最果ての島:蒼き彼岸

 勝ったり負けたり、勝敗が常に揺れ動く。一度の勝利で格付けが済むことは無い。幾度も幾度も試行回数を重ね、天秤が傾いているのを確認して初めて格付けが決まるのだ。メドラウトとアルフレッドもまた揺れ続ける。

 揺れて揺れて、今日も天秤は固定されぬまま。

「……ふう、今日はこれくらいにしておこうか」

「ちょ、勝ち逃げは狡いですよ! 俺が勝って終わりましょう!」

「嫌だよ。ここ僕の城だぜ? 僕がルールなの」

「ぐ、ぐぬ。なんて卑劣な」

「将にとっては誉め言葉だよーん」

 手早く駒を片付けるメドラウト。こんな時でも疲労は見せない。弱さを彼は表現しないよう努めている。勝負の中、勝っている時も負けている時も、楽な時も苦しい時も常に一定。相手が、味方が、見ていないところでも崩さない。

 見ている前ならば当然崩れない。

「そういえば姉さんの真似っこ試してるんだって?」

「はい。正直、芳しくないですね。空っぽにしてるつもりなんですけど、何も考えてないだけというか、何一つピンとこないんですよ」

(……昨日踏み込んでたことは覚えてないのか)

 姉が全てを失い到達した境地。アポロニアという武人を強くして、アポロニアという英雄を殺した境地でもある。集中の先、肉体を超えた者たちとは別のブレイクスルー。与えるべきか、与えぬべきか、正直己では判断がつかない。

 ただ、メドラウトは知っている。この少年の同世代にも自分たちと同じ、黒き狼の才を受け継ぐ者がいることを。黒き狼の才に、二人の王妃が叩き込んだ次の時代に通ずる『強さ』も備える怪物の卵。

 おそらく彼はアルフレッドの十分の一の努力で二十代中盤、武においては頂点に達する可能性がある。極論するとあの性質の生き物は食っちゃ寝しているだけで身体の成長と共に強くなっていくのだ。

 それを想うと――

「集中ってさ、人それぞれやり方があると思うんだよね。僕みたいなやつは、色々考えてるときの方が集中できている気がするよ。もちろん、それが君に当てはまるとは言い切れないし、僕はそこまで到達したことは無いけれど」

 結局、肩入れしたくなってしまうのだ。

 同じく才を持たぬ者同士。判官びいき、傷のなめ合い、我ながら醜い感情だとメドラウトは思ってしまう。それでも自分は人で――

「色々、考えて、ですか。真逆だけど、でも、何故かピンときました」

 人は好き嫌いをする生き物なのだなあ、と彼は苦笑する。

「ただ一つ、姉さんと同じ境地を目指すなら知っておくべきことだけど、僕は姉さんがああなって強くなったとは思わない。英雄、アポロニア・オブ・アークランドはそれほど安くないのさ。見せられないのが残念だけど、でも、これだけは言い切れる。彼女はそれを得て覇者の資格を完全に喪失したんだ」

「……それは、でも――」

「納得するために試して御覧。使えるなら手に入れた方がいい。僕らは手札を増やしてなんぼだろ? でも、使われちゃ駄目だぜ。呑まれたら終わりだ」

 それだけは肝に銘じてほしい、メドラウトの眼が切に願う。

「……わかりました!」

 好奇心の獣。止めたって言うことを聞くわけがない。だが、知ると知らぬでは踏み込む際の慎重さが変わってくるだろう。

 あとは彼の判断次第。

 それに――

(昨日見た境地は、姉さんと同じではなかった。あの気配を感じさせながら強い個も両立させていたんだ。あれは一体、どう判断すべきなんだろうか)

 メドラウトに判断材料はない。

 彼は踏み込むことも、そもそも踏み込む気も無かったのだ。あの時代、今以上を必要とは思わなかった。自分が突出しても兵はついて来れない。駒と違い兵は事前に叩き込んだ動きしかしないし、してはならない。

