オリュンピア:今、世界へ虹がかかる

「その眼でアルを見ないで!」

 イーリスの叫びは、二人の間には届かない。皆が、もう諦めていい、よく頑張った、そんな『優しい眼』なっているのに、彼女だけがこの会場であんな視線を送っている。通じ合っている二人の姿、自分では届かない距離を見せつけられて、叫んでしまった。

 この会場で、その叫びを、彼らの視線の交わりの意味を、理解した者は少ない。それでも、彼女たちは、想いが強ければ強いほど知る。勝てないのだと。

 割って入るには、あまりにも遠過ぎる。


     ○


「まだ立つか」

 フェンリスは止めを刺そうと深く、低く構えた。何かしようとしている。策があるのだろう。だから油断せず、最速最強で仕留める。策の介在する余地もなく、細工を弄する隙も与えない。自分なら、それが出来る。

「痛みは大事だ。状態を伝える信号だから。切り分けて――」

「……?」

 ぶつぶつとつぶやくアルフレッド。窮地に気でも触れたかと思うも、その強がりには感服するしかない。立ち上がらずとも称賛は受けられたはず。ここまで勝ち抜いただけでも十分な栄誉。諦めたっていいはずなのだ。彼の才能を考えたなら。

「意識を分割、最適化、うん、大丈夫。正常だ」

 立ち上がったアルフレッドは自分を正常だと言った。

「強がり此処に極まれりってか」

「いいや、違うよフェンリス。俺は強がっていない。強いのさ」

「……ハッ、御立派!」

 終わらせよう。敬意を持って――

「意思で動くなら、充分だ。良く持ってくれたね、俺の身体。これで、最後だから。なに、今までの化け物よりも、弱いさ。すぐに終わらせよう」

「聞き飽きたぜ、強がりに、口八丁はよォ!」

 フェンリスが、動き出す。本日最速、今、彼が出せる十割で、ぶち抜く。

「さあ、笑おうか。我が名はアルフレッド・レイ・アルカディア!」

 輝ける笑顔。その端々から、蒼き光が零れ、同じように紅き光もまた零れ始める。交わり、別れ、また交わる。赤く、碧く、黄に、紫に、橙に――

「君たちの王だ!」

 虹色が――キラキラが――世界を満たす。


     ○


 フェンリスは加速する最中、眼前の敵、満身創痍でふらふらの、敵と呼んでいいのか分からない男が、化けたことを感じた。本能が告げる。『あれ』はやばい、と。だが、理性は、理屈は、己が勝ると弾き出していた。

 そして何よりも、此処で立ち止まるなどと言う選択肢を、フェンリス・ガンク・ストライダーと言う男は持たない。選ばない。

 狼は殺す気でその牙を突き立てんとする。

 おそらく、狼が出会った中で最強の敵へと。

 男が笑みを深めると、虹に一筋、金色が混じる。悪寒が、増す。

「素晴らしい速さだ」

 そう言った男は、まるで滑るように間合いを詰めていた。狼の目測を大きく狂わせるシンプルな速さと卓越した技術。おそらく、東方の剣士を模倣したのだろう。その辺りは理解している。

 先ほどまでも速さの差を埋めるため使おうとはしていた。

 だが、意味を為さない。それが結果であったはず。

「素晴らしい才能。でも、俺はその先が見たい」

 気づけば宙を舞っていた。先ほどと同じように肩口で片手を、手でもう片方を封じ、残った方の手で奥襟を掴んで投げる。まったく同じ、意味の無い試行。

 だが、速度域が違う。

「おい――」

 全く同じ流れ。ただ、速いのだ。全てが。狼の最速を、あっさりと投げ飛ばしながら、男は穏やかな笑みを浮かべて観察している。殺意も敵意も無い。恐ろしい話である。何故なら、このままいけば、フェンリスは死ぬ。

 頭から、受け身を取る間もなく死ぬ。

 殺意無く、敵意無く、この男は相手を殺せる。

 急速に、突然現れた死。速さが違うだけで、こうも取れる選択肢は減ってしまうのかとフェンリスは愕然としてしまう。あの時の感覚に至る以外、生き延びる道を、選択肢を潰されていた。無限に在ったはずの選択肢、握っていたはずの主導権が、手から零れ落ちる。

