夜明けのネーデルクス:蛇の執念、虎の愛

 受けて受けて受けて受けて受けて受け潰す。

 かつて師は言った。攻防において強いのは常に防の側なのだと。ゆえに賢しく立ち回る導は如何に攻め手ではなく受け手になれるか、其処に尽きる。

 蛇は真正面から怪物どもと戦う力は持たない。だからこそ、始まる前に勝てる算段を整えておく。どんな局面であっても、一騎打ちであろうが戦術レベルであろうが、戦略クラスであろうが同じ。

 如何に有利な場に立つか。

「諦めた方がええよ。この状況下じゃ君、勝てんて」

 人目を気にすることなく一騎打ちだけに注力できる状況下。殺す必要もなく受け続けていても支障がない環境。時間制限もない。

 ならば勝つ。

「ふざ、けるなァ!」

 攻め手と受け手、最大の差異は消耗の度合い。受け手に消耗がないとは言わないが、同じ武力、引き出しを持つ者同士であれば攻め手の方が激しく消耗するのは道理であり必然。そして人の体力は、無限にあらず。

「私の槍は完璧でなくてはならない! 私は強く在らねばならない! 私はシャウハウゼンだ! 選ばれし三つの頂に座す者、敗北などありえない!」

 どれほど息巻こうとも状況は覆らない。

 その意思表示で緩んでやるほど蛇は甘くない。

 彼女もそれに期待しているわけではなかった。これは自己暗示、己を鼓舞するための言葉。彼女に成れなかった多くを知っている。最愛の姉の屍を踏みしめて彼女は立っているのだ。必ず勝つ、勝たねばならない。

 思い出せ、と。

『お姉ちゃんに任せて』

 美しく――

『きっと大丈夫。私が守ってあげるから』

 強く――

『私たち姉妹を引き取ってくれる人がいたの。ごはんの心配もいらない。寝るところもくれる。文字や算術も教えてくれるそうよ!』

 賢く――

『……あれ?』

 でも、槍の才能だけが無かった。それだけが足りず、妹にはそれだけがあった。そしてあそこではその才能こそが全てであったのだ。

『おめでとう、心の底から嬉しいわ。貴女が私たちのシャウハウゼンで』

『ありがとう。御姉様もママの助手としてお医者様になるって聞いたわ。凄いことよ、マーシアやエル・トゥーレじゃなくて直属の――』

『……慰めは、やめて。惨めになる』

 心の底からの想いであった。シャウハウゼンになれぬ中では最難関であり、最高の結果である。やはり自分の御姉様は凄い。そう思っていたのに――

 次に会った時、美しき姉は自らの意志で戦うために貌を削ぎ落としていた。包帯で巻いて隠したり、血や顔料でそれっぽく仕上げた者ばかりの中、彼女とごく一部の者たちはカリスが制止する前にそうしたのだ。

 成らず者。彼女たちは自らをそう称す。

 彼女たちの、最愛の姉の愛憎をも背負い立っている。彼女の死で揺らぐことさえ彼女は許さないだろう。揺らがずに命を燃やせ、彼女ならばそう言う。

 底辺の薄汚い溝鼠。そんな彼女たちを救ってくれたママに恩を返したい。それが出来なかった者たちの想い、背負うことすら許されなかった人々の無念。

 それが彼女を神とする。

「私は勝利します。皆、私を見ていてください」

 神であらねばならぬと心が叫ぶ。

「無理や」

「ノン! 私がやるといったらやるのです」

 シャウハウゼンと成った彼女の突貫。深い集中、全身全霊を注いで敵の堅牢なる受けを崩す。上下左右で足りぬのなら斜め方向も、前後の動きも足そう。消耗は早まるだろうが、このまま何も出来ずに終わることはありえない。