 まあ稀にリディアーヌなどは思いついた妙手を、兵士に再現させようと無茶ぶりをしていたが。それで鍛えられた彼らの対応力は本当に見事で、その苦労を思うと涙が出てきそうだと部下たちと笑い合ったものである。

 戦場が巨大になればなるほど事前の準備が肝要と成り、その究極が盤外からルールを破壊した白騎士なのだろう。ならばやはり彼にもそれは必要ない。

 彼にとってあれは毒か薬か。無用の長物か武器となるか。

 見物ではある。


     ○


 一人、アルフレッドは部屋で足を組み地面に座っていた。母親から教わった集中方法だとイェレナが胸を張って教えてくれた姿勢である。今のアルフレッドもイェレナも知る由はないが、それは東方の宗教にも伝えられる『ヨーガ』であり『坐禅』の姿勢であった。それは今は亡き魔術時代の実験大国が、『魔法使い』を人工的に造るため、『悟り』に至るためのオーソドックスな手法とされていた。

 ただ、その研究は断念され、理念共々消失。残ったものはその大国の残り香である者たち及び、東方の宗教家たちに拾い上げられただけ。

 本物は世界全体でも少ない。少ないが――ゼロではない。

 そしてこれは全に至るためならば正しい姿勢であった。

「ふー」

 アルフレッドは深呼吸をして眼を細める。最初は目を瞑っていたが、アポロニアは目を瞑っていなかったし、冷静に考えて実戦の中で目を瞑るのも如何なものかと色々考えた末、半分にしようと優柔不断な答えを出したのだが。

(うん、悪くない)

 景色が薄ぼんやりと、世界と自分の境界線がぼやける。

「コォー」

 小さく、呼吸を紡ぐ。

 ここまでは今まで通り、此処からがアポロニアの真逆を征く。

 浅く、小さな呼吸と共に頭の中で描き始めるのは、ここ数日馬鹿ほど指しているストラチェスであった。相手の想定は自分。自分対自分、戦型を変えただけで自分同士とは思えぬほど多彩な戦場と化す、小さき盤上。

(さあ、征こうか)

 一つの盤面。それを本気で指しながら、頭の中で彼は盤面を増やした。負荷が一気に跳ね上がる。だが、それに止まらず――

 もっと、もっと、と頭の中で増やし続ける盤面。三つ、四つ、五つ。ガリアスでやっていたものとは次元が違う。あれは戦型こそ、戦術こそ洗練されていたが、指し手自体はほとんど格下。今は本気の自分が立ちはだかっているのだ。

 一つとして同じ戦場はない。

 負荷が極まっていく。頭が灼けつきそうになる。

 視界がぼやける。それはもはや自殺に等しい、思考の暴力である。

 六つ、七つ、八つ――

 かつての自分であればここで止めていた。これ以上など想像もしなかった。でも、この世界にはあるのだ。自分が本気を出してなお、食い下がってくれる才能と努力を積んだ怪物たちが。本当に嬉しかった。

 アルフレッドにとって彼との出会いは救いであった。

 九つ、十。

 頭の中で鳴り響く駒音。凄まじき連続音。手を、止めない。自殺であり自慰行為。無意味なる思考。この戦いに意味はない。

 十一、十二、十三。

 本当に何一つ意味はない。

 十四、十五――

 意味のない思考の連続。駒音、連続音が重なり、溶け合う。

 十六、十七、十八――

 オーバーヒート。されど肉体と違い、頭は悲鳴を上げながらも歓喜に沸く。ああ、ようやく彼は自分を知った。自分を見つけてくれた。

 十九――

 自分に触れた。

 二十。

 自分が其処にいた。

 全天なる蒼の世界。アルフレッドはありのままで其処に立つ。何故、足場のない空で自分が立てているのか、疑問に思うことすらない。

 立つということに人は疑問を持たない。歩くという動作に人は疑問を持たない。翼があれば飛ぶことにも疑問を持つことは無いだろう。

 これもまた同じこと。

 だから、空の上で立ちはだかる扉を前にしてなお、アルフレッドという存在は何一つ疑問を持つことなくそれを押し開ける。

 その先にあるモノを予期しながら――

(水? 川、かな?)

