カルマの塔:毒婦の接吻

 ロゼッタは信じ難い光景に動くことすら出来なかった。今まで彼女にとっての上限は暴虐の国守アスワン・ナセルであり、それを奇跡にて下したアルフレッドであった。しかし、彼女は知っている。彼は巨大な対価を払うことで一時的に比肩しただけ。本来の戦力はアスワン・ナセルが大きく勝っていた。

 確かにカイルを見た時、かの国守に比肩、否、少し上回るかもしれないと思った。身体の大きさ、筋肉の付き方、剛でありしなやかな体躯は圧巻の一言。同じクラスの怪物がローレンシアにもいた。

 その事実に彼女は驚いていたのが昨日までの事。

 そして今日、今、この場でその感想は上書きされた。

「憤ッ!」

「…………」

 二人の怪物の饗宴によって。

 先ほどまでよりも明らかに精度を増した剣。誰も知覚できない深さで『点』を掴み剣が応える。見た目の数倍、あれは重く、それでいて柔らかい剣なのだ。あれを止めるには単純に彼よりも強い力、それこそ二倍、三倍の力が必要なはず。

 石段が爆ぜる。巨躯の大剣はまるで埃でも掃うかのように石を、地面を砕きながら振るわれる。一切の容赦なく、一切の躊躇いなく、あらゆる障害ごと剣聖に剛の剣を打ち込んでいくのだ。異様な光景であった。

 およそ人間が生み出していい光景ではない。

「破ァ!」

「……ッ」

 だが、このカイルと言う男は紅き気を吐きながら、その不条理極まる景色を続々と生み出していくのだ。石段を、石造りの壁を、何もかもお構いなしに剣を振るい、そしてすべてを破壊していく。その膂力は、まさに二倍、三倍、もしかするとそれ以上に――

 不利な体勢だろうが、出足であろうが関係ない。

 全ての『点』を力で捻じ曲げる。

「ば、馬鹿な。あの状態のギルベルト様が」

「あの黒狼でさえ、もう少し慎ましやかに戦うぞ」

 何があっても動ぜず、ギルベルトを援護していたオスヴァルトの勇士たちが打ち震える。自分たちの信じていた技が、剣が、費やしてきた時間と努力が、まるで意味がないとばかりにその剣は唸りを上げる。全てが力でねじ伏せられる。

 さらに厄介なのは――

「なんじゃあのバケモン、でかいのに速過ぎじゃろ」

 その怪物はスピードも一級品なのだ。初速はさすがにギルベルトが勝るが、一秒もしない内にその力関係は逆転する。巨大な出力を持つカイルの最高速はおそらくこの場の誰よりも速い。ゆえに距離を取るのは死と同義。

 ギルベルトは自然と笑みをこぼしていた。久方ぶりに感じる死の気配。その身から湧き出る死の恐怖。ようやく来たのだ。こんな茶番の上であっても、死力を尽くして戦える時が。ヴォルフもアポロニアも自分を敵とは認識しなかった。自分の在り方が彼らに響かなかったのは己とて理解している。自分は無機質な剣、仕えるべき男を失ってからずっと――

「お坊ちゃん! カールの顔に泥を塗るんじゃないよ!」

「……ハッ!」

 ギルベルトの無機質な剣に何かが注がれる様をカイルは見た。

 彼は喪失によって今の力を得た。空虚なほどただ一振りの剣と化した彼は確かに強かった。限界を超えねば負けていたかもしれない。だが、本来の彼は、その背に映る男を背負った彼はきっと――

「行け、アルフレッド。ここは俺が留め置こう」

「行かすと思うか?」

「俺が通す」

 さらに鋭さを増す剣。それに応じるようにもう一つの剣もまた力強さを増す。

 誰もが戦いを止め、二人の戦いに魅入っていた。ただ一個の人間が二人、人の群れに示していた我こそが、これこそが『本物』の戦いであると。勇士が死力を尽くし戦う様であると。刮目せよ、これが英雄に成るべき男たちの剣であると。

「……はは、じじいと一緒だ。戦場を、止めやがった」

 英雄は時を止める。二人に意図などない。ただそれを眺める者たちが勝手に足を止めるのだ。ここに割って入ることなど恐れ多い、と。

「……今日は、最初から最後まで駄目だな、俺は」

 最後にまざまざと見せつけられた格の違い。

「アル! 危ない!」

 心ここにあらずとばかりに歩を進めるアルフレッドを止めんとギルベルトの剣が迫る。アルフレッドはそれを見ようともせず一歩、さらに歩を進める。

 ミラの叫びは聞こえている。だが、警戒する意味がないのだ。

 何故なら――

「させんよ」

 彼が通すと言い切ったから。カイルがそうすると言ったのだ。ならば疑問の余地などない。今、この場で最も強い男がそう言っているのだから。

 衝突する二つの剣が描くアーチを潜り、アルフレッドは悠然と先へ進んだ。

「ギルベルト様だけが守護者ではない」

「お覚悟を、殿下」

 オスヴァルトの剣士たちが道を阻む。

「…………」

 アルフレッドは身体を揺らす。そして不自然な体勢から不自然な軌道で、居合いを放った。まさに瞬くまでの出来事。瞬き一つの間に初撃、からの返しの刃で二つの剣が折られる。命の断つのではなく、剣を断つという絶技に絶句する剣士たち。

