ドーン・エンド:小さな悲劇たち
最近、僕は夢を見なくなった。
最後に見た夢は旅立ったあの日の夜、一本の杉を前に手と手を取り合って平和を誓っていた二つの民。虚無を前に命を賭して生存圏を取り戻した彼らへの誓い、捧げられた平和を永久に享受する、その願いが其処に在った。
あれは願いだった。もしこれが事実であれば、こんな哀しい歴史があるだろうか。遠い子孫が、特に理由もなく骨肉の争いをして、祈りの地を子供たちの血で汚した。
僕はその光景に涙した。イェレナには驚かれたけど、泣かずにはいられなかった。
あの日から僕は泣いてばかりだ。
甘く見ていたわけではない。しかし、人の想像と言うモノには限界がある。まさか太平の世とされる世界で、こんな景色が広がっていると誰が想像できるか――
国家とは名ばかりの荒くれのモノの群れ。
彼らは境界線であることを良いことに好き勝手していた。ドーン・エンドが台頭したことで沸き上がる戦いの連鎖。ガリアスの、超大国の目と鼻の先で、様々な勢力が生まれ、ぶつかり、消えていく。その度に、
「ママ?」
大地に血がにじむ。
「やめろォ!」
伸ばした手はほんの少しで、届かなかった。何の罪もない母子が死んだ。略奪者である戦士に投げかけた言葉は届かず、結局僕は二人を救えずに、散らす。
アルカスでは、ウルテリオルでは、見えない世界が其処に在った。
ガリアスとて何の対策もしていないわけではない。討伐隊には幾度も出会った。しかし、勢力を潰しても潰しても、別の勢力が生まれて想定外のところで煙が立ち上る。
僕は血が滲むほどの力で剣を握る。
目の前で巻き起こる惨劇。辺境の集落を占拠したドーン・エンドに所属する戦士崩れたち。彼らとガリアス正規軍に挟まれ、逃げることも出来ずにもろとも死んでいく何の罪もない民。
「なんで? あの人たちは悪い人じゃ――」
救うべきはずの軍が救われるべき民を射る。イェレナの言葉は、伸ばした手は、誰にも届かずに虚空を彷徨う。
「今、彼がドーン・エンドじゃないと誰も証明できない。武器を隠し持っているかもしれない。選別には時間がかかる。そんな時間、戦場には無い。だから、まとめて殺すんだ。リスクを避けて、手早く、火種を揉み消す。戦場の、正しさ」
理屈は分かる。何の情も無ければ、盤上の出来事で、彼らが駒であったなら、きっと僕は同じ選択をする。だから僕は何も言えない。理不尽だと、非道なことだと分かっていながら、状況を理解して『正しい』と思えてしまうから、何も言えない。イェレナのように悲しむ資格は、僕には無い。
「へえ、結構冷静だね。手配中の王子にそっくりな坊や」
歴戦の勇士としてはやせ型な将が笑みを浮かべながら近づいてくる。
「お坊ちゃまはドーン・エンドをどう思う?」
「どんな意図があったとしても、太平の世に戦果を撒き散らす悪、です」
「ふーん、ま、僕も立場上、連中を悪として潰しているし、それによって民が巻き込まれても、仕方ないってスタンス。割り切ってるから、どっちを殺すのも慣れたもんさ。嗚呼、でも、たぶん僕らは『あっち』に近いんだろうね」
理解出来ない。ガリアス正規軍の、歴戦の勇士が零した本音が――
「戦士ってのはさ、戦う生き物だから」
アダンと言う名の百将は哀しそうに微笑みながら惨劇を眺めていた。どれだけ斬っても戦乱を求める者たちは消えない。それでも仕事だからと斬り続ける。
「――一つだけ忘れちゃいけない。どこかの誰かさんが無理やり時間を早めて戦乱の世を終わらせた。そのおかげで太平の世は生まれたさ、全体としては良い方向に進んでいるんじゃないか? でもね、無理をしたら歪みってのは必ず生まれるのさ。この景色は、生まれるべくして生まれた。それは、知っておくと良いよ」