「ふざ、けろッ!?」

 無理やり、石畳が割れるような勢いで片手を地面に叩きつけ、フェンリスは致命を回避する。その眼には紅い眼光、狼は男を睨みつけていた。

「お見事」

 フェンリスが砕いた石畳。その手前にアルフレッドは軽く震脚を打ち込む。ふわりと浮かぶのはひときわ大きな石畳の欠片。それをアルフレッドは軽く、小突くように叩く。優しくも、発勁を込めた一撃。それは欠片を砕き、砕片と成ってフェンリスを襲った。

「殺す気かよ?」

 フェンリスはアルフレッドの容赦ない攻勢に乾いた笑みを浮かべた。

「ただのふるいだ」

「上から目線だなオイ!」

 それを超反応でかわすフェンリス。充血した眼が、限界を超えた稼働が、彼もまた昨日と同じ領域に立ち入ったことを示していた。幾重にも噴き散る血は、その砕片の威力を物語っており、まともに当たっていればこれもまた死に近づく。

 すべて、皮一枚程度でかわし切り、そのままの勢いで接近するフェンリス。

 狼もまた限界を超えた以上、彼が同じ方法で超えたのであれば、速度差は変わらず、狼が勝つ。

「当たり前だ。俺は凡てを、見下ろしているのだから」

 アルフレッドは、その限界を超えた猛攻を剣を抜かずに、足捌きと上体の入れ替えだけでかわし始める。明らかに、アルフレッドもまた先ほどまでとは比較にならないほどの身体能力を得ていた。基本の速さが、違い過ぎる。

 だが、それはフェンリスも同じこと。

(こいつ、俺よりもタガを外し慣れてやがるのか、上り幅が俺よりも少しだけ大きい。だがよ、そーいう勝負なら、負ける気しねえぜッ!)

 フェンリスの鋭い振り、アルフレッドは上体をそらしてかわす。

 明らかに戻しの利かない倒し方に、隙と見たフェンリスは本能の赴くまま覆いかぶさるように剣を――

「まだ違いがわからないのか?」

 アルフレッドの眼に浮かぶのは、仄かな失望。

「んァ?」

 ゾクリと、今までにないほどの悪寒が身を包む。

「集中しろ。俺の舞台を、乱すな」

 寝かせた上体、通常なら倒れるだけの身体を腰から伸びる一本の支え、鞘を用いることで上手いことバランスを取っていた。それだけならばただの曲芸、しかし、今のアルフレッドがそれだけで終わらせるはずがなかった。

 一瞬の均衡、バランスを取るための支えではなく、攻勢に出るための、反動を得るための第三の足。鞘が砕けると同時に石畳が不自然に吹き飛んだ。そしてその威力を加えた不自然な体勢からの居合いは――技として成立した。

 フェンリスが防げたのは、幸運と野生の勘、としか言いようがない。居合いなので軌道が読みやすいとはいえ、完全に見えない、しかも咄嗟の出来事。それこそ、この攻防が見えている戦士などこの会場に何人いるだろうか。

 それほどの一撃であった。

 吹っ飛んで距離を得るフェンリスは、空中で冷汗をかいていた。無敵の境地、昨日はそれを確信出来ていたのに、あれを前にしてその夢想は吹き飛ぶ。自分とは違うのだ。あれは、あの虹は、いったい何だ。

 男は王の如し振る舞いで微笑んだ。虹の輝きが――増す。


     ○


「うっそだろ、おい」

 唖然とするランベルト。パロミデスも言葉が出てこない様子。会場全てがあの雰囲気に呑まれていた。美しく、気高く、触れ難しオーラ。遠く、高く、果てしない。同じ人間には見えない。

 何よりも、昨日まで最強だと思っていた狼と互角、いや、わずかに――

「そう、それが、あんたの自信の源ってやつ」

 ミラもまたその差に、愕然とするしかない。

「……ゼナじゃ、勝てない!」

 自分よりも明らかに上を往くフェンリス。その上を軽々と飛び越えていったアルフレッドとフェンリス自身。たった二日、目を離していた隙に彼女の知る世界は大きく塗り替えられていた。問題なのは、おそらくアルフレッドの方は、ずっと前からこの力を手に入れていたと言うこと。遥か前に、ずっと遠くへ行っていた。差を付けられていた事実が、ゼナに追い打ちをかける。まだ、あの頃なら、エスタードに彼が来た時であれば、どうにでもなった。すぐに追い抜けるとすら思っていた。

