カルマの塔:双方、怪物

 イグナーツはすたこらさっさと逃げる。泥臭く粘りながら戦う弱者の戦争が彼の持ち味であったが、それが通じないと判断した時の見切りの早さは定評がある。凡人である彼らが幾度も窮地を乗り切ってきたのは、誰よりも見切りが早かった男の背中を見て育ったから。今、頂点に輝く星とて元は同じ弱者であり、黎明期の彼と共に戦った経験値は何物にも代えがたいものであった。

 ゆえに逃げた。一分の迷いも無く逃げた。

「せ、せめて交戦はした方が」

 一応、ギルベルト推薦の下、集められた己の分を弁えた弱兵たちでさえ困惑するほどの逃げっぷり。すでに敵影は消えたが、出来る限り距離を取ろうという信念がそこにあった。

「何事も命あっての物種っす」

「それはわかっているつもりですが」

「んー、つもりなだけで、君は自分にまだまだ期待しているっすね。もちろん悪いことじゃないっすよ。若い内、平和な内はガンガン挑戦するべきっす。ただ命がけの局面で、その半端さはすーぐ死に繋がるんすよ。あれと交戦? 冗談きついす」

 イグナーツの眼に宿るのは絶対の冷静さ。戦場ではそれを欠いた者から脱落していく。弱者が命を燃やしたところでたかが知れている。そのたかが、が戦局を左右する時もあるが、どちらにしろ捨て石上等の覚悟がいるだろう。

 そして、今日はその日ではない。

「弱い獲物ほど、目は鍛えておくべき。逃げる時は逃げる。ん? と思ったら逃げる。とにもかくにも逃げて生き延びる。三十六計逃げるに如かず。ある怪物が、怪物に成る前に自分たちの叩き込んだ立ち回りっす。至言すなあ」

 弱兵たちが引くほど、彼の判断は徹底していた。そしてそれにほとんど間違いはない。勝てる相手に勝ち、微妙な場面なら引きつつ交戦、のち撤退。

 危うい相手には近づかない。これが大事なのだ。

「あれは怪物っす。それも天然の。逃げるが勝ちっすよ」

 強者の細かな差はイグナーツが目利きできることではないが、あれだけ突出していたならば市井の服を着ていようが、最下層の奴隷がまとうボロを着ていようが、一目で理解できてしまう。君子危うきに近寄らず、戦場に限らず穏やかに生き抜くためのコツである。


     ○


「宜しいので?」

「……ま、良いんじゃない? あたしらの仕事もほぼ終わりみたいなもんでしょ」

「いえ、ギルベルト様と彼をぶつけても良かったのか、と思いまして」

「あたしはあいつの保護者じゃないっての。お互い良い歳なんだし、あいつにはあいつのやり方があって、生き方がある。後ろ向きでイラっと来るけどさ、強くは言えないでしょ」

 ヒルダは思い出し笑いをしてしまう。ちょっとだけ思い出してしまったのだ。あの日、二人で観に行った闘技場で一人の怪物を見た。そしてその後、お酒交じりでギルベルトにその話をした時のことを。その時の彼のぶすっとした表情を。

「つーかそもそもあれ、あんたたち止められた?」

「無理でしょうな」

「……即答すんなガードナーの系譜がだらしない」

「冷静な分析です」

「妥当だけど、言い切られると腹が立つわね。とにかく、怪物には怪物ぶつけとけばいいの。あたしらはゆるりと一拍置いて向かうって寸法。おわかり?」

「承知」

「あいつにとっちゃ、少しは息抜きになるんじゃない?」

 ヒルダは手出しせず先に行かせた敵の背を見る。絶対に勝てない。かなり格上でさえ持ち前の強気で張り合おうとする彼女が、そんな気を微塵も持てなかった。男がどう、女がどうと言う次元ではない。人の枠を逸脱している。

 其処に覚悟まで加わっているのだ。

 剣聖にとっては待ち望んでいた手合いであろう。

 ならば出会わせてやるのが友人としての務めではないか、そうヒルダは思った。


     ○


 一瞬の隙間。今のギルベルトが其処を逃すはずはなかった。迫る白銀の閃光。ミラが割って入る。一撃はしのげるだろう。問題は二の剣。体勢充分で『点』を見切った剣聖の剣を受けたなら、おそらくまともな体勢ではいられまい。

(今のうちに呼吸を。出来る限り深く。先のことは、今は捨て置く!)

 蒼き呼吸が臓腑を満たす。だが――

「え?」

「……ッ!?」

 ギルベルトとミラの間に飛翔した大きな剣。凄まじい勢いで石段に衝突し三人の間に衝撃が走った。何事かと判断する前に、乱れた呼吸を立て直そうとアルフレッドはあえて階段を転げ落ちる。

