カルマの塔:息子たちへ
石段の前にクロードが辿り着いた瞬間、彼の中で何かが失われた音がした。それは信じたくないモノであったが、同時に絶対の確信が胸に去来する。自らの死、その間際ですら落とさぬであろう槍をこぼしそうになる。
間に合わなかった、そんな絶望に胸が焼かれた。
隣でその様子を見ていたベアトリクスは、彼の表情から何が起きて何かが終わったことを察した。自らの妨害が無ければ、間に合ったかもしれない。エゴを押し通した結果、彼にとって大事な時間を奪うことになった。
今更、その重みを知る。
「……新たな挑戦者か? 児戯に付き合うのも厭いたが、さて」
もはや誰も石段を駆け上がろうとはしていなかった。この場で破格の実力を持つ若き三名がただただ圧倒され、立ち上がることも出来ぬ様を見れば心も折れると言うもの。百も二百も人が斬れるはずもない。彼の伝説は誇張されたモノ。
あまりにも大き過ぎたがゆえに過小に評価されていた剣士。本人もまたそれを誇示することなく、戦場無き今、半ば隠居の身。
知る者はいなかった。知る術がなかった。
戦場で剣聖と化した彼を知る者以外は。
「……戦う意味がねえ」
クロードの吐いた言葉にギルベルトは不思議そうな表情で首を傾げた。
「もう、全部終わっただろうが。決着はついた。アルフレッドの勝ちだ」
その言葉に双方の陣営が俄かに沸き立った。本来なら勝利の大合唱が巻き起こるところだろうが、石段の中央で君臨する剣聖の雰囲気がそれを征していた。
「誰がそう宣言した?」
「……あんたほどの武人ならわからねえはずが――」
ほんの一瞬、視線を外しただけなのに、ギルベルトはその間を逃さずすっとクロードの懐に入り込んだ。死、クロードの脳裏に浮かぶ言葉。突き付けられた死を前にクロードは自然と――『生きる』方向へ舵を切った。
「やはり、やる」
コンパクトな軌道からは想像もつかぬほどの破壊力を帯びた轟槍。この極小の間合いですら槍を活かす術がある。
これぞ武、これこそが技。獣にはない人の積み重ね。
ギルベルトは笑みを浮かべてその槍を『点』で捉える。
「なッ!?」
今度はクロードが驚愕する番であった。相手に間合いを取らせるための過剰な威力を帯びた槍。あくまで威嚇のためのそれを、真正面から剣先にて軽く征されてしまったのだ。これでは武人として立つ瀬がない。
「あの男がいなければ、俺とやる戦士は貴様だったのだろうな。俺が此処に構える以上、其処に倒れ伏すひよっこども、呆然と立ちすくむ色ボケの未熟者、その他の有象無象ではこの石段は登れん。貴様もまた奴に役を振られた者の一人だ。ただし、アルフレッド同様に特別扱いだがな」
「……俺が、特別?」
剣先で押さえられているだけなのに槍が動かない。目の前にいる怪物の大きさにクロードは目眩がしそうであった。心身共に万全であっても勝てるかどうか。目の前にしてようやく実像が見えてきた。今の自分では――
「俺やガードナー、クルーガーにトゥンダーもだ。役割を与えられた。きっちりと明確な役割を。他の者も同じ。他はそもそもエキストラに過ぎん。だが、貴様たち二人は違う。役を与えられながら、選択肢も与えられていた。ゆえに特別扱い」
「選択肢だと?」
「気づいていなかったのか? 最初からだ。戦時下、貴重な戦力をネーデルクスに向かわせることを認めたのから始まり、大将と三貴士の掛け持ちを許し、此度はどちら側につくかという自由意思すら与えられた。まあ、そうは言っても今回に関しては、貴様がどちらにつくか、その答えはあの男にとって自明だったのだろう。俺が此処にいるのが何よりもの証左だ」
特別扱い。選択肢。当たり前のように享受してきたそれらが、余人から見れば特別なモノであったということは良くある話。たまたまクロードが白の王にとって有益に働くよう動いたから疑念も少なく済んだだけ。
もし、数ある選択肢のどこかを違えていたとしたら。
