カルマの塔:血に刻まれし罪
アルフレッドは真っ直ぐにテレージアの前に立った。汚れた格好、血濡れの外見、とても祝いの席に相応しいとは思えない。
だが、これから彼がしようとしていること、言わんとしていることにとって、この姿はある意味最もふさわしいモノであろう。
「……アル、大丈夫なの?」
あの姿を見てマリアンネは心配そうな声を上げる。
「大丈夫だ」
それに返したのはベアトリクス。彼を見る目は可愛がっていた弟分を見るそれではなかったが。それはクロードとて同じこと。
「ほとんど、返り血だ」
「……ッ!?」
クロードの推測を聞き、真っ青な表情を浮かべるマリアンネ。推測が正しければ、彼は人を殺している。人を殺しているのに、あれほど穏やかな雰囲気をまとい笑みを浮かべているのだ。
人殺しなど、日常の一部でしかないとでも言わんばかりに。
「ご無沙汰しておりますテレージア様」
「お久しぶりね。本当に、いつ以来かしら」
「エルネスタ様が第三王妃になられた時以来でしょうか。随分昔に感じます」
「そう、そうね、早かったような、遅かったような、不思議な気分」
テレージアは昔の記憶に浸るように目を瞑った。そして、開いた眼には冷たい色が浮かんでいた。まるで、勝負を前にした武人の如し色合い。
「それで、御用件は何かしら?」
「まずはお誕生日のお祝いを。ささやかながら御用意いたしました」
アルフレッドが胸ポケットから取り出したのは小さな箱。開けるとそこには一粒の宝石が輝く指輪があった。真っ赤なルビー。血のように、鮮烈な真紅の宝玉。
「まあ、ありがとうございます、アルフレッド殿下。大切にいたしましょう」
「喜んでいただけたようで安心いたしました」
「とても嬉しいわ。これで用向きが終わってくれたなら、私たちは笑顔でまた再会できると思うのだけれど、どうかしら?」
「残念ながら。答えはいいえ、です」
テレージアは残念そうな表情でアルフレッドを見つめた。
「ではもう一つの御用向きを聞きましょう」
アルフレッドもまたテレージアを見つめる。
「では単刀直入に。陛下から任されている北方の鉱山、其処から手を広げた全てを私にお貸し頂きたい」
ベルンバッハの縁者が一斉に眼を剥いた。長い歴史はあれど中堅の貴族でしかなかったベルンバッハが今、この国において特別な理由は二つある。一つは第三王妃エルネスタの存在。彼女が王妃となったことでベルンバッハは盤石の地位を得た。
だが、ある意味でそうなるために必要だったファクターこそ、白の王ウィリアムが白騎士であった時代、先の当主ヴラド・フォン・ベルンバッハに管理を任せていた北方の鉱山群。今では最新鋭の製鉄所も完備された一大工業地帯。加えてオストベルグを奪った際にもベルンバッハの系譜は多くの土地の管理を任されていた。
すべては現王である男の差配で、気づけばベルンバッハはこの国の鉄、その三分の一を手中に収めていたのだ。明らかに過剰な特別扱い。それがまかり通ったのはこの家が伝統ある家で、さらに特別視しても仕方のないある犠牲があったから。
「……エマヌエルを口説いたそうね」
「口説いた訳ではありません。手を差し伸べて頂いただけです」
「いずれベルンバッハはあの子が管理するようになるでしょう。当主の上に立つことで。しかし、それは今ではない。今の当主は彼、ヴィルヘルミーナの夫です。貴方は順序を違えています。致命的なほどに。あの子でもなく、私でもなく、彼を押さえるべきでした」
完全なる拒絶。しかし、それも無理からぬこと。エマヌエルがアルフレッドにつくと発言したことで王宮は大いに揺れ、エルネスタがじっくりと築き上げてきた地位も揺らぎ、同時にベルンバッハの立ち位置も複雑なモノと成った。
これ以上、家長である彼女たちが安定を乱すわけがない。
それは自明のこと。
「私からも、申し訳ないがお断りさせて頂こう。ベルンバッハはようやく安寧を得た。たくさんの犠牲があって、辛い歴史を乗り越えて今がある。君の想像できぬほどの歴史が」
「侯爵、一つ勘違いがございます。私は、おそらく貴方以上にベルンバッハを理解している。あれだけの血の匂い、隠そうとしても隠せぬわけがない。私がこの国に戻って来て最初に行ったことは、とある生き残りに対する調査でしたから」
「……君は、何を――」
「必要なピースは全て集まっています。ヴラド・フォン・ベルンバッハ、その侍女である握魔のヘルガ、そして、ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハ。最後に、ウィリアム・リウィウス。血の歴史を紐解くには、これらすべてのピースが必要です。そうでしょう? テレージア様。貴女は全てをその眼で見てきたのだから」
テレージアの顔は土気色に染まっていた。
その眼はまるで亡霊を見つめるような、恐れていた過去が再び白日の下へ曝け出されたような、そんな色彩を浮かべる。
