ヒガン探偵エル 『ウマのクビ事件』

三角ともえ

『ウマのクビ事件』

 オレの名前はエル・B・ティー。探偵だ。

 その日もオレは、焼き立てのパンの香ばしい匂いと共に目覚めた。寝床でもあり職場でもあるオレの探偵事務所は、ベーカリー街のど真ん中にある。

 言い間違えではない。パン屋さんが軒を連ねる商店街……通称『ベーカリー街』こそが、オレの住む街だ。

 この事務所のある建物の右隣も左隣も、もれなく全てがベーカリーだ。今日は日曜日だから、朝から営業している店の数は少ないが、それでも食欲をそそる、焼き立てのあの香りがあちこちから漂ってくる。

 オレは寝ぼけまなこをこすりながら、冷蔵庫からミルクを取り出すと、窓際で丸くなっている黒猫ビリーのため皿に注ぐ。ビリーはすぐにすりよってきて、ぴちゃぴちゃと音を立てた。

 そのまま顔を洗ったオレは、電気ポットのスイッチを入れて、クローゼットへ向かう。

 この仕事には、カレンダーはあまり関係がない。今日も昼から仕事だ。

 仕事のある日はスーツを着ると決めていた。グリーンのワイシャツに、ブラックのジャケット。着替え終わる頃には、お湯が沸いていた。インスタントコーヒーの素をカップにぶち込むと、ポットからお湯を注ぐ。

 実を言うと生粋の英国人であるオレは紅茶派なのだが……現代の探偵と言えば、コーヒーを飲むものと決まっているらしい。英国人である前に、オレは探偵なのだ。

 どす黒いコーヒーをすすりながら、ソファに腰かけ、テレビとHDDレコーダーの電源を入れる。

 コーヒーをちびちび舐めながら、これだけは奮発した高性能のワイヤレスヘッドフォンを被ると、オレの愛する音楽が流れてくる。



 そのままお気に入りのナンバーを五回ほどリピート再生し、六回目の視聴中のこと。

「……おい、エル! さっきから呼んでるだろうが!」

「ぶぴゃ」

 背後から突然ヘッドフォンを外され、危うくコーヒーを噴き出しそうになったオレは何とか堪える。

 温くなっていて助かった……いや探偵としては噴き出すべき場面だったのかもしれない。

「ったく。ヘッドフォンする時は音量下げろっつってるだろ。まだ若えのに耳悪くしても知らねえぞ」

 振り向くとソファの後ろには、筋骨隆々でタンクトップの上にエプロンを着けた髭面のオッサンが立っていた。

 言い忘れていたが、二階に事務所が入っているこの建物も、一階はパン屋になっている。店の名前は『赤毛ベーカリー』という。

 オレにとっては大家でもある『赤毛ベーカリー』の店長……ジェームズは、若い頃さぞ鮮やかな赤毛のいい男だったのだろう。だが六十を超えてから、さすがに赤毛に白髪が混じり始めていた。

 ジェームズは今でも赤毛に尋常ならざる愛着を抱いており、オレの髪の毛が燃えるような赤毛だったために、ここに事務所を構えることが許されたというのは嘘のような本当の話。

「大体何を見てたんだ? これ漫画か?」

「ジャパンのアニメーションですよ。ラブ・アンド・ブレイブがフレンズのヒーローを描いたアニメーションのオープニングソングです」

「ヒーロー? この丸顔が?」

「ジャパンのナンバーワンヒーローです。顔が丸いのは、パンで出来ているからですよ」

「……成程。そいつぁ確かにナンバーワンに違いねえ」

 ジェームズが唸る。

「ところでジェームズさん。何の御用ですか?」

「用があるのは俺じゃねえ」

 親指で背後を示すジェームズ。開きっぱなしの戸口に立った二人の少女が、オレに、疑惑の眼差しを向けていた。



「ねえ、本当にこの人がその『名探偵』なの?」

「うん……」

「日曜の朝からアニメを見ているような大人が?」

 君達。内緒話は相手に聞こえないところでしたまえよ。

 大体日曜の朝からアニメを見て何が悪いのだ。ジャパンでは小さい女の子と三十代の紳士が一緒のアニメに夢中になっている時間帯らしいですよ?

 オレはコーヒーをすすりながら、接客用のソファに並ぶ二人の少女を観察する。金髪の少女は英国人のようだが、黒い長髪の少女はどうやらジャパニーズのようだ。

 金髪の少女は、髪型は二つに分けて結んだいわゆるツインテール。さっきからこちらを疑わしげに見ている。

 黒髪ロングの少女は寒くもないのに、ネックウォーマーで首元を隠しているのが特徴といえば特徴だ。

 服装は二人とも同じ、濃いオレンジ色を基調とした制服だった。

「ともかく、まずは君たちの名前を聞こうかな」

「人に……」「ちなみに、オレの名前はエル・B・ティー。探偵だ」

「……っ!」

 『人に名前を尋ねる前にまずは自分から名乗りなさいよ』という定番の台詞が言い終わる前に、被せ気味で自己紹介を済ますオレ。金髪眼鏡は頬を紅潮させて黙った。

 代わりに、黒髪ロングが口を開く・

「エル・B・ティー……なんだかサンドイッチみたいなお名前ですね」

 ぐさり。思いがけないカウンター攻撃で、コーヒーカップを取り落としそうになる。悪気はまったくないらしい……人のコンプレックスを笑顔で踏みつけるなんて、中々やるじゃあないか。

 オレはにこやかな笑みを浮かべて、穏やかに諭す。

「いいかい、お嬢ちゃん? オレの名前はベーコン・レタス・トマトじゃあない……エル・B・ティーだ。ファーストネームがエルだ。ジャパンで有名な探偵と同じなんだぜ。二度と間違えないでくれ」

 どうやらオレの笑顔は引きつっていたらしく、黒髪の少女は怯えた表情で目を伏せた。

「す、すみません。分かりました。エルさんですね。もう間違えません」

「……まあ、いい。改めて、お嬢さん方のお名前は?」

「エミリー・マイクロフトだけど」

「……小林愛梨(こばやし・あいり)です」

 マイクロフト! それにアイリと来たか!

