あいつ

有給休暇

あいつ

 町から町を駆け抜けてかれこれ数年。古ぼけたプレハブ小屋から始まった逃避行は今は駅前のホテルの中で終わろうとしている。黄ばんだ明かりが綺麗に整えられた白いベッドの上でちかちかと点滅している。よくここまで何事もなく続いたもんだと過去の出来事を反芻する。ちらちらと走る列車越しの景色のように出来事は通り過ぎていくが、常に追われているという切迫感が背後にあったせいだろうか何一つ明瞭に思い出せるものはなかった。もう疲れたと呟いて押しつけた枕は新品らしく青臭い匂いが顔を埋めた。呼吸のたびに熱く湿る生地にじりじりと不安が集ってくるのがわかって、どこに行っても逃げられないのだと悟った。

 今もあいつは後ろにいて俺のことを舌なめずりしながら眺めているはずだ。姿は見えないが、想像はつく。誰もが追いかけられているというのに知らない振りをしているのが俺にとっては不思議で仕方がなかった。見えていないのだろうかとふと思ったこともあるが、見えない俺がわかるわけもないと諦めていた。母親も父親も時期は違うが結果的にはあいつの犠牲になった。兄たちは悲しんだが、それも定めかといわんばかりに数日をすれば普段の生活に戻っていた。あいつは兄や弟たちも標的に定めていたというのに、気にした風もなく生活を送り続けていた。

「兄貴はあいつが怖くないのか」

「あいつって誰だよ」

「後ろにいるじゃないか、俺の後ろにも兄貴の後ろにも」

 真夏の暑さが骨肉を腐らせようとしている時、兄貴に尋ねたことがあるが、俺が必死な形相になればなるほど兄貴は心配そうな表情から気味悪そうな表情に変わるのが簡単にわかる。ちりんとなった風鈴が誰かの断末魔に聞こえて耳が塞いだ俺を兄貴は心の底から困りはてた様子で伸ばした手を戻してはその手で頭を掻いていた。困ったなぁと呟いた言葉は今も胸に残り続けている。

 ホテルの外から車のクラクションの音がけたたましくなったことで意識が戻った。枕から頭を上げると、清潔なホテルの室内があるのみだった。ベッドの他にはこぢんまりした机が壁に張り付いていて、その横には最小限の荷物しか置いていない。遁走した最初の方では、森の中や川沿いの中で自然の排他的な雰囲気に負けじと生活していたが、むしろそこに隠れている方が背後のあいつがより近づいている気配がしていたため、人の居る都心部のホテルやネットカフェで寝泊まりすれば背後が薄れていった。これはしめたものだとそれからは都会の中で人々の中に紛れるようにして生活をすれば切迫感は常にあったものの、少しは安らいだ気持ちで生活は出来ていた。

 机の横には先ほどまで来ていたグレーのシャツが投げられて、机の上の照明に照らされて仄明るい暗闇の塊となっていた。できるだけ紛れるように地味な服装を求めた結果、俺が着るものはほとんどが黒か、白といったモノクロが多くなっていた。努力の甲斐あってか紛れることが出来ただろうが、すれ違う人の中には俺を二度見する人物もいた。ベッドから起き上がって、机の上の鏡に自分が映ればなるほど自分でも恐ろしいと思う程に爛々とした目つきだ。まるで本気になれば光線でも出せるんじゃないかとあざ笑いながら、力の入った眉間を指で解す。こんな時ばかりはあいつのことを忘れることが出来る。

 考えれば、もうすぐあいつがやってくると気付いて何年も経っているというのにその時は未だにやってきやしない。安心は出来ぬが、慢心は出来る。立ち上がって真四角の窓から外を見下ろせば、騒がしい点滅とその間を踊るように歩く気狂いの人間ばかりだった。あいつもたくさんいる。うろうろと右に左に頭を振りながら獲物を探し回っていやがる。どんなところにいても逃げられない。次の獲物が自分でないことを祈るばかりだ。それでも、もうすぐ見つかるときが来るとは知っている。

 だめだ。何をしていてもあいつが思考の中に入って犯してきやがる。もう、あいつのない思考が出来なくなっている。これは終わりも近いのかもしれないなと冗談めかして言えるようになったのは最近のことだ。それに気付いたとき、周りを行き交う踊り狂う人間と一緒になれた気がして、真にあいつを撒ける気がしたものだ。だが、本当は違う。この人間たちはあいつを知らず、意識もせずに踊り狂ってるが俺は周りの目を気にするようにして踊っているのだ。狂ってまではいかない半端物だ。酔いの場で素面でいるようなもので、奥底で批判的になって芯からは酔い切れていない。窓の向こうは未だに狂ったように赤い光や黄色い光が暴れているし、これ以上見ていると疲れてしまう。窓から目を離せば、ようやく空気が吸えた。酸素が足りなくなった脳みそは休息を訴えていて、もうちょっと、もうちょっとだけと意識に縋り付いてもその睡魔は知らぬ存ぜぬで俺を引っ張り込んでいく。足下から落ちていく浮遊感、地に足がついているというのにこんなにも地面は頼りないものかとベッドに倒れ込んでも、ぐらぐらと揺れ続けている。体の容器の内側から無形の何かが上に下にと勢いを強めてぶつかり合っているのがわかる。だめだと体を丸め込んでもその勢いは増すばかりで、容器をはみ出すものも出てくるほどだ。枕に顔を埋めて目を閉じた。もう反抗する意欲すらわかない。

 目が覚めた、のだと思う。開けても暗闇だったからだ。目を凝らしても奥には何もなく、目を閉じても無論変わらない。不思議なのは目を閉じても、黒の種類が変わらないことだった。そしてこの暗闇の中では、あいつの気配がないことに気付いた。ずっと胸を押さえつけていた圧迫感もとれて、肺の奥まで新鮮でどろりとした空気が染みこんで、最高の気分だった。これで自分も踊り狂えると思っても、すでに体の動かし方すらも憶えてなかった。

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