「少し、気が立っています。立ちはだかるというのなら、御覚悟を」

 アルフレッドが放つ覇気を前に足を止める剣士たち。ギルベルトはそれを咎めようとはしなかった。

 王子の剣もまた自分たちには届かずとも凄まじいレベルに達している。あの虹を得た状態にならずとも、英雄の器でない者が止められるほど甘い戦士ではない。

(机上での勝利など意味がない。実戦の場で、俺はまるで歯が立たなかった。準備期間の短さなど言い訳にもならない。父上は若き時から多くを賭してここまでの駒を揃えてみせた。一から、だ。俺は王子と言う地位がありながら、時間を無為に使い過ぎた)

 自覚が遅かったのは認めるが、王という地位を、白騎士と言う男を、そして彼の戦友であり国家を一等国へと昇華させた歴戦の戦士たちを、軽く見過ぎたのは今のアルフレッドである。

 机上での、模擬戦での強さなど当てにならない、本物の強さ。

 戦場を経験していない若者たちには得難い力。

「……父上、貴方は」

 それを得るには、やはり死線を超えるしかない。純度の高い死線を。

 そして最後に『本物』を若き者たちは見る。

(すべては、次の時代のために)

 全ては王の掌の上。脚本の中でのこと。

 それを知るのは継承されし王。そして舞台を去る者たちだけ。

 誰にも理解されぬ敗北感に打ち震えながらアルフレッドは前へと歩を進めた。

 背後で再燃する真の頂点同士の戦いを背にして――


     ○


 もうずっと今が夢か現か判断がつかなくなっていた。夜に寝て、朝に起きて、そんな当たり前などここ数年一日としてない。

 病の痛みを感じていた頃はまだ良かった。喀血するたびに臓腑が悲鳴を上げ、長年の無理が祟ったのか動くたびに関節が痛む。

 それらを感じなくなってどれくらいの月日が経っただろう。人は痛みに慣れると言う。痛いことが当たり前になってしまえば、いずれ脳は痛みの信号を送る徒労に疲れ果て、やがては信号が途絶してしまう。

 途絶した先に待つのは何か――

 すなわち、死である。

 来る日も来る日も、朝が訪れたことに安堵し、来る日も来る日も、夜を恐れた。深い眠りは死に近づきすぎるため、浅い眠りを幾度も繰り返す日々。

 迫り来る死との戦い。千尋の谷へ突き落した息子が這い上がってくる噂だけが、精神の支えであった。息子が戦っているのに自分が負けるわけにはいかない。ただその一念だけが男の支えであった。

 疲弊し、弱り果て、自分が何者で何がしたかったのかもわからなくなり、それでもなお最後の一線で踏みとどまってきた。分不相応な王という冠を抱き、ただひたすらに耐え続けた。次なる世代、その継承の時を。

 土台の基礎程度は構築した。継承の準備は終えている。

 あとは新たなる時代の到来を――


「……カイル?」

 俺は目を閉じたのか、開いたのか、あともう少しと言うところで、いつもの場所に立つ。

「カイルとギルベルトが戦いを始めた。本来描いた絵とは少し違うが、アルフレッドの道は開いたはず。もう少しなんだ。あと一時間も必要ない。もう少しで――」

 足元が崩れ始めた。いつも通りの光景。

 ほら、瓦礫に見えるだろう?

 だが違う。こいつらは人だ。

 俺が俺のために、俺の意志で奪った者たちの成れの果て。

 積み上がった躯の塔。伸びる手は足首を掴んで離さない。

「あと少しなんだ!」

 俺の言葉を聞いて世界が嗤う。いつも通りの光景だが、いつもよりも深く響く声、そしていつもなら目が覚めるはずのタイミングで目が覚めない。いつも通りの悪夢だが、いつもと違い終わりが見えない。

 その手は力強く、俺を引っ張り込もうとする。

 手、手、手、手――俺をあちらへ引っ張ろうとする悪意。

 目、目、目、目――愉悦を孕んだ瞳で憎しみの裏返しである歓喜に充ちた悪意。

「くそッ!」

 何のためにここまで生きたというのか。

「ふざけるなッ!」

 もはや何の楽しみも無く、全ての望みを捨て去った地にしがみついていたのは、ほんの僅かでも償いをするためだった。自分が犯してきた罪を背負い、ウィリアム・リウィウスという仮面を被ったまま全てを演じ切る。

 俺の手は小さく、世界は大きい。犠牲を重ね、罪を上塗りして、それでも光を目指した。自分にそれを与えてくれた愛する者を切り捨ててでも、万人がそれを享受できる世界、その一歩のためにさらに罪を重ねた。

 ここで死ねば何の意味も無い。

 腰の剣を引き抜き、俺は自らを刺し貫いた。痛みによる覚醒を目論んだ自傷であったが俺の身体は痛みを発しない。幾度刺しても同じこと。

 ここで終われば何の意味も無いというのに。

『いや、意味がないわけではないよ。充分に君は頑張った』

『お疲れ様、アル。貴方は私の宝物で、自慢の騎士よ』

『すでに継承は終わっている。君の息子は君に似て賢い。死した君すら利用して自分が殺したと喧伝し、君の望んだ絵図は完成する。ならば、もう十分じゃないか』

『三人で暮らしましょう、アル』

 黙れ!

