オリュンピア:風が吹く
風が吹いた。
「き、貴様ァ!」
剣を下ろした者のみが知る、触れたところから伝わる無感触。押しても、押しても、何も返ってこない。分厚いマントの下で、どうやって止めているのか想像も出来ない。
「すまない。少女を診たいので、退いてくれるかな?」
その瞬間、騎士が――浮いた。
何がどうなって、自分が浮いているのか、騎士には分からなかった。分からないまま剣を止められて、分からないまま弾かれる。この状況は、何だ。
尻餅をついた騎士は唖然としてボロボロのマントで着膨れした男を見つめる。
有無を言わせず、ネーデルクス一行を、天下の往来で止めながら、それでも男は揺らがない。興味の欠片すら向けない。
「かかりつけ医特製配合の気付け薬だ。まずいが、効く」
マントの下からごそごそと取り出した小さな薬瓶。そこに揺らめく液体を少女の口に数滴垂らす。少年は事態を飲み込めず、おろおろとするばかり。
「けほ、けほ」
「リマ! 大丈夫か!?」
「お、にいちゃん?」
「子供にはちょっと強過ぎるのが問題だが、とりあえずは良し、だ」
男はうんうんと頷き、少女と同じ目線までしゃがみこんだ。
リマと呼ばれた少女は、突如目の前に現れた着膨れした男に、慄くことはなかった。身体の端々から伝わってくるのだ。少女たちがこの世界で、ほとんど向けられたことのない優しさ、敵意が一切感じられない。その雰囲気に触れるだけで安心して、落ち着いてしまう。優しくて、あたたかくて、何処か遠い。
「吐しゃ物、ゲーっと吐き出したものに、黒いモノが混じっていたことは?」
「そ、それは……言えない」
リマの兄である少年は少女を守るように割って入る。
「熱っぽいと感じたことはあるかな? 例えば、今、とか」
「それも言えない!」
「身体のどこかに、黄色い斑点が」
「言えない! 言ったら、殺される!」
男の問診、先ほどまでは鮮烈な登場に呆然としていた周囲の人々が、少しずつ、騒ぎ始めた。「病気か?」「伝染病じゃ」「まさか」「でも――」騒ぎは、拡大していく。
少年は恐れていた事態に震えていた。ただでさえ違うモノとして排除される立場、伝染病のキャリアなどと知られたなら、確実に殺されてしまう。
妹も、自分も。
「……ああ、すまないな少年。怖がらせてしまったようだ。移る可能性のある病なら、こんなに悠長にしていないよ。答えは大体分かった上で、確認のための質問だったんだ」
男は少女を優しく抱き立ち上がる。
「彼女の病は、移るものではない。とは言え、それを彼らが理解するには時間がかかるし、そこまで悠長にしている暇もない。人の時間は、進んでいる。彼女の刻限も、そして、この状況の刻限も。だから、走るとしよう。丁度、この都市には俺のかかりつけ医がいる」
「リマは、助かりますか?」
「分からない。それを調べるためにも、急ごう。走れるかい、少年」
「うん、走るのは、得意だ!」
「それは良い。なら、俺と競争だ!」
ネーデルクスの若き戦士たちがわらわらと湧き出してきたところで、男と少年は走り出した。風のように、自由な歩みで、場の空気を支配し、揺れて崩れる前に逃げ出す。
騎士は尻餅をついたまま。戦士たちも、唖然とその背を見守るしかない。
鮮烈に、颯爽と、謎の男は人垣の向こうに消えていった。
○
「祭りでハイになってるからってガキが往来で倒れた程度で剣を抜くやつがあるかよ馬鹿ちん。ネーデルクスも変わろうって時にいつまでもつまらんことを」
騎士を叱責するのはネーデルクスの三貴士が一人、赤を率いるクロード・フォン・リウィウスであった。色々とすったもんだの末、今回はネーデルクス側としての参加が決まったクロードであったが、いきなりの報告に頭を抱える。
「で、後れを取ったままですか」
「え、は、し、しかし、彼奴は逃げました。私が負けたわけでは」
「それは通らないよね。どうやって飛ばされたかも分からない奴が、勝ち筋あるって考える方が能天気でしょ。でも、ふわりと浮かされた、かぁ。わからないってのは怖いね」
白を率いるシルヴィと黒のディオン。三貴士揃い踏みの状況。
「しかも背面ですよ。彼も、それなりの騎士です。思いっきり振りかぶった上段の剣を、背中越しに、手応え無く止める、ですか。実に興味深い。その男は槍を学ぶべきですね!」
「お前いっつもそこに行きつくのやめろよ。真面目な話してるのに」
「真面目ですが? ふふん、異人には難しい話だったようですね」
呆れ果てるクロードとその様子に笑みを浮かべるディオン。シルヴィは得意げに胸を張った。胸は、あまり無いが――
「姿形もわからん、と。捜しようもねえし、つまらんことに時間を使うこともねえ。お前らは大会に備えておけ。何をするかもわからんが、ネーデルクス背負ってんだ、負けんな」
「はい!」