 扉の先には冷たくもなく温かくもない、自分と全く同じ何かが足首付近で流れていた。扉はもう見えない。進むしかない。進むべきだと思う。

 水面に映る顔は虚弱で、逃げたがりの貌をしている。

 一歩、進むと僅かに深みに至ったことが分かった。

 自分と世界の境界線が揺らぐ。

 でも、こんな醜くて弱い『自分』なんて必要なのだろうか。ずっと思っていた。何で世界は苦しいことばかりで、全てを愛していたあの北方での日々のように美しく在れないのか、と。父が好きだった。母が好きだった。

 皆が好きだった。

 好きだったのだ。

「あ、ああああ、ああああああ」

 だけど、その裏で父と母は理解不能な関係性を築いていた。愛なのかもしれない。ある意味で美しいかもしれない。でも、そこに自分はいない。

 イーリス、マリアンネ、クロードは父を、ヒルダは母を、愛していたから愛してくれていただけ。僕は、誰にも愛されていない。

 美しい世界が壊れ、唯一人虚空にて立つ。

 誰か、僕を愛してくれ。

 水面に映る己の醜さよ。ニコラは金を稼げる僕を好きだっただけなのかもしれない。シャルロットは王族である僕。イェレナは、どうして僕を、こんなにも醜くて、自信も無い、愛されたいから優しそうに見せているだけのエゴイストを。

 果たして、本当に愛してくれているのだろうか?

 だってそうだろう。本当に愛してくれているのなら、夢なんて投げ打って一緒に来てくれたらいいじゃないか。それで――

「それでいいなら良いぜ。別に、よ」

 鉄の国の戦士たち。自分の中に在った、濁点。

「良いんじゃねえの? 全部捨てて蕩けちまうってのも。逃げて良いぜ、逃げるべきだ。人間一人に全部押し付けるなんて間違ってるわな」

 君の名は――嗚呼、そうだ、アロイジウス・ロッシュ。そして――

 頭の中で駆け巡る多くの名前たち。

「何だ、逃げねえのかよ?」

「悪いね。僕、嘘つきなんだ。それっぽかったでしょ?」

「ハハ、道化の王様、か。どこまで征けるか、ま、見といてやるよ」

「ああ、存分に満喫しな。絶対に退屈させない。我が王道の名は、喜劇だ!」

 世界に溶け合う中で、自分が確立される。消えぬ魂、背負うモノがある。世界にとって彼らは無視できる小さな濁点であっても、アルフレッドにとってそれは人生を変えた出会いで、犠牲だった。

 だから、逃げられない。

「俺にひれ伏すなら使ってやるよ、世界ィ!」

 世界を足蹴に少年は嗤う。

 そして、融和が解ける。

「ガァ!? ハッ! ハッ! ハッ!?」

 視界が、感覚が、少年の中で一気に戻ってきた。

 呼吸を忘れるほどの、生きていることすら忘れるほどの、境地。アルフレッドは自分が在ることを己の触覚で確認せざるを得なかった。

 俺は、此処にいる。

「ハァ、ハァ、くそ、そういうことかよ。畜生。ヤバい、踏み込み過ぎた。もっと踏み込んでいたら、駄目だったかもしれない」

 浅瀬ではあった。それであれ。自分が強ければ、それでも人である限り、おそらくは抗えない。いつか、呑まれる。もしかすると人の死とは、身体の機能停止の前にああして世界と溶け合うのが死なのかもしれない。

「……たぶん、多用は出来ないな。浅瀬でも、少しずつ、進んでいく。深みにはまっていく。確固たる自分が、この仮面がどこまで耐えられるのか、嗚呼、この先はつくづく、人の道じゃない。人じゃなくなってしまう」