「……この、槍!?」

 ここに来てさらに跳ね上がる槍の冴え。回数を重ねるにつれて受けが徐々に遅れてくる。心身を燃やし尽くすかのような攻め。後先考えぬ完全燃焼の槍。

「くぅ、あかんわ、これ」

 その場で受けることを断念し後退するディオン。

 それを好機とばかりに彼女は詰める。

「これでェ!」

 鋭く急所を捉えた突きが奔る。初めて見せた隙、自分の攻めが生み出した揺らぎ。ここで攻め切らねば勝てない。

「手厳しいわ」

 だが、蛇はそれを無情にも受け止める。槍の穂先同士が衝突。突きに突きを合わせてきたのだ。超絶技巧、それをこの極限の中、さらりとこなす嫌らしさ。

「ぐ、ぬっ!」

 押し切る。彼女は全力で押した。

「あかんね、それ、悪手やろ」

 そしてあっさりと蛇は勝負手である強引な突きを空かす。一度止めた槍、死に体の槍に女の力で無理やり動かしたところで先ほどのような積み重ねた好手とはなり得ない。力ずくの槍、彼女にとって痛恨の、神の槍から外れた攻め。

 空かされ、槍どころか体まで死に体と化す。

「この、私、が」

 神の槍から外れた。それは資格を喪失したも同然。

 限界が迫る中、勝負を急いた。

(いいでしょう。私の負けです。ですが、ただでは死にません。意地でも相打ちに持ち込んでみせましょう。さあ、刺すも薙ぐも好き放題ですよ)

 それでも彼女は最後の一線で勝機を捨てなかった。必ず勝って見せる。自分一人であればここでひざを折っていたが、この身には何人、何十人、何百人もの挫折が載っている。ただでは死なない。死んでなるものか。

(さあ!)

 来るべき攻撃に備える。刹那が十秒、二十秒にも感じる極限の集中の中で、彼女は待ち構えていた。必ず来るであろう攻撃を。

 これ以上ない好機にあの男が攻めてくることを。

 待ちながら――

「へぶッ!?」

 死に体のまま彼女は地面に叩きつけられた。泥まみれになるが、これは空かされた勢いのまま身体が倒れ込んだだけである。

 ディオンは何もしていない。何もせずに次の攻撃に備え、構えていた。

「ふぁけるなァ!」

 口の中に入った泥を吐き出しながら彼女は吼える。ここで攻めてこないのはありえない。あれだけ集中してなお薄氷、圧倒的に分の悪い状況だったのだ。武人であれば誰だって攻める。攻めなければおかしい。