「素晴らしい。実にいい名前だ」

「よく言われるわ。この国ではね」

「そ、そうなの?」

 オレとマイクロフト……もとい、エミリーのやり取りに、アイリはきょとんとした表情を浮かべる。確かに、この名前で盛り上がれる感覚は、英国人特有のものかもしれない。

「ま、名前の話はともかく、だ……悪いが、君たちの依頼は引き受けられないな」

「え……」

「……まだ私たち、一言も話してないんだけど?」

 顔を曇らせるアイリとは対照的に、エミリーは鋭い視線でオレを睨む。

「どんな依頼であれ、どうせ引き受けられないのなら、君たちは話をしないほうがいいし、オレも聞かないほうがいい」

 ……断っておくが、これは職務放棄ではない。この探偵事務所の方針として、いわゆる『普通の依頼』は引き受けないことにしている。

「君たちの依頼内容が、ペット探しでも、浮気調査でも、殺人事件の捜査だとしても引き受けられない。申し訳ないけどね」

「だから、どうしてよ? お金を持ってなさそうだから?」

「金の問題じゃあない。理由は……そうだな。一言で言えば、オレが英国人だから、かな」

「何よそれ!」

 至って真面目に答えたのだが、エミリーの逆鱗に触れてしまったようだった。

「子供だと思って馬鹿にしないでよね!」

「馬鹿にしたつもりはないんだが……頼む。大声はやめてくれないか。下に響くんだ」

 またジェームズが乗りこんでくるだろう。何のために高い金を払って、いいヘッドフォンを買ったと思ってるんだ。

「エミリー、落ち着いて……」

「だって、こいつが!」

 興奮したエミリーは、なだめようとした友人にまで吠えた。

「きゃっ……!」

 怯んで上半身をよろめかせたアイリは、右手でソファの肘掛を掴んで体を支える。同時に左手でネックウォーマーの上から、慌てて首を押さえた。

 そんなアイリの様子に、顔面蒼白と言っていいほど、エミリーの顔から血の気が引いた。

「ご、ごめん、アイリ! 大丈夫?」

「う、うん……大丈夫だよ。大丈夫だから」

「本当、ごめん……ごめんね……」

 お互いに「ごめん」と「大丈夫」を繰り返す二人の少女。

 するといつの間に部屋の隅から動いたのか、黒猫ビリーがアイリの足元まで移動してきており、少女のすねに体をこすりつけていた。

 アイリは足元の黒猫に視線を落とし、小さく微笑む。

「うん。大丈夫だよ。ありがとう。ビックリさせちゃって、ごめんね」

 ……ああ、もう。そう言うことかよ。

 まったく。

「……依頼を受けるかどうかは約束できない。問題を解決できるという保証も出来ない。それでも良ければ、そして『先約の後で良ければ』、君らの話を聞かせてもらおう」

「え……」「は?」

 突然のオレの言葉に、二人の少女は目を丸くしてこちらに向き直った。

「ワケワカンナイ。どうして急に気が変わったの?」

「オレの気も、この事務所の方針も変わっちゃいない。変わったのは、事情だよ」

 オレは立ち上がると、戸口へ向かいながら二人を振り返った。

「さて、行こうか」

「話を聞いてくれるんじゃあなかったの?」

「言っただろ。今日は先約があるんだ。それに、君らにもついてきてもらう。これは勘だが、それが多分、お互いに一番手っ取り早い」

「ワケワカンナイ」

「その制服、二人ともFOS……ファイブ・オレンジ・シード学園の生徒だろ? 依頼者との待ち合わせも、そこなんだよ。」

 二人はしばらく顔を見合わせていたが、やがてゆっくりとエミリーが首を縦に振った。

「……分かった。ついていけばいいんでしょ」

「わ、私も、行きます」


 

 一階に降りたオレ達は、そのまま『赤毛ベーカリー』の裏に回り、店のガレージへと入っていった。オレはパン屋の配達用のワゴンの陰に隠れている恥ずかしがり屋の愛車を、二人の前に引っ張りだした。

「うわ。真っ黒いバイク。サイドカー付いてるんだ……あれ? なんか車輪多くない?」

 エミリーの指摘通り、サイドカーには珍しく車輪が二つ付いている。バイクの二輪と合わせて四輪サイドカーだ。

「四輪サイドカーなんて、ゴツくて不格好かもしれないけど……」

「そんなことないです。カッコイイですよ」

「そ、そうか? ちなみに『バスカビーグル』って名前なんだぜ」

「ふーん。名前は微妙」

 ……言うんじゃなかった。

「ともかく君らはサイドカーに乗ってくれ。少々狭いが、女の子二人くらいならくっつけば乗れると思うから……あ、悪い。ちょっと待った」

 忘れるところだった。オレはサイドカーの座席から、置きっぱなしにしていた黒い帽子とサングラスを回収する。そのまま取った帽子をかぶり、サングラスをかける。

「お待たせ。乗っていいよ」

「……」「……」

 少し顔を見合わせていた二人だったが、エミリーが先にサイドカーに乗り込んだ。そのままぐっと体を背もたれへと押し付けて、自分の前にスペースを作る。

「ほら、アイリも」

「う、うん」

 ちょっと戸惑う様子を見せながらも、僅かな空間にぐっと体を押し込むアイリ。

……オレはそんな二人の様子を見届けてから、サイドカーのバイクにまたがった。

「じゃあ向かうとするか。FOS学園に」



 今日も街には薄く霧が立ち込めていた。

 この辺じゃあ珍しくもない天気だし、この程度なら十分先を見通せるのだが、事故でも起こしたら笑い話にもならない。オレは安全運転でバイクを走らせた。

 ほどなく薄い霧の向こうに、丸みを帯びたデザインの時計がついた塔が見える。あれはFOS学園の『小時計(リトルクロック)』だ。

 手近なパーキングにバイクを停車させる。サイドカーの悲しい宿命として、普通の車を停めるスペースを使わなければならないが、仕方ない。

 続けて降りようとした二人に、オレはストップをかけた。

「おっと。二人はそのままだ」

「え……?」

「今から先に持ち込まれた依頼の内容を聞いてくる。君らはここで待っていてもいいし、待っていなくてもいい」

「どういうことよ! 今更投げ出そうって言うの!」

 吠えてくるエミリーに、オレは肩をすくめた。

「オレに投げ出す意思はないが、結果的にそうなるかもしれないってことさ。今から聞いてくる依頼が、君らの探しているのと同じ猫を見つけてくれ、って内容だった場合はね」

 遠回しなオレの言葉に、エミリーは益々眉を吊り上げる。

「はあ? 私ら、猫なんて探してないし!」

「……今のは比喩表現のつもりだったんだが……とにかく行ってくる!」

 思いっきり滑ったオレは、照れ隠しに帽子を深く被り直し、霧の中をFOS学園へと駆けて行った。



 FOS学園の『小時計』は、この辺じゃあ一番大きい時計塔だ。けれど、この国には世界的に有名な時計塔がある。ビッグになり損ねたFOS学園の時計塔は、親しみを込めて『小時計』の愛称で呼ばれている。