 大いなるリスク。ある意味で獣の道よりもリスキー極まる。

 踏み込める者はきっと自分に絶対の自信を持つモノか。それとも溶け合うことを望む者か。少なくとも常人ではない。本当の望みではない、嘘の覚悟で深みに至れるほど、アルフレッドは自分に確信を持てなかった。

 持てるはずがない。自分の弱さは、今、死ぬほど味わった。

「でも、使うしか、ない。自分なりの理屈は、入り方は掴んだ。あとは使われないように使うだけ、か。それが一番、難しいんだろうなぁ」

 ふと、アルフレッドは思う。

 アポロニアはどういう想いで其処に踏み込んだのだろう、と。必要があるとは思えない。彼女自身剣は捨てている。ならば、と踏み込みかけたところで、アルフレッドは思考を切り上げた。それは邪推、無粋の極みであろう。

 彼女には彼女の、自分には自分の傷があるのだから。

 その傷のおかげで、逃げずに済む。


     ○


 アポロニアは静かに目を見開く。

「……至った」

 蒼く澄んだ空色の瞳がアークに答えを告げる。自分の選択の結果、彼女は生きながらに死を望み、同時に犠牲になった部下たちを想い生きねばならぬ、その狭間でもがき苦しむ羽目になった。

 今となっては華々しく散った方が幸せだったかもしれない。

「あの子も、私と同じで根はあまり強くないのだろう。だが、よく堪えた。武の中で自然と至る者より遥かなる深み。深淵からすると浅瀬ではあるが」

「世界に溶けてはおらぬか」

「至りかけたが、な」

「……ならばよい。我が眼とて万能ではない。卿がそうなるとは分からなかったように、あの子がそうなったとしてもおかしくないのだ。生き永らえていることには間違いは無いからのお。個と全の違いというだけで」

「よくご存じだな」

「おとぎ話は一通り調べてある。我が眼にも関わってくることであるからな。メドラウトがこちらに来たら話す。急ぐことも無かろう」

「ああ、その通りだ。時間は、気が遠くなるほどに残されているのだから」

 彼女の望みはこの地上にはない。それが分かって無為に生き続ける、もちろんガルニアの守護者として君臨する責務はあれど、おそらくはその力を行使する日は、彼女の存命の中ではありえないだろう。

 どちらにせよ、今の時点であればメドラウトの方が将としては上。尚更自分の立つ瀬などない。本当に、絶望的なほどの虚無。

「……我を許せぬか?」

「……もはや憎しみすら、私には無い」

「……そうであるか」

 こんなはずではなかった。何度そう思ったことであろう。

「あの子は力を手に入れた。道具としてうまく使うだろう。されど、蒼の領域は一を十にすることは出来るが、零を一にすることは出来ない。狼の動きを先読みして、見切ったとしても反応が、応手が間に合わぬ速度差であれば、勝てぬ」

「どこまでもついて回るか、才能の差は」

「どこまで埋められる? 私には皆目見当がつかぬ。その答えを見れたら、嗚呼、少しは心躍るかもしれんな。それは私の望みでもあったから」

 過去形。すでに才能の差で三番目に、それよりも下に引き摺り下ろされた絶望などとうに彼岸の彼方である。彼女に残るのは部下たちの忠義が付けた傷、それだけである。それだけが彼女をアポロニアたらしめていた。

「武人たちは気づくまい。気づけぬのだ。隔絶した領域、個と両立できるところをずっと過ぎた深み。認識できるのは、ローレンシアで私と剣聖、東方より到来した若き武人と老いた武人。それだけであろう」

 世界に溶けて消えるほどの領域。

 比喩ではなく、消えるのだ。自我の輪郭が消えて、世界との境界線が無くなってしまえば、もはやそこに個が存在し得る可能性などない。

 世界という大海に一粒の水滴(こせい)を垂らすようなものである。

 彼は至った。至ってしまった。危険を認識できるレベルまで。

 彼はこの力とどうやって付き合っていくのか、ほんの少しだけ興味がある、とアポロニアは思った。悟りの果てに潜む個の滅びを知った上で――

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