 今は――勝つビジョンが浮かばない。


     ○


「そうか、それがお前たちの選択か。器用なくせに根が不器用なんだよ馬鹿野郎」

 黒星が選択した二人の姿を見て、哀しげに微笑んだ。彼らが笑っているのに、自分だけそうしないわけにはいかないだろう。いばらの道、こうなってしまえば乗り掛かった舟である。とっくに泥沼に入り込んでいた黒星は静かに決心した。


     ○


「あ、ありえない! 個の極致と全の彼岸を併用するなど、理屈に合わない!」

 この会場で、おそらく唯一知識としてアルフレッドの状態を理解する男、龍造寺・国綱はあり得ない光景にいつもの余裕を失っていた。オルフェはあまりにも酷い音に顔をしかめながら、ラウルは凄まじく繊細でとんでもない速度域で打たれた発勁の数々に呆けながら、絶句する。

 その横で、国綱はわなわなと震えていた。

「身体の、限界を完全に超えた領域で動く以上、あれはそう在るだけで想像を絶する痛みを伴う。痛みは思考を鈍らせ、技を損なわせることはあっても、その逆はあり得ない! 全の彼岸は、極限の集中状態だ。万全の状態でさえ、雑念の一つでもあれば入り込めないとても繊細な境地。あり得て良いはずがない! ただそうあるだけで極限の集中を要する全の彼岸と、ただそうあるだけで痛みが思考をかき乱す個の極致が同時に存在するなど!」

 だが、彼は間違いなく同時に到達していた。個の道と全の道、二つ合わせて何と成るか。武人として、人として、国綱の中の常識が崩れ去っていく。この地で学びは無いと思っていたが、最後の最後でとてつもない置き土産を得てしまった。

 常識が崩落していく。


     ○


「――速度差はそれほど変わっていない。問題は、彼のスペックが上がり、使える技が、実現できる手札が増えてしまったこと。表現の幅が増えたから、対応可能になった。加えて、フェンリスの戦い方が直線的に成り過ぎている。強化の弊害、か。ならば何故――」

「ぶつぶつうっせえぞユリシーズ!」

「も、申し訳ございません陛下」

「あれは、クソ痛ェんだ。俺でもだぞ! 強さを得るために身を削るってんだ、しかも己が分を超えた、な。だから、戦いがシンプルに成るのは仕方がねえ。それを差し引いても、未来削ってる分、そりゃあ強くなる。なのに何故だ、何故テメエの息子は、当たり前のように笑っていやがる!? さっきより、戦いが巧くなってやがるのは、どういう了見だ!?」

「俺が知るか」

「嘘つけ。何か手品があんだろ、お得意のよ!」

「あるとしても俺は知らん。そもそも、俺の剣は先ほどあっさりと敗れている。お前の息子の手によって、な。俺はあれ以上を作っていない。お前たちのいる世界は、俺にとっては未知数だ。割に合わないからな、どう見ても」

「……マジで、知らねえのか」

「俺もお前も知らない領域、か。くく、まさか、本当に超えられるとは思っていなかった。俺の作ったちんけな脚本は必要ない、自分で書いたか、この先を」

「ハハ、ちょっと、笑えなくなってきたぜ」

「お前ならどう戦う? 世界最強の生物」

「知りてえならやらせろ。わからねえからよ、試して見たくてうずうずしてんだ」

 あのヴォルフですら、わからないとする領域。ようやく彼らは本当の意味で三大巨星と呼ばれる者たちの気持ちが理解できた。

 望んでいたはずなのに、これほどに不愉快。自分たちの積み上げてきた時代が、あっさりと覆される景色は、笑うには刺激が強過ぎた。

「ふん、それが出来んのはお前が一番わかっているだろうが」

 わからずとも、持たざる者が得ようとする意味は、ウィリアムには痛いほど理解できる。彼は間違いなく、持っている側のフェンリスよりも削っている。それを表に出していないだけ。笑顔と言う仮面を張り付けているだけ。

(大したものだ。俺は、若い内は仮面無しで制御出来なかったと言うのに、お前は仮面を作ることが出来るのだな。俺とあれの息子、本当に出来過ぎだ、愚か者が)

 苦悩を知るがゆえに――

(進むと言うなら勝って見せろ。俺に、お前の王道を見せてみろ!)

 選んだ者に、かけるべき言葉などないのだから。

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