夜明けのネーデルクス:彼岸への扉
虎と神の戦いはまさに一進一退の攻防であった。文字通り、攻め手と受け手が交互に入れ替わる攻防をコンプリートした者同士の戦い。本来、受けに難があるはずの虎を用いながらも左右のスイッチと持ち前の柔軟さを生かし補完する。
虎ノ型は攻撃の苛烈さに目が行きがちであるが、その分、どうしても受けが疎かになってしまう難点が付きまとっていた。男にとってそれは妥協であり怠慢、攻めが強いから受けはそれなりで良い、そんな言い訳が槍から透けて見えた。
ゆえに男は自らの狙いを虎にしたのだ。
自らもまた受けよりも攻めの才に恵まれ、受けを軽んじていた時期に停滞を余儀なくされた。しなくていい立ち往生、自分の失敗を後進にして欲しくない。ゆえに誤った槍、弱点の透けた槍を狙ったのだ。繋げさせないために。
だが――
(妥協がない。俊敏に、小刻みに、ステップを、持ち手を切り替えることで受けを水準以上に引き上げてみせた。大したものだ。それでいて――)
この虎はモノが違う。
受けに多くのリソースを割いてなお、攻め手が途切れない。むしろ受けを利用して攻めの強みすら増している。苛烈で、荒々しい中に輝く何か。
「クハッ! この俺に、神の槍以外で、くく、神を魅せるか!」
「神? 虎の方が強いですよ!」
「……頭のリソースまで槍に割いたか、本当に、この女は」
ようやく男は受け入れた。自分が摘もうとした可能性を。
虎の王、その目覚めを。
神は細部に宿る。
妥協無き虎にもまた神が宿っていた。自分たちの槍と同じように。
「イイ感じです。どんどん、アイデアが溢れてくる。今ならば何でも出来る。どこまででも行ける。私の中で何かが――」
蒼き光が零れ出す。
「どんな道筋であっても極めれば辿り着く、そういうことなのか、大先生よ」
唯一の正解。その確信が揺らぐ。同じ槍を得て全員に差があった。もし、正解が一つではないのだとしたら、神の槍が皆にとっての最善でないとしたら、唯一勝てなかったあの男にも勝てる道筋があるのかもしれない。
ゆらり、虎の緩急が、俊敏性が、疾さが、神を超える。
「ッ!?」
男の反応が遅れ、鮮血が舞う。傷はそれほど深くない、が、大事なのは男の反応が意識よりも遅れたこと。虎が、神よりも上のステージに立った。感覚が飲み込まれたのだ。それはあってはならぬこと。神の時を奪うなど――
「この、女ァ!」
神罰を下さねばならない。男の全身から蒼き闘志がみなぎる。
今は可能性よりも勝利が勝る。
「私は女ではありません。シルヴィ・ラ・グディエです!」
「神を、舐めるなッ!」
虎が追い付いてきたからなんだと言うのか、己の槍は神だぞ、とその槍は雄弁に語る。絶対に勝利する、その責務を乗せて神の槍が躍動する。
「ほゥ!」
嬉しそうに笑う虎もまた一段高みへと――
○
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ふざけるのも大概にしてください!」
「なんやの? 別にふざけとらんけど」
ディオンはポカンと小首をかしげる。その所作も女の怒りを誘った。
「ノン! まずそのしゃべり方が気に食わない! 突然、ふざけた訛りでしゃべり始めたと思ったら訳の分からないことばかりつらつらと」
「あー、出てたかー。いやー出ちゃってたかー。恥ずかしいなあもう」
子供の頃に矯正したはずの言葉が自然に出てたことを指摘され、わざとらしく赤面するディオン。案の定、是正してなお女の表情は怒りに満ちている。
「……それはそれで腹が立ちますが。それよりも何よりも、貴方の槍が気に入らない! 不細工で醜いのは百歩譲って認めましょう。美醜は神に選ばれたもの、仕方ない側面はあります。ゆえに、許しましょう。私は寛大ですね!」
「いや、寛大って言うか傲慢だよね」
「神なので傲慢なのは当然でしょうに、何を当たり前のことを」
「ひっでー言い草だねえ」
「とにかく、勝つ気のない槍をやめろと私は言っているのです。受けが上手いのは理解しました。この私が上手いと言ってあげた幸せを噛み締めなさい。その上で、そろそろ攻めてきては如何? 受けるだけでは勝てませんよ」
「ああ、そういうこと」
ディオンは女の言葉を鼻で哂う。
「僕は攻めんよ」
「……ハァ?」