若き戦士たちは覇気のこもった返事をして退出していく。往来で飛ばされた騎士も御咎めなし。ただし、今後はこのようなことの無きようにと念押しはしたが。
「……参ったね。たぶん、彼らじゃ勝てない」
「当たり前です。私たちですら、知覚できなかった」
「俺も、てっきり斬ったもんだと思っていた。それほど、無かったんだ。雰囲気が。闘志の欠片すら出さずに、パレードの前列に位置する一流の騎士を止める。出来るかよ、そんなこと。俺には、無理だ」
「やる意味もありません。力は、誇示するものでしょうに」
「誇示する必要もない相手だと思ったのかもね。まあ、端からネーデルクスには目の無い時期。世界の広さを満喫するとしよう」
「あの子たちが世に出せれば、と思いますね」
「無茶言わないでよシルヴィ。目立って掘り返されるのはナシ、だ。あの子たちの存在を他国の連中がどう思うか、なんて問うまでもない。足をすくわれたならなおさらさ。残念だけど、これが最後ってわけでもないでしょ」
クロードは、他の二人には言わなかった。何となく、どこかに引っ掛かりがあったことを。世界の熱狂、エル・トゥーレの熱量の前にはただの一滴にも満たない水滴であったが、そこで生まれた波紋は、確実に広がっていた。
否、それは今日だけではなく――
ずっと前から、少年が揺り籠の外に出た日から続く物語。
○
エル・トゥーレが誇る学術特区。各国から選りすぐりの人材が集い各々の分野を深め、広めて、さらなる高みを目指す特別な場所である。
その医療分野、実践の場としての病院とそれぞれが知見を深めるための学校が併設された場所。其処にいる多くは学生であり医師でもある。もしくは患者、その親族ぐらいのものであろう。
全く関係ない青年が此処にいるのは少し不自然で、
「ふう、渾身の出来だ」
料理をしているのはもっと不自然であった。
金色の髪に碧眼の青年は下手糞な鼻歌交じりで料理をしていた。
料理は旅を通して随分上達したが、鼻歌の方はいまいちどころかいまさんほど、旅の仲間にはかなり不評であった。
「さあ、アルお兄さん特製のシチューだよー。おいしいよー」
小器用に四人分の器をもって現れた無駄に陽気な青年。一人は一瞥するだけで視線を外し、二人の兄妹はいきなり現れた『知らない』人物に警戒をあらわにする。
「あれ?」
「仮面。この子たちにとって知らない人」
「あ、ああ。なるほどね。それはうっかりさんだった」
にっこりと微笑んだ青年は机の上に四人分の皿を並べ、二人の兄妹に向き直る。
「我ながら偽名ばかりでなんて名乗れば良いのか迷うところだけど、とりあえずアルと呼んでくれ。ほら、もふもふの、埃っぽい継ぎ接ぎだらけのマントを被ってたやつ。こんな感じででっぷりした」
もふっとしたジェスチャーで気づいた二人は頭を何度も下げる。それをアルと名乗る男はすっと手を出し止めた。真剣なまなざしで――
「本当に、酷い世界だ。こんな小さな子たちが、何故ここまで怯えねばならない。安心したまえ。此処に君たちを差別する者はいない。彼女はイェレナ、おそらくは君たちと同じ出身地で、腕の良いお医者さんだ。俺のかかりつけ医でもある」
「自己紹介はとっくに終わっている。二人とも、ご飯にしましょう」
「「はい」」
「……何かイェレナが冷たいなぁ」
そんなこんなで小さな食卓を囲む四人。さっぱりとした味付けのシチューは、普段あまりきちんとしたものを食べていない二人にとって、すっと染み渡るような優しい味付けであった。父や自分が体調の悪い時、母が作ってくれた味。
「おいしい」
兄妹は静かに泣いた。それを二人は静かに見守る。
ゆったりとした食事の時間が終わり、人心地ついたところで――
「……時間は良いの?」
「んー、良くはない! そろそろ行くよ」
「病状の説明は――」
「全部伝えて。その方が良い」
「わかった。医科研で治療を開始する」
「ユランさんも引継ぎを終えてこっちに来てるんでしょ? 今度挨拶に行くよ」
「たぶん、忙しくて捕まらないだろうけど」
「君だって同じさ。時間を作ってくれてありがとう。君の戦い、健闘を祈る」
「そっちも。頑張って」
そう言って、青年は二人の兄妹の頭を撫でて「生きよう」とひと言言い放ち去っていった。出入り口で仮面を被り、鏡で笑顔をチェック。しっかり笑えていることを確認し、マントを羽織る。何度も継ぎ接ぎし、継ぎ接ぎが目立たぬほどボロボロになり、また継ぎ接ぎした、騎士王からの受け継いだもの。
「さあ、喜劇最終章、無双の勇者アレクシスの巻、だ」
多くを成した。こぼしたモノもいっぱいある。一つだけ言えるのは、ドーン・エンドで笑うと決めた時から、アークを殺した時から、本当の意味で笑ったことはない。これは仮面、被っているモノなど飾りでしかない。
真のペルソナと共に喜劇王は舞台へ征く。
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