「そして同時に、俺が貴様に抜かれることも奴の腹積もりだったのだろう。そうはさせんし、そうなる気もしないが。今の貴様では到底俺には届くまいよ。白騎士の目利きも落ちたものだ。この程度の相手に俺が負けると思っていたのだから」
喪失感に萎れていた心。そこに火がともる。
「すいません先輩」
「ん?」
「まだ終わってない。その言葉、甘えさせて頂きます」
それが父から子へ向けられるモノと同じか、それはクロードにはわからない。それでも、尊敬する人が目の前の怪物に勝つと信じてくれた。例え全てに間に合わず、多くの機会を逸したのだとしても、其処に信頼が在ったのならば。
「あと、『今』の俺、最強なんで」
変幻自在、疾風迅雷、嵐が舞う。曇天を裂く一条の稲光が如く、その槍は轟く。
幾重にも。
「それは俺を超えてからほざけ」
それらを、全て削ぎ落とした剣そのものが『点』で捌き切る。
「はは、マジでつぇーわ」
「この先、俺が本気で剣を握ることはない。この機を逃すな。この瞬間を、今を逃すな。奴が用意した俺を超える機会は、『今』だけだ」
「やってやるぜ!」
ギルベルトは内心笑っていた。自分があの男を嫌いだった本当の理由、それは誰に対しても冷徹で、残酷で、全てを掌の上で踊らせていた男が、いくつかの例外を設けていたことであった。無意識に、根っこの善良さがゆえにそれは在った。
たまたま、自らの剣を捧げる相手もあの男にとって少し例外で、それを少しだけ察していた相手もまたあの男を敬愛していた。要は嫉妬である。狡いではないか、自分はずっと付きっきりであったのに、深い所ではあの男と繋がっている。
だから嫌いなのだ。計算づくで人に好かれるのはどうでも良いが、計算していない無意識なところで人たらしなのはどうにも気に食わない。しかも、対象が被ってしまった。これで仲良くしようなど不器用な己に出来るはずもない。
目の前の青年もまた例外。本人は気づいていないだろうが、先ほどの言葉には少しウソがあった。ギルベルトと言う戦士を超える。そうあの男が信じているのは本当だろうが、これもまた特別扱いの選択肢の一つでしかない。勝つと信じているのではなく、戦う機会を与えただけ。
あの男がクロードと言う息子に、最後の最後で与えたプレゼントこそ剣聖なのだ。自分では壁として立ち塞がることは出来ないから、代役としてギルベルトを設けた。自分を超え、ギルベルトを超え、高みへと舞い上がれと背中を押すように。
彼の存在、その強さを知った時点で、ギルベルトの頭にはこの絵図が浮かんでいた。全てがあの男の掌の上、それは百歩譲って許容できる。しかし、あの男の中にある例外、親心から発生したであろうこの勝負、もはや意味は無いとしても――
「悪いが絶対に負けてやらん!」
「くそ、負けず嫌いかよ!」
ギルベルトの意地に懸けて勝つ。何しろギルベルトはウィリアム・リウィウスが嫌いなのだ。昔からずっと。先にカールと出会ったのは己であったのに、先にカールの器を見つけて育てたのはウィリアムであったから。
ただ、それだけの理由で――
○
カイルは決着の瞬間を見ていた。紅蓮の炎が四方を囲み、その陽炎が人影のようにゆらゆらと揺れる中、二つの斬撃がぶつかり、何かが消えた。目に見えぬ何か、怨讐のような攻撃性と慰労の念すらこもった温かみ――様々な陽炎が、消える。
確かなことは、
「……お疲れ様、だ」
ウィリアムと言う怪物が終わったということ。そして彼を断ち切ることで、彼の『力』を後継者たるアルフレッドが無事引き継げたということ。この茶番を経て世界の内外に新たなる王が誰かを喧伝する。そのための血と労苦。そのために愚王と化した覇王。
継承は此処に成った。
愚王、のちに様々な功罪をもって魔王と呼ばれる血濡れの王は、血の海に、屍の沼に崩れ落ちる。断ち切った本人は涙で視界が歪み見えていないだろうが、崩れ落ちる男の顔にはどこか嬉しそうな、それでいて哀しげな笑みが浮かんでいた。