彼は僕を知っていた。知っていた上で、忠告をする。綺麗な世界の下にはいつだって、どんな時でも悲劇が広がっているのだと。
「ああ、それと僕らは君を見ていない。エレオノーラ様にばれると面倒だからね。あの人も、君ら親子に関わらなければいい王妃なんだけどさ。ハハ、まあ、彼女も被害者か」
そんなことはどうでも良い。目の前の悲劇をどうにかしたいのに――
たくさんの死を見た。
「何故だ? まだ、生きている人だっているのに!」
死の恐怖に屈し、傭兵たちに自分たちのすべてを捧げる村もあった。食料、金品、村の女、その果ては多くが飢餓状態となった地獄絵図。
「違う。生きているけど、助かる見込みは、薄い」
傭兵たちはすでにこの町から去っていた。
「え?」
理由は――
「もう、あの人たちの大半が、感染しているから」
明白であった。
「かん、せん? あっ、肌に、黒い――」
黒い斑点、治療法は無く神に祈るしかないその証は、死の宣告に等しい。
「近づいたら駄目。症状が見受けられなくても、キャリアではないと証明できないから。だから、全部、まとめて――」
粛々と人の出入りを封じ、餓死者とまだ生きている人々をもろとも燃やした部隊にはバンジャマンという戦士がいた。修羅場をいくつも超えた彼らにとって、この光景はさして珍しいモノではなかったのだろう。
症状が見受けられないからと言って、無事であるという保証はない。先の罪なき民と同様、大丈夫だと証明することが出来ない。この場合はもっと切実であろう。時間をかけてなお、大丈夫だなどと世界一の医家ですら証明出来ていないから。
ゆえにこの処置は正しい。燃える町、人を封じ込め、長物で脱出しようとする人を炎に押し返す作業は極めて合理的で、とても正しいのだ。イェレナも、医者として正しい判断だと言っていた。理解しているのに、わかっているのに、僕は此処でも泣いた。イェレナも泣いた。
「お前たち若者にはわからんだろうがな。俺には、連中の気持ちが少し、わかる」
「この地獄を生んだ彼らのことを、ですか?」
バンジャマンの発言は理解できなかった。
「戦う以外の生き方を知らんのだ。剣一本で生きてきた。その誇りがある。皆が皆、生き方を変えられるほど器用じゃない。俺も、彼らも馬鹿なのだ。馬鹿で不器用、俺はたまたま百将という地位があった。彼らにはなかった。それだけの差だ」
何故、こんな馬鹿な連中に共感を覚えるのか、理解できない。
「それは他者に害して良い理由にはならない」
その誇りとやらは悲劇を振りまいていい理由であろうか。人を殺して良い理由になるだろうか。殺したいのであれば、彼らだけで殺し合えばいいではないか。
何故巻き込む。何故、何故、何故――
「理解できません。理解したくもない」
僕には理解できなかった。
僕たちはガリアスを抜けた。此処に来るまでに何度も聞いた名、ドーン・エンド。気づけば彼らの足跡を辿る旅になっていた。まるで引き寄せられているかのような感覚。この悲劇を生む元凶、病巣を取り除かねばならないと思う。
幾重にも連なる山々のどこかに彼らはいる。ガリアスはそこまで手を伸ばす気はない。何故ならそこは彼らの国境線のほんの少しだけ先だから。ヴァルホールとエスタード、エル・トゥーレが重なる狭間の王国。
「アル! 此処で施術する!」
「わかった。この線から、一歩も彼らを通さない」
旅立ってから、たった三カ月。
僕らは泣かなくなっていた。
「かっこいいセリフと仮面だな、白騎士のつもりかよガキィ!」
「問う。生きて贖うか、戦士として散るか」
「ハッ! 何かっこつけてやが――」
泣けなくなっていた。だってこの世界はあまりにも悲劇が多くて、悲劇を産む彼らは奪うことでしか生きられない。もう、その時代は終わったのに――
