オリュンピア:道化の胸中

「もう、仕舞いか?」

「ハハ。くそ、強いな、君は」

 何も通じなかった。用意していた全てが、己のスペックでは狼に通用させる領域に達しないことが証明された。どんな工夫も、細工も、才能を前にひれ伏してしまう。どうにか出来ないか、そう思って足掻いたが、糸口は見つかる気配も無い。

(参ったな。道は一つ。やるべき時だ。あとは、やるだけ。嗚呼、でも、何故だろうか。少し、ほっとしている自分がいる。君は優秀で、君の周りは、もっと優秀だから。たぶん、僕がいなくても、上手くやれる。それが、何となくわかったから)

 並べるのは言い訳。口に出すのも憚られる愚かな、逃げ台詞。まさに道化と呼ぶにふさわしい弱さであろう。ことここに来て、心の底から逃げたいと捨て去りたいと願う自分が押さえきれない。何度覚悟を決めてきただろう。

 その度に、決意を固めていたはずなのに。

「まだ、まだ、やれるさ」

「強がりもそこまでいけば立派だぜ。だがな、もう諦めろ。お前じゃ俺には勝てねえよ」

 そう、勝てない。尋常な、正攻法では、届かない。あれだけやって、ここまでやって、無理であるならやはりここが分相応なのではないだろうか。自分でしか出来ない自分にしか導けないなど、ただの思い上がり、傲慢な、それこそ真の愚者。

 それこそ自分、アルフレッド・レイ・アルカディアの本性。

 アルフレッドは周囲を見る。悲壮感漂うアルフレッドの姿に、観客の多くはもう十分頑張った、よくやった、諦めていい、そんな、優しい眼になっていた。特に、親しい者たちほどその光は強く、心にしみわたってくる。もう十分、よく頑張りました。ここで、終わり。

 そうしたら、彼女に会いに行こう。彼女と一緒に田舎で、小さな村医者として生涯を送る。食えなくなったら猟をしてその日暮らし、きっと、とても幸せだ。

「終わらせるぜ」

 フェンリスが構える。応対できなければ場外へ落とす。勝負を決める眼。強い眼である。迷いがない。この先にある苦難全て薙ぎ倒して見せると、決意に満ち溢れている。この眼になら負けてもいいかもしれない。

「あ」

 そう思っていた。間違いなく自分は折れかけていた。だって、この先に待つモノを考えたなら、誰が限界を超えて頑張ろうと思うだろうか。明日を捨ててでも、勝利を欲する欲が芽生えようか。逃げたいと思うのが正常。

 かすかに残った、道化の本性。

 その正常が、その瞳を前にして、砕けた。

「君は、本当に、厳しいなあ」

 道化は哂う。もうとっくに、逃げ場なんてないのだと。自分は喜劇の王、勝手に舞台を降りることなど許されない。脚本通りに演じ切り、死に絶えるその日まで。ほら、観客が笑っている。自分の無様な姿を見て笑っている。