女の怒りはとっくに臨界を超えていた。勝つと豪語した男が端から勝利を放棄していた事実。それが火に油を注ぐ。
「勝利を放棄する、と?」
「そんなこと言ってないけど。あのさ、勘違いしているようだから言っておくけど、僕の勝利条件と君の勝利条件、同じじゃないよね? 君は僕を殺さなきゃいけないみたいだけど、僕は君を殺す理由がない。だから攻める理由がない」
「……三貴士を賭けた一騎打ちであっても?」
「僕が三貴士だもん。挑戦者は君。僕に殺させたいなら理由を作るべきだったね。残念だけど、僕が僕の槍を揺らがせる理由はない。撃退すれば僕の勝ち、お分かり?」
「ノン。分かりたく、ありません!」
女は怒りと共に再度、攻勢に出る。女が怒れる理由、それはディオンの槍が受けに関して言えば神の槍を修める彼女でさえ文句のつけようが無いほど卓越していたから。捌くもよし、弾くもよし、流すもよし、器用に、繊細に、精密に、彼は攻めを全て受け切ってみせる。その巧みさに僅かばかり心を奪われてしまった。
その事実とあまりにもふざけた言い草に彼女は激怒していたのだ。
武人同士の一騎打ち、殺さないとまで言われた屈辱。
「こじ開けて、見せる!」
「根気強いなあ。立派やわぁ」
早速変化する口調。ディオンにとっては無意識である。取り繕う余裕を一切合財消し飛ばさねば神の槍を扱う彼女の攻めは受け切れない。無意識下でディオンはそう判断しているのだろう。事実、全てがギリギリでの受けである。
僅かでも狂えば即死が待つ。
「粘る、なァ!」
「そらこっちのセリフやね」
ありとあらゆる方向から、実に多彩な攻撃が飛んでくる。ここまで厳しい受けを強要されたことは無い。だからこそディオンは感じていた。自分の槍が、攻めという翼を引き千切ったこの槍が、凄まじい速度で成長していることを。
才無く、体無く、それでも天才を追う鬼才は最初で最後の妥協をした。攻めを捨てるという妥協。とても不完全で醜い槍だろう。自分の槍で人を感動させることは出来ない。見る者、戦う者、全てに不快な思いをさせてしまう。
それでもディオンは捨てた。彼らに勝つために。
「間違えたら死んでまうなあ。こわいこわい」
「さっさと死になさい!」
ただし、受けには一切の妥協はしない。攻めを受け続ける覚悟をした。ならば間違えもあり得ない。攻めの間違えは次の攻めで挽回すればいいが、受けの間違えは即死に繋がってしまう。だから間違えられない。
その覚悟がある。だからこそ、捨ててなお輝くのだ。
(何を、見惚れて、くだらない。私は、神の槍を修めし者。攻防に欠陥があってはならない。こんな歪んだ槍になど、負けるわけにはいかない。なのに――)
女は怒りの中に在るもう一つの感情を潰そうとする。
だが、目を向ければ向けるほどに膨らむ、在ってはならない感情。
(なのに何故、私はこの男に神を見る!?)
美しいと思ってしまった。
不完全で歪な様に美しさを見出してしまった。彼女の神が、其処にいた。
それはとても許し難いことであった。許容できない事実であった。
「熱烈やねぇ」
「ノン! これは怒りです!」
「そら知っとるけど」
本来、攻防を高い次元でコンプリートする神の槍。蛇は彼女の槍から受けを奪い取った。攻められなければ受けることは出来ない。攻め続けるしかないのだ。受けしかしない相手には。一見するとやりたい放題だが、その実は極めて不自由。
自分にも相手にも不自由を強いる槍。
鬼才ディオン・ラングレーが辿り着いた蛇蝎の槍。
彼の槍にもまた蒼き光が灯る。暗く、澱んだ色合いではあるが、それでも見る者が見ればその難度、そして覚悟は一目瞭然。
楽な道ではない。最も過酷な道を彼は選んだ。
足りずとも天を目指す道。蛇が天を目指す滑稽なる物語を彼は選び取った。
「まだまだ――」
それが才能の壁を超える最初の扉である。
○
獅子は何かを察知していた。何かが開き、その奥に対峙したことがないほどの深みを、広さを感じた。今の自分でも難しい戦いになる。
「……強い」
「ぬ?」
彼岸の先に何が眠るのか――
○
とある山間の深奥、二人の武人が一人の老人の前で修行に明け暮れていた。片方はかつての技を取り戻すため、もう片方は少しでも追いかけてくる天才どもを突き放すために。共に拳しかない身、負けたくないという想いが爆ぜる。