『何故、僕たちを拒絶する? 人は誰しもいつか死ぬ。その死が己の望むままにならぬことなど、君が一番よく知っているだろう? 簒奪の英雄、白騎士』

 ああ、知っているとも。

『なら何故それを否定するの?』

 それを否定するために俺は命を賭したからだ。

『死は逃れられない』

 たとえ死したとしても、俺は貴方たちとは共に歩めない。姉さん、ヤン、俺は貴方たちが思うよりも遥かに、俺を許せない。姉さんを奪われた弱さも、奪われたから奪わねばならないという愚かさも、奪い続けることでしか存在を証明できなかったやせっぽっちの騎士。嘘っぱちの騎士だ。狂気の獣だ。

 あの男と、本質に何の違いも無い。

『我がベルンバッハを、返せェ!』

 弱いからこうなる。大事なモノをいつも取りこぼす。

『アルレットォォォォオ!』

 罪を重ねればこうなる。

 自分を正当化するために世界を歪めなければ立てなくなる。

『死してなお修羅の道を往くのか、弟になるかもしれなかった男よ』

 ああ、そうだ。俺が納得するまで、俺は俺を許さない。

『貴方を待っている人はどうするの?』

 俺を待っている? そんな酔狂な人間が――

 彼岸の先、うっすらと浮かぶ二つの影。一つは向日葵のように燦々と、一つは野菊のように静謐に、何かを待っている人がいた。あれは、俺を――

「馬鹿か、あれから何年経ったと思っている。お前は、お前たちは、大馬鹿――」

 ほんの少し、揺らいだ。このままあの二人の下へ行って、いくつか言の葉をかわすくらい許されても良いのではないか、そんな淡い気持ちが崩壊を加速させる。

 俺の弱さが世界を終わらせる。

『妾を見よ、と言うておろうが!』

 終わりを覚悟した。死は万人に等しく、理不尽であろうが大往生であろうが、死が何かを慮ることはない。こちら側に引き込まれた以上、俺に出来ることは無く、俺の意志があちらに届くことはない。

 だから、無理かもしれないと心が折れかけていた。

 胸にジワリと広がる『痛み』。これはあちら側の――

 ヴラドを、ヘルガを、蹴落としながら足首を掴むクラウディア。その執念にも似た視線に、焼き付くような瞳に、胸が――穿たれる。

『そうか、どうやらまだみたい――』

『残念ね。アル、私は何があっても貴方を――』

 世界が反転する。俺は目を開いたのか、それとも閉じたのか――


 ウィリアムは大きく目を見開いた。そして、せり上がる何かを吐き出す。床に巻き散らかされる色は真紅。胸に宿るは異質なる痛み。

「く、くく、クラウディアめ。仕込みやがったな」

 毒婦の接吻。噛みつくようなあれは自らの唇、ないし咥内に仕込んだ毒をウィリアムに打ち込むための攻撃であったのだ。自分を見せつけて、最後は苦しみの中、やはり自分だけを思わせながら幕を閉じさせる。

 究極のエゴ、おぞましいまでの執念。

 唇であろうと咥内であろうと、自らもその毒に侵される覚悟がいる。いや、死は覚悟の上で刺し違えようとしたのだ。末期でさえも自らを刻み付けるために。

 それが王宮を自らの毒牙で沈めた魔女、クラウディアの矜持であった。

「死期を早める毒が、俺をこちらへ呼び戻した。感謝、は野暮か。あの女の望み通りにはならなかったわけだからな。まったく、痛いというのは、こういう感じだったか。久方ぶりだが、いいものではないなァ」

 のたうち回りそうなほどの痛み。だが、それはまだかすかでも身体が生きている証拠であった。突如訪れた死との分水嶺を何とかしのぐことが出来たのだ。

「カイルとギルベルトは戦っているな。アルフレッドは、ああ、この塔に入ったか。良い流れだ。早く来いアルフレッド。猶予は得たが、時間が無いことには変わりない」

 ウィリアムとて予想し切れなかった脚本の揺らぎ。しかし、最後には最初にしたためた結末に違うことなく収束する。ウィリアムと言う仮面を被った男が、人生を賭して構築したモノを継承するために。

 それが彼を不幸にすると知りながら、それでも継承する。

 彼こそが真なる適格者ゆえに。

「俺は此処にいるぞ」

 王は哂う。己が健在を誇示するかのように。

 この場にはそれを見る者は誰一人としていなかったが。

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