「恐れながら殿下、私たちは十分に傷ついたと思っております。これ以上、何故、私たちも傷つかねばならないのでしょうか? 多くの痛みを、喪失を、あの子まで失った私たちが、どうしてこれ以上茨の道を歩まねばならないのでしょうか」
ベルンバッハに咲く十二の姉妹、先ほどテレージアに挨拶をしていた初老の女性が悲壮感溢れた声で、まるで懇願するように言葉を紡ぐ。痛々しい、所詮、あの時代を知らぬ自分が触れて良い傷ではない。
それは十二分にわかっている。
だが、エマヌエルを押さえた以上、エルネスタともどもこちらへ引き込んでしまうのが最善なのだ。
多少なりとも縁深い相手、出来れば触らず安寧を享受して欲しかった。それでもなお、最善のルートに必要であれば、アルフレッドはためらわない。
「その言葉を貴女たちは、被害者に、奪われた者たちに、言えますか?」
誰もが言葉に詰まる。よくわかっていないのはベルンバッハから離れた家の者だけ。近ければ近いほどに、その言葉の意味がありありと伝わってくるのだ。
「彼らの口を割らせるのは、存外骨が折れました。何しろ、先んじて陛下が彼らに多額の賠償金を、秘密裏に支払われていたからです。また、すでに数少ない生き残り。遥か昔の話であり、反抗の意志を持った者は全て、側近のヘルガ、その部下、そして我が父も加担し、死人に口なしとばかりに殺された。寿命、病、風化、逃げ切ったと思っていましたか? いや、そうでないから、貴女方は病的に安寧を求めてしまう。罪悪感に蓋をして」
「わ、私たちに何が出来たと言うの? 逃げる以外、何が――」
「何でも出来ましたとも。無力であっても金さえあればどうにでも出来た。命を賭せば、彼の所業を喧伝するだけでいいでしょう。貴族の隠れた遊びだから黙殺されていたが、表沙汰になれば『上』が処断しない理由はない。所詮伯爵、潰し方などいくらでもある」
アルフレッドの眼は壮絶なほど冷たい色を浮かべていた。彼の中にもあるのだ。燃え盛る憎しみが、レイを受け継いだ際、ルシタニアのウィリアムが偽者だと知った。其処から逆算して、あらゆる過去を紐解いて、真実に辿り着いたからこそ許せないこともある。
「逃げて、見ざる、言わざる、聞かざる、そうしたから被害は広まった。遥か過去の話、もう忘れても良い。本当にそうですか? 多くの傷と、ヴィクトーリアさんと言う犠牲、ああ、父上が手を回した多額の金、それらで消せたと? 終わらせられたと?」
アルフレッドの顔が歪む。彼女たちの愚かさと弱さに。彼女たちが強ければ、逃げた先の家を利用する強かさえあれば、生まれなかった怪物がいる。生まれなかった悲劇がある。
其処から長く、怪物が育ち切るまでの間、生まれずに済んだ悲劇がある。
「まだ物語は終わっていない。逃げるなよベルンバッハ。貴方たちが始まりだ。貴方たちには責務がある。私が父の業を背負うように、貴方たちはヴラドの業を背負うべきだ。清算せずに逃げることは俺が許さない。意味が、わかりますよね、テレージア様」
テレージアは顔を歪め、髪を掻き毟り、涙を、嗚咽を、吐き出す。ずっとため込んでいたモノ。気づいてしまったから、ずっとそれは頭の隅にあった。ウィリアムとヴラドの関係。初めから救いが無かったウィリアムとヴィクトーリア。すべては弱かった父の、最愛を失ったことで狂ったヴラドの所業が始まり。
美しい侍女が自慢していた、弟の存在。
「勝手なことばかり言わないで! 貴方には関係ないでしょう!?」
あまりにも見るに堪えない姉の姿に、ヴィルヘルミーナが制止の声を上げる。
「関係があるから、私は此処にいるんですよ。貴女もそれなりに近くにいた。ならば察しの一つや二つ、あるのではありませんか? これ以上踏み込めば、私も冷静ではいられなくなる。全てを崩壊させる真実を、こぼしてしまうかもしれない」
関係がある。ウィリアムの息子であるアルフレッドの言葉。そして、彼は父の業を受け継ぐと言った。彼女たちにヴラドの業を引き継げと言った。
関係があるのだ。それが始まり。彼女にも疑念があった。引っ掛かりがあった。あの夜、垣間見せたあの男の本性。ヴィクトーリアに向けたあの言葉が、今、ようやく真実へと繋がった。
『お前が俺を語るな。よりにもよって……貴様が、俺の』
ヴィルヘルミーナは、真実に至り、膝を崩した。慌てて夫である侯爵が支えるも、その顔はぐしゃぐしゃに、涙でぬれていた。初めから救いなどなかったのだ。どうあっても彼と彼女は結ばれることはなく、彼は本来自分たちを守る剣ではなく、復讐の剣であり、今、当り前のように享受している彼の好意は、ヴィクトーリアがいたから。
自分たちが穏やかに生きているのは、彼が彼女を愛していた証。自分たちはその愛で生かされているだけ。
ならば、父の業はどこに行ったのか。人知れず復讐者本人が金で解決した罪、すでに奪われたモノすら消えた罪、それを横に置いたとしても――