 ともあれ、そんな『小時計』の中でちょっとした野暮用を済ませたオレは、改めて本日の依頼者との待ち合わせ場所、中庭へと足を運んだ。

 休日ということもあるのだろうが、生徒はおろか人っ子一人見当たらず、中庭の中央には鈍色の鎧を着た騎士の銅像が佇んでいた。どうやら人目を気にせずに済みそうだ。

「よう、来てやったぞ。ブロンズ・ナイト」

 無人の中庭で、オレは『待ち合わせ相手』に向かって、軽く手を上げて挨拶した。

 すると……

「えぇい、『ナイト』ではござらん!」

 オレの言葉に、『騎士の銅像』が腹立たしげに言い返しながら、台座の上から睨み付けてきた。

「某はナイトではなくガーディアンであると何度も言っているでござろうに」

「いいじゃねえか、似たようなもんなんだから……」

 細かいことを言うブロンズに、オレは肩をすくめた。

「しかし珍しいな。お前さんがオレを呼びつけるなんてよ」

「某も苦渋の決断でござった。『こちら側』だけのことならば人間であるお主には頼ったりはせぬが……何しろお主は、『こちら』と『そちら』、双方の立場を理解している、唯一無二の『探偵』でござるからな」

 そう。オレの『依頼者』は基本的には人間ではない。

 妖精とか幽霊とか……それから動く銅像とか、そういう『あちら側』の存在だ。

 彼らは基本的には人目に触れずに暮らしているのだが、同じ世界にいる以上、ごくまれに『こちら側』と関わってしまうことがある。

 それで人に害を与える場合には、ジャパンのアニメーションなどでおなじみのエクソシストだのゴーストバスターだのの出番になるわけだが……問題は、逆のパターン。

 人が、彼らに、何らかの不利益を被せている場合だ。

 彼らだけで穏便に解決できるのならば、それに越したことはないのだが……それほど器用な真似が出来る奴は限られている。まともに人語を操れる連中も少ない。

耐えかねて人間を排除しようとしたりしようもんなら……『悪霊』として退治される。

 それはあまりにも『不公平』だ。彼らには彼らの言い分がある。それをちゃんと聞いて、人間のほうに原因があれば、譲歩しなければならない。

 『英国人』として、その『不公平』を見過ごせなかった。

 『探偵』としてでもなく、『人間』としてでもなく、この国に生まれた者として、見過ごせなかった。

 だからパン屋がパンを作るように、ごく自然の成り行きで、こうして『あちら側』の依頼専門の探偵なんていう仕事をやっている。

 ……そういえば、この銅像も『こちら』と『あちら』の双方に関わる役割についているはずだ。

「……アンタの仕事は『FOS学園の生徒たちを怪物から護ること』だったよな?」

確認すると、ブロンズはガシャンと甲冑の胸を張った。

「左様。つい先日も学園に彷徨い出でた鎧の化生を成敗したでござる」

「……自分だって鎧を着た化け物じゃねえか……」

「何か言ったでござるか?」

「なんでもない。んで、そんなアンタがオレを呼んだとなると……」

 首をひねって少し考える振りをしたオレは、まるで今閃いたように指をパチンと鳴らした。

「怪物が『学園の生徒』である場合どうするべきか、が分からなくて、オレを呼んだ。そうだろ?」

 そう言うと、ブロンズは鎧をガチャつかせて大袈裟にたじろいだ。

「お主、本当に名探偵だったのでござるか!」

「初歩的なことだぜブロンズ君」

 英国人の探偵として一度は言ってみたかった台詞が言えて、オレも少し得意げである。

「となるともはや某からの説明は必要ないでござるか……」

「いやいや待て待て」

 それは困る。何せ、ほとんどあてずっぽうみたいなものだ。

「当事者の口からも詳しいことを聞きたいんだ。具体的なことを教えてくれないか?」

「そういうものでござるか? まあ、構わぬ。実は……」

 数日前の夜、ブロンズが日課としているFOS学園の見回りをしていた時のことだった。ブロンズは普段の学園では『見慣れない怪現象』を目にした。

 それは……『宙を飛び回る女の首』だった。

 生徒を狙った怪異ではないかと警戒したブロンズは、目的を見極めようと後をつけた。だが結局その夜は最後まで何をするでもなく飛び回り、『首』は校舎の外へ出て行ってしまう。

 次の日、普段の通り、中庭に立っていたブロンズは、漠然と前日の夜に見た首のことを考えていたのだが……ある生徒の一人が中庭を横切った時、驚きのあまり危うく声をあげてしまいそうになったという。

 何故ならその生徒は……『浮かぶ首』と全く同じ顔をしていたからだった。

「その日の夜も、やはり『首』は現れた。あれは見間違えではなく、昼に見た生徒と同じ顔でござった。そうして何をするわけでなく校舎内を彷徨い、朝になると帰っていくでござるよ。今のところ害はないが、某もどうすればいいか分からずにお主に連絡したというわけでござるよ」