「いや、だから攻めんゆーたやん」

「ぺっ、ぺっ、許しません。何処まで私を、私たちを虚仮にすれば気が済むのですか、ディオン・ラングレー! 今のを攻めずして何が武人か!」

「でも、万が一あったやろ、今のでも」

「ッ!?」

「なら、手ェ出さんよ。虚仮にしとる? 冗談やめェや。阿呆ほど評価しとるから手ェ出さんだけやよ。僕、怖がりやさんやからね」

 ふざけた物言いである。そもそも方言交じりのしゃべり方が気に食わない。彼女にとって不愉快の詰め合わせのような男は本気で攻めずして勝つ気なのだ。

「貴方の槍が嫌いです、心底」

「お褒め預かり光栄や」

「ノン! 断じて褒めておりません。ですが、認めましょう。貴方は強い。不愉快で、嫌らしく、憎たらしくて仕方ありませんが」

 泥を拭い姉譲りの美しき槍使いは立つ。

「貴方が大嫌いです!」

「熱烈な愛の告白やね。ほんでも、ごめんなさい。今狙っとる子おるから」

「ほざけッ!」

 魂の一滴をも絞り出すような攻め。

 必ず勝つ。執念が槍に宿る。

 だが、それは蛇も同じなのだ。勝利のために格好よく勝つことを捨てた。攻める姿は人を惹きつけ、魅了してやまない。そんな姿を彼は捨てた。

 それでも欲しいものがあったから。

 蛇はそれだけを胸に、あまねく全てを受け潰す。


     ○


 その様子を離れた場所で観戦していた男はゆっくりと立ち上がる。

 周囲には男と格好は全く異なるが、同じ雰囲気の者たちが並ぶ。

「いいのか、最後まで見なくて」

「構わないでしょう。徹し切れるのであれば最初から勝負はついていた。これ以上見ても意味はありません」

「そうか」

「マールテン公爵との契約は今宵をもって満了。更新の打診はありましたが、ふふ、私にこの国は眩し過ぎる。次は暗いところが良いですねえ」

「覇国に巣くう毒婦から打診があった。国内がガタついているタイミングで遊びたいそうだ。愉悦のために国を揺らす、信じ難いほど救えぬ女だが」

「だからこそ私たち向き、ですか。ええ、そちらの方が私にとっても気が楽だ。かの国には中々縁深いようで、さて、次は生き残れるのでしょうかね」

「縁起の悪いことをぬかすな」

「暗殺者が縁起などと。死ぬ時は死ぬ。生きる時は生きる。それだけのことでしょう。私は一度あそこで死にかけているので尚更ですねぇ」

 そう言って燕尾服の男は歩き出した。

「よい夜明けであることを祈りますよ、ネーデルクスの諸君」

 そして闇に溶ける。他の者もまた姿をくらました。

 ガリアスの諜報組織である『蛇』は一度でも離脱した者を再び受け入れることは無い。洗脳や拷問によって変質させられた異分子を取り込まぬためである。今、此処にいた全員は何らかの理由で離脱を余儀なくされ、生き場を失った者たち。

 されど闇に生きるしかなく、それ以外の術を持たぬ者。

 蛇として生まれ、蛇として死ねなかった者たちは揺蕩うばかり。


     ○


 小さな怪物。宣言通り虎はさらに加速し、強さを増した。誰にも止められぬ。我こそが王だと言わんばかりの苛烈なる攻め。華がある。見る者すべてを魅了し、奮い立たせる華が。このままでは勝てないと男の中の何かが叫ぶ。

(俺の、神の槍では、勝てぬというのか)

 受けも水準を遥かに超えているが、やはり彼女の長所は攻めにこそある。シンプルに速く、強いのはもちろんのこと。とにかく多彩で技が尽きない。ゆえに技が途切れることもない。途切れずに続く怒涛の攻め。

 基礎を学び、経験を積み、虎の王を知り、覚醒に至った。

 あのディオンが苦手とする攻めの達人。受けの綻びを見出す嗅覚、そして蛇の受けを攻め潰してきた経験が彼女に力を与えていた。

「何故、そんな窮屈な槍に収まっているのですか? 先ほどから見るに堪えません。折角の身体、生かさずに何が神の槍ですか」

「神は唯一の、正解なのだ!」

「本当にそう思っていますか?」

 虎の眼は全てを見透かしているようであった。ずっと、燻り続けてきた想い。自分よりも神の槍を上手く操る女よりも自分は強く、同じ槍を操るはずなのにあの男には勝てないまま。この槍が唯一無二だというのなら、そもそも差異が生まれること自体、どこか矛盾していると彼は思っていた。

「それでも俺は!」

「……その意地はつまらない」

 槍を支点にしてぐるりと回し蹴り。虎の曲芸に男は揺らぐ。

「貴方の槍は、つまらない」

 言葉の槍に貫かれる男。自分が見惚れたほどの槍使いが、自分を哀れむような眼で見つめている。その事実は、シャウハウゼンと成ったはずの男を揺らした。

「俺を、その眼で、見るなァ!」

 怒りに駆られたその槍は、神の槍が描く軌道よりもわずかに大ぶりであった。放った直後、彼は「しまった」と揺らぎを槍に出してしまった失態を恥じ、虎を受けごと吹き飛ばした感触を経て、男は混沌の渦に叩き落とされた。