 それこそ道化の本懐。とくとご覧あれ、一世一代のペテンを。

「笑えよ、僕ッ!」

 さあ、お立合い。


     ○


 たくさんの笑顔があった。

 日々の生活の中で、ふと緩めた時に咲く笑顔。友がいて、仲間がいて、家族がいて、恋人がいて、キラキラまばゆく瞬く世界。世界はかくあるべき。

 ずっと昔、父と母と自分、ごくごく一握りの人だけが世界を構成していた時に、自分が信じて疑わなかった楽園。

「愛しているわ、私の愛しいアルフレッド」

 愛している、美しい言葉だ。

「よく出来たな、アルフレッド」

 父に褒められることなど滅多になかった。だからこそ明確に覚えている。

「よーしアル坊、俺が稽古をつけてやる!」

 楽しかった日々。

「ごきげんようアル」

 美しかった日々。

「ひさしぶり、アル」

 キラキラしたモノで溢れていた。だから僕は胸を張って言える。

『僕は世界一幸せ者であった』

 と。キラキラしたモノ、綺麗なモノが大好きだ、と。

 世界は決して楽園ではないのに、僕は僕の信じる楽園を疑うこともしなかった。世界に横たわる闇を、地獄を、地を這う人々を、見ようとも思わなかった。

 これほどの罪があるだろうか。

 僕は気づいていた。箱庭から出てすぐに、父を、母を、会ったことのない人々が責め立てる。この世界は良い人ばかりではないと僕は知っていた。

 親友が気を回して本当の底辺に近づかないようにしてくれたことも――

 親友が気遣って綺麗な商売の話ばかりすることも――

 僕は気づいていながら甘えていた。

 僕は賢しく、小狡く、卑怯だったから。言い訳をして、自分一人では何もできないからと予防線を張って、あらゆる屁理屈で武装していた。

 だって、僕なんかが頑張っても仕方がないから。世界はこういう風に出来ていて、世界の仕組みがこうなっている以上、僕らは皆どこかで妥協して生きていかなきゃいけない。どこか息苦しさを覚えながら、それでも僕らは生きていく。

 生きて、死ぬ。

 全部放り出して始めた旅。王子でも何でもない、ただのアルフレッドとしてのスタート。でも、これだって僕は恵まれている。世話を、生き方を、道を示してくれる先達がいて、今まで幸福の中、学んできた多くは自分の武器と成った。

 旅を始めてすぐに思った。僕はやっぱり恵まれていて、普通の人とは何もかも違うのだと。生まれが余裕を産み、余裕が学びを産み、学びが力と成った。

 ただ学ぶことのハードルが、ただ生きることのハードルが、これほど高いとは思わなかった。

 自分は恵まれていて、優れている。それは、自分の力ではなく父が、母が、周囲が与えてくれたもの。普通の人には得難い幸せを、僕は持っている。


 だからこの出会いは必然だった。


 遠い異国の地を引く少女。僕とは頭のてっぺんから足のつま先まで何もかも違う。美しく純粋、綺麗なモノが好きな僕が惹かれるのは当然だった。隣に立って酷く自身に嫌悪感を覚えたこともある。

 釣り合わない、そう思ったのは幾度あっただろうか。

 少女の願いは全ての病の根絶。

 嗚呼、そのどれほど遠く果てない道か。手を伸ばす気にもならないほど遠くを彼女は見据えていた。何世代、何十世代を重ねようとも辿り着く。自分は一歩で良い。一歩でも前に進んで、誰かに繋げる。

 僕は賢いから、その願いが馬鹿げていて、少女は愚者なのだと理解する。そして同時に理解した。世界は、少女たちのような愚者が繋げてきたのだと。自分ひとり、たった一つの世代でいったい何が為せようか。

 愚かだが、正しいのは少女。美しいのも、彼女。

 僕も愚かに成ろうと思った。少女を前にすると、捻くれることがくだらなく思えてくる。真っ直ぐ、自分の思う願いを口にしよう。賢さは外面に取っておく、卑怯なのは手段に取っておこう。願いだけは、ただ、思うが儘に。


 世界がキラキラで満たされますように。


 あの楽園が、世界中に広まれば良い。誰もが笑顔で、大好きな人と穏やかな日々を共に過ごす。果てしない理想、途方もない夢物語。神が作ったこの不完全な世界を、完全なモノに作り替えようと言うのだ。いったいどれほどの積み重ねの果てに、それがあるのだろうか。想像もつかない。でも、やると決めた。

 決めたら、息苦しさが消えた。

 彼女と一緒にいる時に嫌悪感を覚えることも無くなった。

 道が定まったら、世界が拓けた。

『終わらせてくれてありがとう』

 世界は、地獄だった。

 キラキラで埋め尽くさなきゃいけないのに、世界には埋め尽くすほどのキラキラはなく、代わりにドロドロとした絶望が幾重にも折り重なっていた。笑顔は、もっと綺麗でなければならない。笑顔は、美しく、温かくあるべき。