「なるほどな。そりゃあ、やっぱり……」

 ……とオレが考えを口にしようとした、その時だった。


「きゃあああああああ!!」


 霧を突きぬけるように響いてきた少女の悲鳴に、オレの思考は奪われた。

「今の悲鳴は……む? 探偵! どこへ行くでござる!」

 こちらの事情を知らないブロンズに背を向けて、オレは即座に中庭から飛び出していた。

 そのまま最短ルートで学園の敷地を横切り、すぐに校門を抜けた。

 先ほどサイドカーを停めたパーキングへと振り向いたオレの目に飛び込んできたのは……予想を超える光景だった。

 路上にへたり込んだ金髪の少女……エミリー。

 学園の塀を背に、これ以上後ずさることも出来ない黒髪の少女……アイリ。

 そのアイリを怯えさせている相手、彼女の前に立ち塞がっているのは……

 黒く大きな身体に四本のたくましい脚を持ち。

 けれども首から先には何もない。

 巨大な、首なしの、馬だった。

「……! ……!」

 鳴けるわけもないのだが、まるで嘶きが聞こえるかのように、激しく体を震わせながらアイリに向かい、前足を振り上げる首なし馬。

「きゃっ!」

 その姿に、怯え、よろめき、アイリは倒れ込み……まるで一輪の薔薇の花のように。

 彼女の首から先が、ポロリと落ちた。



 次の瞬間、一番早く動いたのはオレではなく、首なし馬だった。

 コロンと転がったアイリの首……には目もくれずに首を失った彼女の身体に向かって、自分の首……正確には、首の断面を突きだした。

 そしてアイリの制服の襟を、自分のタテガミに引っかけるという器用な真似をしたかと思うと、そのまま勢いよく彼女の身体を空中に放り投げる。

「なっ……!」

 一瞬肝を冷やしたが、首なし馬は投げた首なし少女の体を、自分の背中で見事にキャッチする。なんつうアクロバットだ。

 しかし首なし馬に、首のない人間が乗って、これじゃあまるで……

「あ、アイリ!? アイリ!?」

 エミリーの声で、オレは我に返る。

 いまだ立ち上がれぬ彼女の視線の先にあったのは、首なし馬の馬上に乗せられたアイリの身体ではなく……

 まるで置き忘れられたボールみたいに転がっている、アイリの首のほうだった。

 そのすぐ近くで、背中に乗せたアイリの身体を安定させようとしているのか、首なし馬が巨体を動かし続けている。

「げ」

 呆けていたオレは、慌てて首なし馬のほうへ駆け出した。

 首なし馬は、戦利品であるアイリの身体に夢中で、彼女の首のことはまるで眼中にない! 目は元々ないけどな!

 あんな馬の脚に踏まれたら、人間の頭なんて、簡単に弾け飛んでしまう!

 だが学園の校門から、首なし馬の立つパーキング前まで距離がある。五十メートルもないはずなのだが、生身の人間が一瞬でその距離を駆け抜けることは出来るはずもない。

 馬の動きと比べ、オレの身体はもどかしくなるほどゆっくり薄い霧の中をかき分け……

 アイリの頭がぺしゃりと踏み潰される……より早く!

「ンニャアー!」

 学園の塀の上から、一匹の黒猫が首なし馬に目がけて跳びかかった!

 これには馬も驚いたのか、たじろぐように一歩下がった。

「……ビリー!?」

 その勇敢な猫こそ、探偵事務所で留守番をしていたはずの黒猫ビリーだった。

 首なし馬に爪の一撃を与えたビリーは、くるりと一回転して地面に着地。

 ビリーのおかげでアイリの首はクラッシュから逃れ、紙一重で間に合ったオレはそのままスライディングして首を抱え込む!

「ふぅ」

「んにゃ!」

 気を抜きかけたオレに向かい、ビリーが鋭く鳴いた。

 顔を上げると、ビリーの不意打ちから早くも立ち直った首なし馬が、こちらに向かって再び大きく前足を振り上げていた。

「げ……」

 後先考えずに『首』を抱きかかえて転がったせいで、これはどうやっても回避しようがない!

「くっ……!」

 ガキィン!

 響いたのは激しい金属音だった。痛みも衝撃も、襲ってこない。

「無事でござるかな?」

 見上げると青銅の騎士が盾を構え、首なし馬の前脚をしっかりと受け止めていた。

「やるじゃねえかブロンズ・ナイト!」

「ガーディアンでござる!」

 訂正しながらブロンズが盾を跳ね上げると、押し戻された首なし馬が大きく後退する。

「おのれ馬の化け物め! よくも某の学園の生徒に手を出したな!」

 オレ達を守るように立ち塞がるブロンズに、首なし馬は形勢不利と感じたのか、そのままくるりと踵を返し、パカラ、パカラと霧の向こうへ走り去って行く。

 ふう、これで一安心……じゃあ、ない!

アイリの身体が持ってかれちまった!

 やべえ。すぐに追いかけねえと。にしても、あの馬。何でアイリの身体を……

「きゃつめ。某に恐れをなして逃げおったでござるか」

 勝ち誇るブロンズの声を聞いて、オレは先ほど、あの馬の姿を見たときによぎった『ある怪物』の名前を思い出した。

「ブロンズ!」

「いやいや礼など結構。守護騎士として当然のことをしたまで……」

「聞きたいことがある! しばらく前に鎧の化け物を倒したっつってたな!?」

「い、如何にも」

「もしかしてその鎧の騎士には、首がなかったんじゃないのか!?」

「確かに、相手は首のない鎧の騎士だったでござるが」

 ああ、もう! 首がない、鎧の騎士だと? だったら、それは……

「デュラハンだ!」

「でゅらはん?」

 死霊騎士デュラハン。今やジャパンのアニメでもお馴染みの怪物だ。

 首を抱えていたりいなかったりとバリエーションがあるが、ほとんどのデュラハンには共通する特徴がある。

「アンタが倒したのがデュラハンなら、当然『コシュタ・バワー』……首なし馬を連れていたはずなんだ! あの馬がそうだよ! きっといなくなった主人を探しに来たんだ!」

「な、なんと!? しかし、首なし騎士は間違いなく某が倒して……」

「だからだよ! だからデュラハンの代わりに、この子の身体を持って行ったんだ! 自分の新しい主人としてな!」

「な、なんと……」

 ガッシャンと膝をつくブロンズだが、励ましている時間はない。早いとこあの馬を追いかけないと……その時ようやく立ち上がれたのか、へたり込んでいたエミリーがよろよろとオレ達のほうへ向かって歩いてきた。

「あ、すまん、エミリー。忘れてた」

「あ、アイリ……」

 しかしオレの謝罪など耳に入らないかのように、エミリーの視線はオレの腕の中に注がれていた。

「アイリ!」

「大丈夫だ。ちゃんと無事だよ」

 オレの言葉に、今度はブロンズのほうが顔を上げる。

「何を言っているでござるか探偵? 無事も何も、首を斬られてはもう……むうう!?」

 そこでようやく、きちんとアイリの『顔』を確認したのか、ブロンズは驚きの声を上げた。

「この生徒、『首』の少女ではござらんか!?」

 だろうと思ったよ。

「ああ。だから、アイリは別に首を斬られたわけじゃあない……だからわざわざオレのところに依頼に来たんだろ、エミリー?」

 エミリーは顔を真っ青にしながら、弱弱しく頷いた。

「最近アイリが夜中に、首だけが学校に行く夢を見るって相談されて、探偵のとこへ行きたいって……ベーカリー街には、そういうオカルト関係の探偵がいるって図書館で聞いたからって……変な奴だといけないから、私が付き添いで……」

 変な奴かもしれなくて悪かったな。

「まさか……まさか、こんなことになるなんて……本当にアイリは大丈夫なの?」

「とりあえず今もちゃんと生きてるってことだけは保障するよ」

 オレはしっかりと頷いた。何も根拠なく言っているわけじゃあない。

 抱えているオレにしか分からないレベルだが……どういう理屈かアイリの首は今も、しっかりと息をしているのだ。

「おい、エミリー。さっきまでの出来事、お前さんにはどう見えてた?」

「どうって……」

 少し考え、エミリーは『さっき見たこと』を話してくれた。

「アンタを待っていたら、霧の中から大きな影が現れて、アイリが悲鳴を上げて駆け出して……私も追いかけようとしたけど影に突き飛ばされて……それを見たアイリが、自分のほうに影を引きつけてくれたんだけど……アイリの首が取れて……大きな影にアイリの身体が飲まれて消えちゃって……あとはアンタが、影から首を守ってくれたように見えたけど」