「え?」

 確かな手応え。外してしまった、失敗が、最高の手応えを残した。

「いい、槍です。殺し切れませんでした」

 虎の受けが甘かったわけではない。しっかりと先ほどまでと同様に威力を、柔らかさで殺して受けていた。だからこそ、信じ難いのだ。

「続けましょうか。心のままに」

 虎がまた攻めてくる。考える暇はない。

 染み付いた動き。だが、身体がそれを拒絶する。スタンス幅が広がり、持ち手も広く、されど動きはコンパクトにまとまっている。

 軌跡は大きくなっているのに、到達の速さが変わらない。

「あ、ああ、ああ!」

「虎ァ!」

 打ち合いの激しさが増す。先ほどまで押されていたのが信じられないほど、拮抗した打ち合いである。重さが心地よい。槍に力が浸透していく。

「俺の、槍」

 身体に染み渡る新たな動き。神の槍に逆らうのではなく、それに沿って自分なりにカスタマイズしていく感覚。長らく忘れていた上達の手応え。快感が、感動が押し寄せる。槍が自分に応えてくれる。

 一番になりたいと槍が叫ぶ。

 虎の覚醒が神の模倣で終わるはずだった男の槍を覚醒に導いた。自分の体格に神の槍を修正していく作業を経て、彼は到達する。

 矛盾が、閊えが、彼の中から消えていく。

 それと同時に残る、しこり。

(神の槍が唯一ではなかったのだとしたら、俺が、此処で殺した彼女は、間違えていなかったことになる。俺は、傲慢、だったのか?)

 あの真っ直ぐな眼が自分を見つめ返していた。そう、似ているのだ目の前の虎は。当然のように彼の母と同じ眼を宿していた。

「集中!」

 びくりと男は我に返る。

「いい感じです! もっと強くなってください! そうすれば私ももっと強くなれる。嗚呼、もっと、もっと、もっとです!」

 ただ、己が槍を極めるために。敵にまで強くなれと願うのだ、この虎は。敵であり仇である男にまで成長を、集中を求めてくるのだ。

 その欲の深さに男は苦い笑みを浮かべた。

 自分と同じ境遇でも彼女はきっと今の自分に辿り着いた。彼女はきっと負けたままでは、神の槍だけでは止まらなかっただろう。妥協せず、先へ先へと進もうとしたはず。ならば自分は、きっと始まる前から負けていたのだ。

 己を騙してでも『正解』を求めた時点で――

「オォォッ!」

 それでもせめて――

「牙ァ!」

 自分が見惚れた槍の糧となり散ろう。

 刹那の攻防。互いの必殺が奔り、そして鮮血が舞う。

 君臨するは虎の王。膝をつくは神であった男。

「強い、な。迷いなき、槍、だ。惚れ惚れする」

「いいえ。私は迷ってばかりです。あの男と出会わなければ、私はきっと停滞したままだったでしょう。それなりで満足し、それなりで好しとしたはずです」

 シルヴィは頬を赤らめながら微笑む。それを見て男は奇妙な悔しさを覚えた。今まで女が笑おうが泣こうが気にも留めなかった男が、自分に対する笑みでないのが分かり切っているのに心が揺れてしまった。

「俺の、槍は、強かった、か?」

「ええ。とても」

「そう、か。なら、負けてくれるなよ、誰にも、だ」

「無論! 虎こそが最強ですから!」

(くそ、カッコいいな、畜生)

 崩れ落ちる第二位であった男。最後の最後で彼は神の模倣を超えた。世界で一番美しいと、強いと思った槍に導かれて――

「……敵討ちではありません。ただ、強き者と立ち会って勝利しただけ。ありがとう、名も知れぬ人。貴方のおかげで私の槍は、より強くなった」

 充足に至った男の遺体に自らの上着を被せて虎は祈る。

 唯、ありがとう、と。

「しばしお待ちを。どうしても見ておかねばならぬ闘争があるのです。この私を差し置いて一番を決めようとしている輩が。貴方も許せないでしょう?」

 そして虎は邁進する。彼女は他に愛情の向け方を知らないのだ。抱擁よりも接吻よりも交尾よりも、彼女は槍での語らいこそ至上とする。

 愛するがゆえに戦い続ける。強く成り続ける。

 ただそれだけのことが一人の女を虎にした。

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