「ああ、知っているよ。お前たちが、度し難いほど愚かなのは」
「ボニート!?」
なら、『俺』が終わらせるしかないじゃないか。
「この強さ、こいつが最近噂の、仮面の、騎士――」
「黄金騎士アレクシス!」
殺すことに慣れる気はない。彼らだって同じ人間だ。でも、躊躇って悲劇を広げるくらいなら、俺は俺の責任の中で殺そう。俺は忘れない。ただ一人だって忘れてやるものか。
腕を断ち、武器を奪ってから首を刎ねる。万が一にでも施術の邪魔になる可能性は残さない。たった一人でも救える機会は零してなるものか。
「ばけ、ものめ」
「名は?」
「……ジュードだ。最初に真っ二つにされたのはボニート。景気よく首が飛んで行ったのはアルベロだ。悔いはねえ、こんだけ強い奴に殺されたんだ、本望って――」
「覚えた」
首が舞う。心がずきんと痛むけれど、それで躊躇うことはない。躊躇ったことでこぼした命があった。躊躇いのせいでイェレナに危険を及ぼしたこともあった。
甘さは、悲劇と共に捨てた。
「……ごめんアル。血を、流し過ぎていた」
「そっか。とても、残念だね。……先へ進もう」
「うん、次こそ、救って見せる」
また取りこぼした。全力で止血し、圧迫させながら縫合した後、血濡れの彼女はもう前を向いていた。最初は、震えて泣いていた彼女も、俺と同じで強くなった。
「君は治す。俺は、取り除く。悲劇の、病巣を」
俺は今、仮面の下でどんな表情をしているのだろうか。暴力に対して、日に日に膨れ上がる憎悪。それに対して暴力で返すしか出来ない己への怒り。されど、言葉では何も止められないという諦観。
いったい俺は、今、どんな貌をしているのだろうか。
「進もう。悲劇に巡り合う頻度が上がっている。彼らは、近い」
それでも僕はこんな世界でも見ることが出来てよかった。見ずに、知らずに、世界はそこそこ満たされていると勘違いをしながら漫然と生きるなんて吐き気がする。過去の自分がどれほど愚かであったのか、それがわかったから。
僕の顔を見て、昔の友達は、なんて言うだろうか。少し、哀しく思う。
涙は出ないけれど――
○
「おー、こわいこわい。なんちゅー雰囲気だよ」
まるで不幸を伝うように彼らはあえて地獄へと踏み込んでいく。その背にはかつて見た弱さや脆さは欠片も見受けられない。あの二つの集落で遭遇した時は強がりであることが透けていた。強がりでも有能ゆえ厄介な相手であったが――
「今はもう、俺らじゃ手に負えないな」
一介の戦士ではもはや届かぬ領域に達しつつある。
「ふう、遠目でも擦り減る殺気――」
弓すら届かぬ距離で観察していた戦士たち。察知できるはずの無い距離で、ぎょろり、仮面の下から凄まじい殺気が彼らに向けられていた。
「……くく、憎まれてるねえ。そろそろ戻るか。新しい時代を迎える準備くらいはしとこうぜ。戦士全部を殺し尽くさんばかりの眼、良い戦争になるぞ」
視線が向けられたのは一瞬だけ。そのまま背中は山がちな地形に消えていった。幾度かニアミスし、その度に歪な成長を遂げている若き怪物。
それも二人――
「名乗らせては殺し、敵味方問わず死体を……最近の若い連中は躊躇が無くて嫌になるねえ。もう、踏み出す足に躊躇いは無し、か」
男たちは心する。あの熊殺しを見るまでもない。あの少年は天才だった。立ち姿で分かる。自分たちとは違う人種だと。だからこそ刺激した。甘ったるい夢から引きずり出し、自分たちを終わらせるための極上の刃とするために。
今度もまた見るまでもない。あの少年は、成った。
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