「一つの時代が終わり、新たな時代がやってくる。幾度となく繰り返してきた人の営み。だが、これほどまでに美しく、泥にまみれた移り変わりを、私は知らない。素晴らしい幕引きだった。双方、あっぱれだ」
エアハルトは彼らを称賛する。あらゆる手を尽くしてここに辿り着いた。神が定めた時を超えた決着。それぞれの執念が彼らをこの場に到達させた。
「あれが王だよ、カイ・エル・エリク・グレヴィリウス」
「……ああ」
旧き王が倒れ、新たな王が立った。
「新たな王よ、人に何を望む?」
「何も」
「玉座に、王冠に、王に何を見る?」
「何も」
「では、何を持って王を成す?」
「完全なる世界を、我が王道にて目指します。王はそのためにまとう華美な衣装に過ぎません。我が王道を成すための道具。人の世もまたしかり」
「くっく、そのために全てを利用するか」
「……損はさせません。私が彼らに与える幸福を、痛みを、彼らは何も知らず享受していればいい。俺が人の世を操作し、一歩でも先に、誰もが当たり前のように幸福を享受し、笑うことの出来る世界。幸も不幸もすべてはそのための糧」
アルフレッドの貌から最後の甘さが抜け落ちていた。
「莫大な罪を重ねることとなるぞ」
「承知の上です。全てを知るのが王一人であるならば、人々の罪全てが王に帰結するのは必然。ゆえに、全てを背負うのが王、そうでしょう父上」
此処までの道のりを経て誕生した王の強さを再確認し、ウィリアムは自らの役割が果たされたことを知った。それが息子であることは甚だ遺憾であるが、自らが彼を選び、彼がそれに応えた。
今、目の前に立つ王は自分よりも強い。
ゆえに、もはや自らが世界に出来ることは無い。
「終わらせてくるがいい、簒奪者よ。王とは簒奪者。人民から奪い、編纂し、再分配する機能。それが王というカタチである必要は無いがな。今の世で理に適っているのが王というだけのこと。嗚呼、無駄話が過ぎるな。俺は」
ウィリアムは力の入らぬ身体を意志だけで動かし立ち上がった。そして、自らの息子に血濡れの王冠を被らせた。それ自体には何の意味も無い。仮面と同じただの装飾品である。貴金属、宝石と同じ。
いつだってそれに意味を持たせるのは人なのだ。
「お前が王だ。アルフレッド・レイ・アルカディアよ」
「全身全霊をもって励みます。そして次に繋げましょう」
「……征け」
アルフレッドは無言で父に背を向けた。自分が見ているのではいつまで経っても休まることは出来ない。父、何よりも王という仮面を脱ぐことが出来ない。だから、本当は末期まで看取りたい想いはあれど、彼はそれに背を向けた。
「さようなら、父上。全てを知ってなお、僕は父上を――」
誰にも聞こえぬつぶやき。
アルフレッドは目に染みた『血』を拭い前へと足を進めた。
「私が立会人として証言しましょう。新たなる王は正々堂々と戦い、これに勝利した、と」
エアハルトは膝をつき新たなる王の前に頭を垂れた。
「ありがとうございます、エアハルト様」
その言葉にエアハルトは面を上げて首を振った。
「おそれながら陛下、貴方様は王なれば、全ての上に立つ身。お立場を履き違えぬように」
アルフレッドは苦笑する。そう、すでに自らは王なのだ。
「ありがとうエアハルト」
王は見上げない。
「もったいなきお言葉」
王ならば見下ろせ、そう彼の言葉にはあった。示しを付けねばならない。王の上に立つ者、並ぶ者、国内においてそれは在ってはならないのだ。そのために『掃除』したばかり。言葉一つで揺れるは人心。
徹底せねばならない。立場と言うモノは。
「往くぞ」
「御意のままに」
アルフレッドはエアハルトを引き連れて未だ火の消えぬ部屋を出る。横目でカイルをちらりと見るが、あえて咎めることは無かった。何らかの関係があることは理解している。息子である自分でさえ立ち入れない関係。
ならば、せめて最後くらいは――
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