「……テレージアお姉さま。私は、あの子に、あの子たちに」
復讐者に対する罪は、業は、誰が清算すると言うのか。
「わかっています。ええ、わかっていますよ、ヴィルヘルミーナ」
アルフレッドは後味の悪い想いを浮かべながらも、それでも彼女たちは舞台へ上がるべきだと考えていた。全ての始まりであり、そして終わりがすぐそこに迫っている。これはある意味で、全てを抱えたまま死ぬはずだったテレージアへの僅かばかりの救済にもなる。
「なるほど。確かに、残っていましたね。私たちの業、ヴラドと言う怪物に育てられた、もう一人の怪物が。貴方が彼を終わらせる、その覚悟はありますか?」
「もちろん。私たちで清算し、私たちが引継ぎ、そして私たちの代で終わらせましょう。我が血にかけて誓います」
テレージアはそれを聞いてゆっくりと立ち上がった。
「この家には罪があります。今もなお消えぬ罪が。もし、それによって英雄が生まれたのだとしても、其処に加担した事実は消えない。ヴラドと共に彼は巨大になった。ベルンバッハと共に彼は力を付けた。白騎士は英雄になった。これはベルンバッハの功績でもあります。では、白の王はどうでしょうか? 度重なる飢饉、国家の危機に対して、ほとんど対策も無く、無駄な公共事業、今、完成の時を迎えたあの塔の建築などに執着しておりました。彼が賢王であると言う者は、すでに巷では一人もいないでしょう。愚王、そう呼ばれる者を輩出した、その責務の一端もまた我がベルンバッハにありましょう」
ベルンバッハに連なる全ての者たちに彼女は――
「罪と責務、二つがある以上、私たちが逃げることは許されません」
彼女は――
「これはお願いではなく命令です。ベルンバッハに連なる者は全て、次代の王アルフレッドにすべてを託します。かつてヴラドがそうしたように、私たちもまた選択する時が来たのです。仮初の安寧に生きるか、真の安寧を勝ち取るか。当主でない私に、そのような権限がないのは重々承知の上で、あえて命令させて頂きます。戦いなさい、全てに決着をつけるために。全てを終わらせるために。新たな時代に生きるために」
命じた。確かに当主は彼女ではない。しかし、対外的にそうなっていないだけで、未亡人となってからは実質全てを彼女が仕切ってきた。彼女と今の王がベルンバッハを支えてきた。ゆえに彼女の言葉は重い。凄まじく、重い。
「興が乗っているとこわりいが、ちと聞き捨てならねえ話だなおい」
この国の大将であり、王を守るべき立場のクロードは静かにテレージアとアルフレッドを見つめる。
言葉を引っ込めるのであれば、今が最後の機会だと、無言で伝える。
「心配しないでください。彼に俺は殺せない。所詮、お飾りでしかない大将位、彼の言葉など王宮では何の意味もなさない。いわんや、第三王妃と特別な貴族ベルンバッハに傷をつけることなどとてもとても」
「おう、随分でけえ口を利くようになったじゃねえかアル坊」
「試してみますか?」
「俺を、舐めるなよ!」
背負っていた槍を抜き放ち、クロードはアルフレッド目掛けて突貫する。その迫力はまさに怪物、武の化身と言っても過言ではない。彼の突きは至極のモノ、受けるにはあまりにも強過ぎ、そして速過ぎる。
だが――
「貴方には何も出来ない。貴方の槍は守るためのモノ。なればこそ――」
アルフレッドは防がずにその突きに身を差し出した。クロードの眼が大きく見開かれる。凄まじい威力の突き、アルフレッドが受ければ吹き飛ばすだろう。避けることが叶わぬ以上、あの杖で受けるしかない。それでわからせればいい。
そう思っていた。
「この、馬鹿野郎ッ!?」
差し出された先には、心臓が。
「貴方が出る幕はない。俺の脚本に、クロードと言う役名はありません」
クロードは槍を止めた。止めるしかなかった。胸に、軽く突き立つ程度。寸止めし切れないほどの速さ。だが、それでもこの姿は明確に表していた。
「…………」
クロードには、アルフレッドは殺せない。
「もう一度言います。貴方に、俺は殺せない」
ギリギリで止められた槍。それを悠々と掻い潜りアルフレッドの仕込み杖での居合いがクロードの首筋にあてがわれていた。すうっと引くことで、薄い傷がクロードの首に刻まれる。アルフレッドの眼は冷徹に、クロードを見つめていた。
「ゆえに、貴方に出番はないんですよ、クロード兄」
呆然と立ちすくむクロードを尻目にアルフレッドは笑顔で皆の前に立つ。
「皆さん、改めてご挨拶させて頂きます。私は――」
アルフレッドが皆に向かってダメ押しの交渉を始めている横で、震えることしか出来なかった。何も出来ぬ自分への怒りと、自分の弱さに。
此処より脚本は一気に加速する。
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