 なるほど。首なし馬は『影』に見えていたのか。

 アイリの『首』は今もちゃんと見えている一方、『アイリの身体』のほうは首なし馬に連れ去られてから見えなくなった、ということは『宙に浮かぶ首なし死体が一般人に見つかって大騒ぎ』なんてことにはならなさそうだ。

 さて、あとは……馬に追いついて、アイリの身体を奪い返し、首と身体を繋げて……ああ、あと首なし馬も何とかしなきゃいけないのか……

「……まあ、何とかなるだろ」

 オレの言葉に、エミリーは潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。

「ほんとうに?」

「ああ。まずは首なし馬を捕まえよう」

「馬……?」

「そうか。分からないか。お前さんが見た大きな影のことだよ」

「捕まえるって、どこに消えたのかも分からないのに……」

「心配するな。これでも探偵だぜ? すぐに見つけてやるから、任せとけ」

 顔を曇らせるエミリーに、オレはあえて明るい口調で言った。実際、『探す方法』はある。『移動手段』もある。問題があるとすれば……

「……エミリー。アイリの首を抱えっぱなしだとさすがに動きづらい。だから、しばらく預かっててくれると……」

 言い終わるのを待たずに、エミリーはアイリの首をオレからひったくると、しっかりと抱きかかえ、まっすぐにこちらの目を見返してきた。

「追いかけるのって、あのサイドカーを使うんでしょ? なら、私達も一緒に行くわ」

「……、……、……分かった。行こう」

 しばらくの間逡巡して、結局オレは頷いた。

 止めても聞かないだろうし、何かあった時に側にいたほうが対処しやすい。『首』と一緒に付いてきてくれるなら、行き帰りの時間も節約できる。

「ただしオレの指示にはちゃんと従ってくれよ」

「分かった」

 即答するエミリー。どうやらオレよりも、向こうのほうがよほど覚悟が決まっているらしい。

「探偵よ。某はどうすればいいでござるか?」

「おっと、忘れるところだった。ブロンズ、アンタにはメッセンジャーを頼みたい」

「め、メッセンジャーとな? 某が打ち倒した『鎧の怪物』が原因ならば、責任を取り、あの首なし馬の討伐に同行すべきと思ったのでござるが」

「ああ、だからこそブロンズに頼むんだ。この役目は責任重大だぜ」

「そうでござるか……承知した。その役目、引き受けさせてもらうでござる」

 ……実はオレが電話をしてもいいんだが、何しろ今は時間が惜しい。使えるものは銅像だって使わせてもらうとしよう。

「して、どこの誰に何を伝えればいいでござるか?」

「あのな……」

 オレはブロンズの耳(があると思われるべき場所)に口を寄せると、小声で頼みごとを伝えた。何故小声かと言うと、探偵としての勘が『エミリーに聞かれるとまた揉める』と告げているからだ。

「……正気でござるか?」

「もちろん本気だ。ジャパンじゃあよく使われている方法なんだぜ?」

 半信半疑のブロンズだったが、オレがきっぱり断言すると、ようやく頷いた。

「そこまで言うなら、お主を信じさせてもらうでござる」

 これで作戦会議は終了。いよいよ実行のターンだ。

「それじゃあ全員準備はいいな! 行動開始だ!」



「ちょっと、どこ行くの! 影が逃げていったのは逆でしょ!」

 オレが『バスカビーグル』をFOS学園のほうに走らせると、アイリの首を抱えたままサイドカーに乗り込んでいるエミリーが早速文句を付けてきた。どうやら大分元気になってきたようだ。

「分かってるよ。でもまずは、相手がどこにいるのか、上から見つける」

「上から?」

 オレはバイクを操り、まっすぐFOS学園……正確には学園の時計塔である『小時計』に向かって突き進んだ。

「今からアレを登るから、『首』を落とさないようにしっかり抱えてろよ」

「正気!? バイクで塔を登れるわけないでしょ!?」

「バイクならな! だがこいつは『バスカビーグル』だぜ!」

「その名前が何だって……きゃっ!」

 潜り込んでいたビリーがオレの懐から抜け出し、ぴょんと器用にバイクからサイドカーに飛び移ると、エミリーが悲鳴を上げた。危ないからくれぐれも普通の猫は真似しちゃダメだぜ。

「な、何なの、このちっちゃい影!? さっきの大きい影の仲間!?」

「……ビリーのことも影に見えてるのか」

 アイリは最初から黒猫に見えていたようだが……ちらりと横目で見ると、ビリーは『アイリの首』に顔をこすりつけていた。

 そうか。どうして来てくれたのかと思ったが、お前もアイリを助けたいんだな。

「頼むぜ、ビリー! 『合体』だ!」

「んなぁー」

 ビリーは一声鳴いて応えると、すっと姿を消して……変化はすぐに訪れた。

 バイクの二輪とサイドカーの二輪、合計四つのタイヤがそのまま『足』へと変わっていく!

 さらに金属のボディは滑らかな毛皮となり、ヘッドライトは目に、マフラーは尻尾に変じていき……

 瞬く間に『バスカビーグル』は、猫とサイドカーが融合したとしか形容しようがない乗り物になっていた。

 完成! バスカビーグル・猫モード!

「ワケワカンナイ!? どうしてサイドカーが猫になるの!?」

「知らないのか? 猫ってのは四輪の乗り物になれるんだ! ジャパンじゃ常識だ!」

「ぜぇったい嘘よー!」

 絶叫するエミリー。それでもアイリの首だけはしっかりと抱えて離さないのだから、大したもんだぜ本当に。

「ともかくまずは『小時計』の上だ! 見晴らしがいい位置まで頼むぜ!」

『ンニャアー』

 オレの言葉に『バスカビーグル』……サイドカーに取り憑いたビリーは鳴き声で返事をすると、巨大な猫そのものの動きでダッシュをかけ、すぐに『小時計』の足元へと到達する。

「う……そぉぉぉ!」

 エミリーの悲鳴をBGMに、時計塔の外壁、レンガの僅かな凹凸に器用に爪を引っかけると、地面を走るのと大差ないスピードで一気に上へと駆け上がって行った!