それをのんびりと眺める老人は静かに視線を別に向ける。
「ほう、またしても彼岸に踏み入った者、か。しかも同時に三人。ふむ、なれば冥府の門とて開こうというもの。かの地はそもそも緩いでな」
「何のお話ですか、老師」
「錆び付いたぬしには関係ない話じゃよ、黒星」
「ロンじい! 俺の技も見てくれよぉ!」
「ぬしはそれ以前の話じゃい」
枯れ枝のような姿。樹木の根に座る男は木の一部にすら見える。髪は真っ青、瞳も蒼く、気配は眼前にいてなお薄い。
まるで空気のような、空の一部であるような男であった。
「今でも思い出す。西の果てに輝いた蒼き星を。散ったと知ってなお、わしはこの地を目指してしもうた。会いたいものじゃて」
開いた何かの先に、いつかいつかと焦がれた気配の匂いがした。
○
「姉さん?」
「……いや、何でもない」
「この前も意識が飛んでたってアテナから聞いたよ。その髪も、そうだ。どうしたって言うんだ。何が姉さんの身に起きている?」
「悪いことではない。何も起きぬよ、私など浅瀬だからな。今、開いた何かの先にいる怪物に比べれば、可愛いものだろう」
美しく鮮烈なる女王アポロニアの髪には不似合いな青色が混じっていた。メドラウトは怖くなってしまう。彼女の気配が年々薄くなっている事実に。まるで空に溶けてなくなりそうな、そんな予感が頭に過る。
「案ずるな。私は逃げぬよ。責務を全うするとも」
その言い方が怖いのだとメドラウトは内心叫び出したい気持ちに駆られていた。
○
「……見切りをつけるのが早過ぎたか。あの老人の言う通り、今しばらく槍のネーデルクスとやらを満喫すべきであったな。まあ過ぎたるは何とやら、だ」
オリフィエルに『負けた』男は少し前に味わった格別の武を噛み締め、イメージの中で味わっていた。勝ち負けはどうでもいいのだ。死なずに五体満足で研鑽を積み、己が極めてしまえばそれで良し。
「さて、まだローレンシアに学び場はあるかどうか」
彼岸の先に男は興味がない。どれだけ極めようとも墓の下では意味が無いから。寸前にて踏みとどまり究極を模索するからこそ武はライフワーク足り得るのだ。
○
「好かった、起きてたんだ」
「当たり前」
「本当は見物がしたかったんだけど、手、まだ失うわけにはいかないんだ」
「あとで打つ。思いっきり打つ」
「分かった。覚悟してるね」
「すぐに準備するから。あと、痛み止めは用意してるけど、それの手術には気休めにもならないと思う。すごく痛い」
「それも覚悟の上だよ」
「二回打つから」
「それは覚悟出来ないなぁ」
イェレナはアルフレッドの治療のためすぐさま準備を始めた。手を再度開き、細かく砕けた骨を取り出し、丁寧に修復していく作業である。根気強く、丁寧にやらねば後遺症が残る。アルフレッドの王道に、まだ手は必要。
「頼むよイェレナ、信頼してる」
「任せて」
ぐっとサムズアップするイェレナを見てアルフレッドは笑みをこぼす。作った笑みではなく、この地上で彼女と騎士王にしか見せられぬ本当の、笑み。
「求道の極み、か。やはり、俺には理解できないな。力にも技にも振り切れることが出来ない俺の道は、結局、早期決着しかないんだろうね」
天才が見た深淵。其処に佇む男を見て、アルフレッドは思った。其処ですら自分の領分ではないことを。なれば、何が最善手か――
○
「……なるほど、かつては居た、か」
二代目剣聖、ギルベルト・フォン・オスヴァルトは剣を引き抜き虚空を前に構えていた。敵などいない。地平の先にはネーデルクスがある。
「嗚呼、だが、今居たとしても、それに何の意味がある? そうだろ、テイラー。振るう者亡き剣にいったい何の価値があるというのだ」
唯一振りの剣。誰一人認識出来ぬまま孤高に立つ最強の剣士。
「早く時よ進め。俺を在るべきところへ連れて行ってくれ」
剣は未だに虚の中に在る。いつか時が望む場所へと連れて行ってくれること信じて。唯一人、剣のアルカディア、技の極みに立ち尽くしていた。
○
彼らが感じた開いた感覚。
それは刹那の間、三つの到達者の意識を飲み込んだ。
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