 それなのに世界には目を覆いたくなるような笑顔が多過ぎた。

『……ハッ、つくづく化け物か。いいね、お前さんで良かった。なあ、この国、悪くねえだろ? ごちゃごちゃしてて、迷路みたいでさ。フェラムテッラ、俺の名前は良いから、この国の名は、出来れば、覚えて、おいて、く……れ』

 何故笑う。泣けばいいのに。

『羊にとって良い羊飼いであることを祈るぜ、憎き仇敵の息子よ』

 そんな笑みを見せないでくれ。

 そんな悲しい笑みを見せて、僕に笑えと言うのか。

『皆の分も、感謝する』

 殺されて笑うなんて、殺されることでしか救われないなんて間違っている。

『……笑え王よ。強がりが、消えておるぞ』

 僕はただ、綺麗な世界で、穏やかに暮らしたいだけだったのに。

 でもね――

『ありがとうお兄ちゃん。泣かないで』

 僕は名も知れぬ少女と約束したんだ。

『わらって。そしたら■■■■もわらえるから』

 その少女は、村は、疫病に侵されていた。僕とイェレナではどうしようも出来なかった。最後の一人、マスク越しに、手袋越しに、直接触れることすら出来ず、それでも少女は差し出した手を握って、マスクの下で泣く弱い僕に笑ってくれた。

『ああ、ほら、見て。笑っているよ』

 マスク越し、見えるはずの無い笑み。

 そもそも僕はあの時笑えていたのだろうか。

『えへへ、よかった、おにいちゃんが、わらってくれ、て』

 こんな哀しい笑いがあって良いのだろうか。

『泣いちゃ、だめだ、よ』

 分厚い防護服、抱きしめても温もりなど伝わらない。

『ああ! 泣かないとも! 俺は泣かない! 笑い続ける! 君たちが本当に笑えるその日まで! 世界中、皆が笑えるその日まで!』

 でも、冷たさは、伝わる。

 いくつもあった、ただの悲劇。その一部。僕と彼女を形作る、笑えない喜劇。

 それでも笑えと彼らは言った。演じきれ、彼らの眼はそう言っている。


 僕は王を道化と定義した。滑稽なる道化、本性を笑みと言う仮面で覆いつくし、舞台の上で進行を司る導き手。我は道化、道化の王。舞台は、俺が導く。


     ○


 彼女の眼は真っ直ぐ、僕の眼を捉えていた。立て、そう言っている。とても厳しく、とても優しい。彼女と距離を置く決断は間違っていなかった。僕はそんなに強くない。簡単にくじけそうになる。

 そんな時、あの眼が隣にあったら、どんなに容易いだろうか。

 二つではなく四つ足で立つ。それは楽だが、王の姿ではない。

「ふ、ふふ、癖にしちゃ、いけないな。慣れなきゃ、いけない。君無しで、立ち上がることを。君がいなくても、逃げない、覚悟を」

 ふらふらと、ゆっくり立ち上がる。

 嗚呼、彼女の隣にはあの少年がいる。疲れているが、明るい表情。ならきっと、あの少女は、妹さんは峠を越えたのだろう。それが自分の考えた処置、皆の努力の成果なのか、はたまた少女の生命力が病魔を下したのかは分からない。

 試行回数が足りない。

「だけど、一歩、進んだね」

 ただの一歩。奇跡で終わるか、当たり前に変わるか、これから次第。

「負けられないな」

 彼女は進んだ。ずっと、進み続けている。きっと、彼女も僕と同じように迷い、苦悩し、愛に焦がれ、その結果、それでも進むと決めたのだと思う。

 なら、やはり負けられない。

 今度は自分が見せる番。

 笑え、僕。弱さを繕い、強者の皮を被ろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る