美に触れさせようとはしなかった。

けれど、歩美は諦めず段々震えていく手を近づけて、撫でようとしたが、噛まれ、引っ掛かれ、傷痕が増えていった。


段々、友達の心配する目が強くなってきたある日、歩美は長袖長ズボンしか着なくなった。歩美には全然似合ってないし、暑くてかく汗が傷口に染みて疼くような痛みを感じていたが仕方がなかった。


お風呂がいやになってきたある日、歩美はめげずに震える手をミケに差し出した。

「ほーらミケ、怖くない怖くない……」

それはまるで自分に言い聞かせているようだった。

そして、噛まれた。

いつもとは違って、深く深く、絶交の印を刻むように。

「痛ッッッい! あああああああああああああ!」

歩美の手首からいつもの赤黒い血ではなく、真っ赤な血が噴き出す。

その痛みに歩美の脳は耐えられなかった。彼女は、自らの血の池の中に体を沈めた。

助けを呼ぶことも出来ず、血に染まる少女の体。

血は止まる気配はない。


「うっ……あれ?」

歩美は気がついたら一人病院にいた。時計を見ると、

「一日過ぎてる……。なんで? 私、どうしたんだっけ」

その言葉に、傍らで寝ていたお母さんが起き上がる。

「あ、歩美? 良かった。良かったぁ~~」

水色の服を着た歩美を思いっきり抱き締めた。

「苦しいってば。お母さん。私、どうして病院にいるの?」

そう聞くと、お母さんは驚いたような反応をしたが、すぐに一部始終を話した。

「そっか……ミケは私を殺そうとしたんだ……」

絶交の証は分厚い包帯で隠されているが、お母さん曰くその裏にあるらしい。


「もう無理かな……。ごめんねミケ」

歩美は固められた包帯を見つめて呟いた。


その後、リハビリなどをして二週間後に退院した。

「ただいま~」

扉を開けると、そこには唸り声をあげているミケの姿が。それを確認すると、あらかじめ決めてあった通り、玄関の扉を開け放った。


すると、ミケは三秒ほどですっと立ち上がり、玄関の戸をくぐって旅立っていった。


(これで、いいの。これで……)

歩美は後の祭りなのに何故か自問自答した。

しかし、その暗示に反対するものがいた。

ミケを拾った日の歩美だった。

それはただ後ろからにらんでいるだけ。

けれど、それは今の歩美を突き動かすのには十分だった。


「はあっ、はあっ、はあっ、」

歩美はとにかく走った。

そして、やって来たのは初めて出会ったあの交差点だった。10m先に見えるのはミケ。あの青い首輪をつけているのはきっとそうだ。

「ミケっ、ミケ!」

歩美は必死に呼び掛けるが、振り向くどころか向こうに歩いていってしまう。

「あれは、赤信号!? トラックの音!?」

歩美の感覚は察知した。

すると、歩美の足は学校の50m走のタイムをはるかに超えるスピードで赤信号の横断歩道に突っ込む。

ミケを弾き飛ばして、歩美の小さな体は宙を舞った。


もはや、歩美には痛覚はなかった。血も大事なようで大事じゃない、そんな気がする。

体は動かない。

歩美の顔の目の前に、ミケの顔が置かれる。

「……ミケ。ミケは、大丈夫……?」

すると、ミケは歩美に近づいてきて傷口をなめ始めた。

「ミケ……あり、が……と……」

歩美は微笑んだまま気が遠くなるのを感じた。


結果として、歩美は死ななかった。全治3ヶ月という大ケガだったが、後遺症もなく生還した。

「ただいま」

歩美が家に帰ると、ミケは玄関先で待っていた。身構える歩美だが、近づくと、歩美の足に体を擦り付けた。

震える手を近づけると、自ら頭を差し出し、喉をゴロゴロと鳴らした。


以来、ミケは歩美の勉強監視係や朝に叩き起こし係になり、歩美がソファに座った時には、常に膝の上にいるような気がした。ミケは外が好きらしく、たまに外に出るようになった。


そんなある日、歩美は風邪っぽかったがあの交差点を通って学校に行こうとしていた。

しかし、ボーッとする頭には赤信号が青信号に見えたらしい。気がつくと、トラックの前に躍り出ていた。

「あっ……」

足がすくんで動けない。トラックは近づいてくる。

すると、物陰にいたミケはチーターのように駆けて、

歩美の背中を押した━━


二度目の血の跡が、交差点に刻まれる。

歩美よりも小さいミケには、その衝撃は致死量を超えてしまったらしい。即死だった。


━━噛みついたりしてごめんな。でもさ、お前といた二年間、めっちゃ楽しかったぜ。ありがとな!━━

そんなメッセージが聞こえた気がした。

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猫ちゃんこんにちは M.A.L.T.E.R @20020920

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