「さすが『バスカビルの魔猫(まびょう)』だ! いい仕事するぜ!」

 オレたちはあっという間に『小時計』の上へ到達した。『バスカビーグル』は、塔から僅かに突き出した時計の上という細すぎる足場の上で、絶妙のバランスで停止する。さすが猫だ。

「サンキュー、ビリー。次はオレの仕事だな」

 サングラスを外して胸ポケットにしまったオレは、帽子を脱いでエミリーのツインテールにポンと被せた。

「わぷ」

「悪いが、ちょっとだけ預かってくれ」

「今度は何を……って、アンタ、髪、燃えてない!?」

 エミリーの言う通り、オレの赤毛は今、チリチリと蝋燭のように燃え上がり始めていた。

「大丈夫だ。これは『あっち側』の炎だから、火傷とかの心配はない」

 さらに燃え上がる髪の熱が、頭の中を通り、オレの眼球を熱した鉄のように赤く染めていく。

「眼も赤く……!」

「オレの眼と髪は特別製でね……普段の状態でも『あっち側』の連中を視られるが、こうしてその気になれば、たとえ連中が隠れようとしても、『照らし出す』ことが出来るんだ」

 とはいえ眼も髪も、文字通り燃えるように熱を持つから、多用は出来ないのだが……

「はあ!」

 髪から眼へと伝わる熱が最高潮に達し、オレの眼球が光源となって、あたかも灯台の明かりのように霧に包まれた街を照らしていく!

「霧が……赤く染まってる! 夕焼けみたい!」

 そして……

「見つけた!」

 赤く照らし出された霧の中、ぽつんと染みのように道をゆく黒い影が一つ……焦点を絞っているから、間違いないはず……首なし馬だ!

「これがオレの切り札(ジョーカー)! 名付けて『緋色の眼球(アイ・フォー・ザ・スカーレット)』!」

「ネーミングはともかく、凄い……! 眼からビームを出せるヒーローみたい!」

「褒め言葉として受け取っておく! ともかく奴を見つけた! 行くぞビリー!」

「……行くって、もしかして、うぇえええええ!」

 『バスカビーグル』が時計塔の外壁を勢いよく駆け下り始めると、エミリーの絶叫が再び霧の街の上空に響き渡ったのだった。



 追っ手がかからないことに首なし馬はすっかり安心していたようで、アイリの身体を乗せたまま、レンガで舗装された道をチャカポコチャカポコ進んでいた。

 そこへ……

「お散歩かい?」

 頭上(頭はないけど)から声をかけられ、首なし馬はようやく気付いたようだ。

 自分が既に捕捉されていることに。

 首なし馬は慌てたように、再びパカラパカラと霧の中を駆け出した。

「どうして話しかけたのよ! 不意打ちでアイリの身体を奪い返すチャンスだったのに! あの馬、走って行っちゃったじゃない!」

 『首』を抱えたエミリーが噛みついてくる……って……

「エミリー、お前、今のちゃんと首なし馬に見えたのか?」

 問われてエミリーも自覚したのか、一瞬言葉を途切れさせた。

「そういえばそうね。さっきは『大きな影』だったけど、今は『首のない馬』に見えたわ」

 むう? 急に霊感に目覚めたというわけでもなさそうだし……

「もしかしてすぐ隣で『緋色の眼球』を発動したから、その影響か?」

「え、大丈夫なの、それ……って、話を逸らさないでよ! 何でアイツを逃がしたの!」

「逸らしても逃がしてもいない。こっちには作戦があるんだよ」

「作戦?」

 『バスカビーグル』は、オレ達を乗せたまま、建物の屋上や屋根を飛び移り続け、すぐに首なし馬に追いついていた。

 即座にアイリの身体奪還に取りかかれないこともなかったのだが、それで首尾よく身体を奪い返せたとしても、再び首なし馬に襲われたら元の木阿弥だ。

「首なし馬を何とかする作戦だ。ただ準備に時間がかかる。一応時間は指定したんだが、すぐに馬が見つかったからな。まだ四十分以上もある」

 探すのに時間をかけすぎて見失うわけにもいかなかったから、今のところ作戦通りに進んでいるとも言える。

「ここからは、相手を見失わないように付かず離れず追跡しつつ、時間になったら『作戦ポイント』に誘導する。頼んだぜビリー。ハンターの腕の見せ所だ」

『んにゃ』

 『バスカビーグル』は一声鳴くと、屋上を駆け、隣の家の屋根に跳び移った。

 追いかけっこの始まりだ。



「そろそろ時間だ」

「……よ、ようやく解放されるのね」

 大分参っている様子だが無理もない。

 あれからずっと首なし馬を追いかけるため、屋根から屋根へオレ達はまるでジャパンのニンジャのような移動を続けていた。移動してるのはビリーだが、乗ってるだけでもかなり疲れる。

 背負ったアイリの身体を落とさないようにしているためか、首なし馬の移動能力は普通の馬と大差なかった。そのおかげで相手を見失わずに済んだのだが、何の考えもなくただ馬の後をトレースしていたというわけではなかった。