 距離を取るために恥も外聞も無く降って湧いた謎の状況を利用した。

「無理をするな。それは先にとっておけ」

 再度深く呼吸をしようと息を吸った瞬間、背中を巨大な力で小突かれ咳き込むアルフレッド。呼吸も集中も途切れてしまったが、小突いてきた相手を見て息を飲んでしまった。

 今日は本当に何という日なのだろうか。

 いったいどれほど多くの、動かざる山が動いたというのか。

 これはその中でも特大である。

「カイル、さん」

「お前のことを本当に思うのであれば、あちら側に立つべきなのだろうな。だが、俺は今日、ただ一人のために立つと決めている。遅過ぎたが、それでもただのカイルとして」

 決して表舞台に立つことの無かった男が舞台に降り立った。

「パパ!」

「すまんなミラ。今日は、パパでもないんだ」

 石段を悠然と進む巨躯の男。およそ戦士が望む全てを兼ね備えた怪物。

「……決戦にいた男か。何故今更出てきた?」

「何故だろうな。何故、今更、嗚呼、俺も思うよ。俺は弱かった。本当なら、俺が止めてやるべきだったし、止められずとも共にあって分かち合うことも出来たはず。俺は弱い。最後の最後で、看取るためにしか立てぬ弱き者が俺だ」

「ならば、俺の前に立つな。弱き者とやら」

「すまんな華奢な剣士。俺は弱いが、それは心の話だ」

 カイルは石段に突き立つ剣を引き抜いた。明らかに大きな剣であるが、彼が持てばそれは普通の剣にしか見えない。彼のために用意された彼だけの剣。

「身体はいささか丈夫に出来ている」

 カイルが突貫した。巨躯からは想像もつかないほど俊敏な加速。そしてこの巨躯をして想像を超えるほどの馬力で石段を駆け上がっていく。

「……大した身体能力だが、それだけだ」

 だが、今のギルベルトは到達者であり剣聖を超える剣聖。

「我が剣の前には――」

 圧倒的膂力と爆発的加速から生まれたひと振りを、ギルベルトはあっさり受けてしまう。面ではなく、線でもなく、点で彼は受け止める。

「無力」

 カイルは驚いた顔でギルベルトを見て、少しはにかんだ。

「なるほど。君は強いな」

「…………」

 睥睨する剣聖。その剣が掴むは究極の『点』。

「だが、今日は逃げんと決めているのでな、すまんが君を人とは思わぬこととする。先に謝罪しておこう。許せ、お前を壊すぞ」

 カイルの五体から真紅の雰囲気が噴き出す。その瞬間、『点』で殺したはずの勢いが再起動し、そのまま力づくで吹き飛ばした。

「獣ならば、心の弱い俺でも壊せる。人相手では面白みも無くなった俺の相手は獣ぐらいのもの。何も戦場ばかりが命がけとは限らん。俺は俺で死線を潜っている。人間相手に死を覚悟したのは、ヴォルフ・ガンク・ストライダーくらいだ」

 部下がクッションに成り、吹き飛ばされたギルベルトにダメージはなかった。だが、手に残る理不尽な力の残滓は、自我を欠いてなお本能が警戒を発していた。

「獣相手ならいくらでもあるがな。『剣闘王』などと呼ばれる前は『闘獣士』などと呼ばれていたものだ。人外相手の戦い方は心得ているつもりだ、剣聖」

 人相手では超えられなかった殺意の壁。闘争の世界で人とは比較にならぬ怪物たち相手だからこそ、彼は本気で戦うことが出来た。

 人外どもとしのぎを削ったからこそ、彼は誰よりも先んじ自らの意志で――今のように限界をこじ開けることが出来たのだ。

「強くてすまない」

「……言ってくれる」

 怪物同士、呼応するように笑い合う。

 そして剣の怪物はより深く、獣をも超えた怪物はより強く――

 二つの領域が衝突する。


     ○


 部屋に大きさに比してあまりにも少ない燭台に灯る火。暗がりの中で陰影深く佇む王は静かに微笑んでいた。懐かしい気迫、己が良く知る最強の男。失うことにひどく臆病で、身体の大きさに対してひび割れた心はあまりにも脆かった。

 だが、割れたモノを拾い集め、ひとたび立ち上がれば――

 彼は間違いなく最強なのだ。

「俺たちも良い歳だが、まだ隠居する歳でもない。なあカイル、お前の娘も良く育った。もうお前無しでも立てるだろう。なら、そろそろお前はお前だけのために立っても良いはずだ。俺やファヴェーラ、お前の娘、俺の息子。良く守ってくれた。お前の友情に感謝する。だからこそ、ここから先はお前だけの人生を生きろ」

 遅過ぎたのはお互い様。勝手に行き着いてしまった者を思い煩う必要などない。ただ思うが儘に進み、そして示す時が来たのだ。遅過ぎた英雄、最強の才能を御守りだけで終わらせるのはもったいない。

 彼の武力は小国の王として絶大な影響を与えるだろう。

 かつて彼の父がそうであったように、あの地域一帯をまとめる影響力を持つ盾、剣と成ればネーデルクスとエスタードにとってのバランサーの役割を得る。

「お前の身体には、王冠が良く似合う」

 分不相応な己とは違う。彼は生まれついての王で、生まれついての守護者。

 ただほんの少し、あの男が歪めてしまっただけなのだ。おそらく、あの怪物、烈日はカイルの存在を本能的に恐れた。だからこそ、エスタード内でさえ賛否が分かれた遠征をしてしまった。道理の通らぬ戦をしてしまった。

「さあ、どちらも楽しむが良い。これは褒美だギルベルト」

 暗き玉座の上で王は哂う。

「そして、始まりだカイル」

 彼らは舞台に良く映える。自分とは違う本物の勇士であるがゆえに。

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