5話 ああもう、これは今ごろ行っても手遅れだなあ

 同時刻。

 菊村ムツキ(6)は翠玉色の髪と、虎目石の瞳を持った漢で、農民だった。

 昨日の夜張り切って作りすぎた自分のクッキーを布袋に、別の人間から渡すよう依頼されたクッキーを犯罪現場の証拠物件を入れておくような袋に入れて持ち、図書室に行こうと思って特別棟の階段を登りはじめたムツキは、その下の生徒会室で物音がするのを聞いて立ち止まった。

 こんな早朝から、そんな場所にいるのは生徒会長の香山イツカ(5)か脱走した連続殺人犯だろうが、後者の可能性はあまり高くないと、さすがにムツキも思った。

 そもそも、どうやったらおいしいクッキーが作れるか、についてのノウハウ、自撮り動画つきマニュアルはイツカからムツキが夏休みの間に受け取り、それに若干の工夫を加えたものがムツキの今日のクッキーなので、そういうものを図書委員長の鮎川ミレイ(0)に先にあげる権利はイツカにあるはずだった。

「まいったな」と、ムツキは生徒会室と下の階との途中の踊り場で、頭をかきながら、大変いらいらして待った。携帯端末でネコ動画を見ていて、なんかもうイツカのことなんかどうでもよくなったころに、階段をやや早足でのぼる音がムツキに聞こえ、そんなに走って大丈夫なのか、と思ってるところを案の定、派手に転んだ音と、図書室のある階の警報装置の音が聞こえた。

 助けに行こうと一旦は思ったムツキだが、考えてみたら俺がそんなところに、だだだ大丈夫か、って走っていったら、待ち伏せしてたというか、待ち構えていたというか、待ってたとしか思われかねない。いや絶対に思われる。

 しばらく様子をうかがっていると、ミレイらしい男子の声と、イツカ以外には考えられない女子の声がして、図書室の方向に戻っていったので、ムツキはあわてず、携帯端末をバッグにしまい、背中に背負ってゆっくりと階段をのぼりはじめた。

 ああもう、これは今ごろ行っても手遅れだなあ、と、ムツキはかなりがっかりした。

 いつ行けばよかったのかというと、階段で転ぶ前に行けばよかった。

 そして、慎重にしたにもかかわらず、ムツキもまた階段の最後の段ですっ転んだ。

     *

 ミレイは、負傷したイツカの肩を支えて、心の中で衛生兵、衛生兵はいないか、と叫びながら、とりあえず図書室で手当てをすることにした。

「ああもう、大丈夫だからそんなに泣かないで。救急箱に包帯とかあるから」

「いや高校生が転んだぐらいで泣きませんよ。目と鼻のメイクと、服の汚れ具合が気になって」と、イツカは答えて、満礬柘榴石色のポーチから手鏡を取り出して確認した。

 図書室では小さな怪我がしょっちゅうある。紙で手を切ったり、ワゴンに足をぶつけたり、読んでる本が面白くて利用者が笑いすぎて心臓発作を起こしたり、利用者が本の取り合いで喧嘩になったり、親の仇に出くわしたり、暴れ牛がなだれ込んだり、テロリストが占拠したりとか。そういうときに備えて、いちいち棟が違うところにある保健室と行き来をするのが面倒なので、簡単な救急箱とAEDと短機関銃が置かれている。あと「非常の際にはこのガラスケースを斧で割って取り出すこと」という張り紙が貼られている、ガラスケースに入れられた斧ね(それを取り出す斧はない)。

「そんなことより。ミレイに必要なものを持ってきました! それは…それは…それは…なんとそれは!」

「もったいぶらなくてもいいよ。クッキーだね。どうもありがとう」と、ミレイは言ってキラリと光る歯を見せて笑った。

 そのとき、イツカが転んだときの音の3倍ぐらいの大きさの音が階段でしたので、ミレイはあわてて立ち上がってイツカの前から走り去った。

 イツカは口を尖らせながら、自分で手と足の擦り傷のところにバンドエイドを貼って、服のほこりをはたいた。

 しかしなんでこう、学校の廊下っていくら掃除してもすぐほこりだらけになっちゃうんでしょうね。

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