 時に先回りしたり、あえて止まったりしたりして、『作戦ポイント』から離れすぎないよう、首なし馬を人通りの少ない道に誘導し続けなければいけなかった。

 たまに通行人と出くわすたびに肝が冷えたが、やはり背負ったアイリの身体も含めて首なし馬は『あちら側』の存在になっているらしい。

 すぐ横を首なし馬が通っていっても反応する者はほとんどいなかったし、頭上にいるオレ達も運よく誰にも気づかれずに済んでいた。

 そんな神経が磨り減る追跡劇も、そろそろおしまいだ。

「今だ! ビリー!」

『にゃ!』

 オレの合図で、『バスカビーグル』は地上へと舞い戻ると、首なし馬の前へと着地した。

 逃走中の首なし馬は、目の前に降って来た黒い猫サイドカーに、ビクリと巨体を震わせると、慌てたように真横の路地へと逃げ込んだ。

「よし、このまま真っ直ぐ追い込むぞ!」

 今度は普通に路上を駆け、首なし馬の後を追いかける『バスカビーグル』。

「このまま真っ直ぐ? それって、もしかして……」

 どうやらエミリーも行き先を察したようだ。

 数分後、オレ達の鼻に食欲をそそる香ばしい、そして懐かしい匂いが届いてきた。

「やっぱりベーカリー街……でも、ここで本当にどうにかなるの?」

「作戦通りに進んでいれば、な」

 首なし馬を追いかけながら、オレはきょろきょろと辺りを見渡した。

「あ! あれ!」

 エミリーが指を差したのは、首なし馬の進行方向の先。そこでは騎士の銅像……ブロンズが一人、通せんぼするかのように盾を構え、道を塞いでいた。

 さすがに、首なし馬はブレーキをかける。合わせて『バスカビーグル』も止まり、ブロンズとオレ達で馬を挟み撃ちする格好になった。

「おい、ブロンズ! 作戦はどうなってんだよ!」

 叫ぶと、馬の向こうからブロンズが声を張り上げた。

「あと少しで完成とのことで、某、時間稼ぎを仰せつかったでござる! 探偵も協力されよ!」

「ちょっと早すぎたか……」

 しかしこちらの準備が整うまで、向こうが大人しくして待っていてくれるとは思えない。

「よし。エミリー、乗ったまま待ってろ。ちょっとアイリの身体を取り戻してくる」

「……大丈夫?」

 バイクから降りたオレは、エミリーを振り向いて親指を立てた。

「任せとけ」

 とは言ったものの、オレの『緋色の眼球』に、怪物を大人しくさせるとか、そういうアニメめいた効果はない。

 だから、こういう時のやり方は、普通の探偵となんら変わらない。

 体を張るだけだ。

 オレは覚悟を決めると、首なし馬に向かって一直線に駆け出した。

「逃がすなよブロンズ! とう!」

 そして奴が動き出すより早く、大きく踏み切って、ジャンプ!

 動き出す隙を与えず首なし馬の背中に飛び乗る!

 ……つもりだったのだが……

 巨大な馬に飛び乗るのはさすがに無理があったようで、イメージとは程遠く、オレは馬の尻の辺りにしがみつくという結果になった。

『……!!』

 突然尻を掴まれた時の反応としては当たり前だが、暴れ始める首なし馬。

「うわ、落ち着けって!」

「何をやってるでござるかお主!?」

 ブロンズに返事をする余裕などあるはずもなく、ロデオ状態のオレは必死で尻を掴んで、何とか馬上によじ登ろうとしていたのだが……

「いかん!」

 馬が暴れると、その上に乗っている人間はどうなるか?

 全力でしがみつけるオレと違い、『乗せられていただけ』のアイリの体はあっさりと振り落されて、宙を舞う!

「しまっ……」

 投げ出されたアイリの体は、ゆっくりと放物線を描きながら、石畳の道へ激突……するよりも、一瞬早く!

『にゃうん!』

 駆けつけた『バスカビーグル』が地面と体との間に割って入った!

 そしてサイドカーに乗っていたエミリーが大きく手を広げ、アイリの体をしっかりと受け止める!

「ごめんね……アイリ……こんなことになるなんて……」

 がっちりと両腕でアイリの体を抱きかかえるエミリー。アイリの首のほうはどうやら膝に挟んでいるらしい。

 感動的な台詞の割に凄い絵面だが、無事でやれやれ……と一安心する間もなく、

『……!! ……!!』

 アイリの身体を取り落とした首なし馬は、ますます激しく暴れ続けた。もちろんオレを尻にしがみつかせたままだ。

 ちょっとこれはさすがにキツイって!

 オレは振り落されないよう、しがみついているだけで精いっぱいだった。

 そこへ……聞き慣れた怒鳴り声が響いた。

「おいコラ、エルぅ! 人に無茶振りしといて、自分は何遊んでやがる!」

 ブロンズの背後からひょっこり顔を出した不機嫌そうな髭面は……

「ジェームズさん!」

 現れたのは……『赤毛ベーカリー』の店長、ジェームズだった。

「別に、遊んでる、わけ、では」

 馬が暴れるたびに体が弾み、途切れ途切れになりながら弁明するオレ。

「はぁ……話は後でいい」

 呆れたように言うと、ジェームズは脇に抱えていた丸太のように巨大な何かを、大きく振り被った。そして、太い腕に力を込めて……

「ほらよ、そこの馬! これが、お前の、『新しい顔』だぁ!」

 その『何か』……パンで出来た『馬の首』を、首なし馬目がけて投げつけた!

 くるくるくるくる、シュポン!

 狙いたがわず飛んできたパンの『馬の首』は、首なし馬の首の断面に、すっぽりとハマる。

 その途端、暴れるのをやめる首なし馬……いや、もう首なし馬ではない。『クビパンウマ』とでも名付けるべきか。

『ブルルン』

 『クビパンウマ』は、パンの首から一声鳴いて、ゆっくりと立ち止まった。

「よっと」

ようやく尻を離して、オレも無事、地面に降り立つことが出来た。

「すみません、ジェームズさん。助かりました」

 笑顔でお礼を言うと、ジェームズはずかずかとこちらに向かって歩いてきて、

「このスカポンタンが!」

 とおもむろにオレの頭を叩いた。

「あたっ!」

「『一時間で実際の馬の首の形と大きさをしたパンを焼いてくれ』だぁ……! パンっつーのはな、簡単に見えて、すぐには出来ねえもんなんだよ! 大きくりゃあ当然、中まで火が通すのにも時間がかかる! そんなもんが一時間で焼き上がるわけねえだろ! お前、パン屋の上に住んでて、今まで一体何を見てやがったんだ!」

 そ、そうなのか? 動物の形のパンとかたまに売ってるから、ただ大きくするだけならそんなに難しくないもんかと。

「じゃああのパンは……」

「ありゃあ、完成品のパンをかき集めて、馬の首の形に組み合わせたんだよ。うちのだけじゃあ到底足りなかったから、近所の連中からもパンをかき集めてな」

 言われてよくよく見てみれば『首パン』は、長いバケットやら形の違う食パンやら、様々なパンをまるでパズルのように組んで、一つの馬の首を作っているようだ。

「なるほど。さすがジェームズさん。応用力が違いますね」

「やかましい。この短時間でアレを作るのが、どんだけ大変だったか分かってないだろ。てめえにゃあしばらく、店の仕事を手伝ってもらうからな!」

「ええ……」

 などとオレとジェームズが話していると……

「ちょっと! アイツ、行っちゃうわよ!」

 エミリーの声に振り向くと、ちょうど『クビパンウマ』がチャカポコチャカポコと、霧の奥へと去っていくところだった。

「彼奴め逃げるつもりか。仕留めるでござるか?」

 焦った顔のエミリーや盾を構えるブロンズに、オレはパタパタと手を振った。

「大丈夫だ、エミリー、心配いらない。ブロンズも物騒なこと言うなって」

「しかし、いつここで逃がせばまた暴れるか……」

 不服そうなブロンズに、オレは肩をすくめる。

「暴れるとしたら、主人(デュラハン)を失った首なし馬だろ。あれはもう『クビパンウマ』だよ。悪さなんてしたりしないさ」

「そういうもんなの?」

 疑わしげなエミリーに、オレは胸を張って答えた。

「ああ。『頭がパンで出来ている奴に悪い奴はいない』。ジャパンじゃあ常識なんだぜ」



 さて残る問題は……

「この女生徒、元に戻るでござるか?」

 『バスカビーグル』……既に猫モードを解除して、普通の四輪サイドカーに戻っている……の座席に座らせた『アイリの身体』と、その膝の上に置かれた『アイリの首』。

 それらを囲むようにオレとブロンズ、エミリー、そしてビリーが立っていた(ジェームズはパン屋の仕事からあるから先に帰った)。

「大丈夫だ。元通りになるよ」

「本当……?」

 不安そうにこちらを見てくるエミリーをまっすぐ見返して、オレは頷いた。

「本当だ。エミリー。君が、アイリの首を元に戻せばね」

「私が……?」

「……『呪いをかけた本人が首を戻せば、もう首が取れることはなくなる』。FOS学園の図書室で調べてきた、呪いの解き方さ」

「!!」

 オレの言葉に、エミリーは雷に撃たれたかのように青い目を見開いた。

「な、なんと、こちらの生徒が呪いをかけたせいで、この女生徒の首が夜中に宙を舞っていた、と? いや、しかし、呪いのことなぞ一体いつの間に調べていたでござるか!?」

「お前さんに会う前さ、ブロンズ」

 オレは中庭に行く前に、『小時計』の中にある学園の図書室で、『呪いの本』を探し当て、内容を調べてから行ったのだ。

 『首が取れる呪い』かどうかは、アイリのチョーカーや仕草からほとんどあてずっぽうだったのだが、ドンピシャだった。

「ああいう古い学校の図書室には、ごくまれに本物の呪いの本があったりするんだ。こいつは偶然、それを見つけたんだろう」

 ちなみにその呪いの本は、ジャパンのものだった。

「……それで、私が犯人だって分かったのはどうして?」

「……初歩的な推理だよ」

 実は呪いの本を見つけた後、図書室に住み憑いている幽霊に「最近これを読みに来たのは誰か?」と聞いただけなのだが、言わなくていいだろう。

「そっか……呪いの解き方なんて、書いてあったんだ。私はいくら読んでも、解く方法が分からなかった……」

「ああー……確かにちょっと分かりづらい書き方だったな」

 その問題の呪いの本。よくある子供向けのなぞなぞ本が、『問題編』『解答編』に分かれているように、『呪い編』が本の前半部分に、『解き方編』が本の後半部分に書かれいてた。

 ジャパンの言葉に詳しくなければ、どれがどの呪いの解き方か分からないこともあるかもしれない。

「しかし分からないな……ここまでずっと観察させてもらったが、アイリのこと嫌いでもなんでもないどころか、大好きだろお前。なんだってこんな呪いなんてかけたりしたんだ?」

「……呪いだなんて、思わなかったのよ……」

 ようやく、エミリーが重々しく口を開いた。

「私、初めて会った時からアイリのことが気になってたけど、中々話すきっかけがなくて……もっと仲良くなりたくって、そんなとき本を見つけたの。言葉は分からなかったから、辞書で調べながら読んで……相手を夢中にする『おまじない』だと思ったのよ」

「相手を夢中にするおまじない? 何をどう間違えればそれが、首が取れる呪いになるんだ?」

「……『首ったけになるお呪い』だと思ったの……『首だけになる呪い』だったけど……」

 首だけになる呪い。

 首ったけになるお呪い。

「うーん……」

 間違えるかなぁ。間違えるかもなぁ。

 ややこしいもんなぁ……ジャパンの言葉や表現って……

「ともかくそういうことなら、早くアイリの首を戻してやれ」

「でも……私……」

 ああ、もう! 面倒くさいな! だから人間相手の依頼は気が進まないんだ!

いまだにうじうじしているエミリーに、オレは言う。

「普段の勢いはどうした? 言っておくけどな、今回首なし馬から無事にアイリの身体を取り戻せたのは、運が良かったからだ。タイミングが少しでもずれて、オレのところに来る前に、首なし馬が現れていたら、『アイリの身体』は連れ去られて、『アイリの首』は二度と眼を覚まさなかったかもしれない」

「……!」

「誰かを呪うっていうことは、そうやって全てを失うリスクを伴うもんなんだ……だからほら、取り返しがつくうちに早くアイリを元へ戻してやりな」

「……分かった」

 エミリーは小さくそう言うと、アイリの首をそっと持ち上げて、それを優しく本来あるべき場所……体の上へと戻した。

 そして、すーっと首が繋がるや否や。

「……ん」

 すぐに目を開けて、アイリは目の前にあるエミリーの顔を見つめた。

「エミリー……?」

「アイリ……ゴメンね、私、私……」

 言葉に詰まるエミリー。そんな彼女に、アイリは両腕を伸ばすと、ゆっくりと彼女を抱きしめた。

「アイリ……?」

「私、ちゃんと覚えてないけど……分かるよ? 今までずっと、エミリーが守ってくれたんでしょ? ありがとう、エミリー……」

「……! アイリ、私……私!」

「ありがとう、エミリー……」

 嗚咽するエミリーを、優しく抱きしめるアイリ。

 やれやれ。どうやら探偵の仕事は、ここまでのようだ。

 馬に蹴られる前に退散したいが、黙って去るわけにもいかない。オレはおずおずと二人に話しかける。

「あー、アイリ。お前さんを悩ませていた問題は、とりあえず解決した……あとは探偵の出る幕じゃあない。お前とエミリーの問題だ。二人でよく話し合うんだな」

「はい。ありがとうございます。エルさん」

 エミリーと抱き合ったまま、アイリは優しく微笑んだ。

「エルさんのところへ行って、本当に良かった……エルさん本当に、女性版のシャーロック・ホームズみたいな名探偵でした」

「……待て。待て、待った」

 今聞き捨てらないことを言われたぞ。

「オレが女だって気づいてたのか?」

「え、はい」

「……アンタまさか隠しているつもりだったの?」

「ぐお、マジか、エミリー、お前まで」

「とっくに気づいていたというか、初対面から今までずっと女だと分かってたけど」

 うわー。まじか。

 ずっとばれてないと思って、ハードボイルドな男探偵として振る舞っていたのが、急に恥ずかしくなってきた!

「……参考までに聞かせてくれるか? 一体どこで気が付いたんだ?」

「え?」「だって……」

 エミリーとアイリ。二人は少し顔を見合わせてから、異口同音で、こう言った。

「とっても可愛い声だから」

 と……

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ヒガン探偵エル 『ウマのクビ事件』 三角ともえ @Tomoe_Delta

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