ドーン・エンド:巣立ちの時

 戻ってきたアルフレッドを見てイェレナは呆然と立ちすくむ。たった一晩で一体どれほどの心的圧力を受ければこうなるのだろうか、そう思ってしまうほどに変わり果てた姿であった。頬はこけ、眼は虚ろ、身体からはごっそりと生気が抜けており、土気色の肌はまるで死者のようである。

 イェレナは何度も口を開こうとした。しかし、言葉が出てこない。かけるべき言葉が見つからない。この無力さを、彼女は生涯忘れないだろう。人を癒すべき医者のすべてを駆使しても救えぬモノがある。それを実感した日だから。

「……感謝する。お前は、大した奴だよ」

「……はは、手遅れですよ。どうせ殺すなら、この手段を取って良いなら、いくらでも、集落の誰もが死なぬ道だって、取れたんです。そうしなかったのは僕の選択、一番愚かなのは僕だ。いつも、何をするにも、遅過ぎる!」

 頬に伝う涙。悔しげに顔を歪めるアルフレッドをユランは黙って抱きしめた。

「何かできる気がしてた! 努力して、強くなって、結果も出して、変わった気でいた。そんな馬鹿な自分が許せない! 僕は何一つ変わっていなかった! 余裕のある立場で、わかった風な顔をして、その実僕自身は何も選んでいない! いつもそうなんだ! 僕は、いつも、選ぶのが怖くて、人に擦り付けて、上手く立ち回ったつもりでいる。卑怯で、賢しくて、屑だ。そして、いつも取りこぼす――」

 泣きじゃくる少年は、年相応の弱さを持っていた。それは悪いことではない。当たり前のことなのに、少年の力はそれを許さない。

「人を、殺しました。名前も知らない人を、三人。仕方ないと、それしかないからって、殺しました。助かりたくて、殺しました。次は弓手の四人を。地の利と、弓と矢を奪うために殺しました。次は、足を止めるために一番後ろの人を、最後は――」

 思い出したことで込み上げてきたのか、アルフレッドは少しだけ後退して地面に嘔吐した。何度も、何度も、吐いて、吐いて、その結果が今。吐しゃ物の中には何一つ固形物は混じっていなかった。胃液だけ――頬もこけるはずである。

「イェレナ。あったまるもんを用意してやれ。この前イカリソウを乾燥させたのがあっただろ。それも混ぜてな。細かい調整は好きにしろ。患者を見て、考えろ」

 無言で頷いたイェレナは逃げるようにこの場を去った。

「もう休んでいい。集落にとってこの結果は悪いモノではないさ。傷つかねばわからない、それも人間だ。彼らは学んだ、痛みを。相手方だって無傷じゃなかったんだろ? きっと、平和になる。それを互いが望めば、今日と言う日にも意味があったことになる。お前の頑張りは無駄じゃないさ。彼らはそれを知らずに、恩を仇で返すかもしれない。それでも、俺は忘れないでおいてやる。たった一人で人の悪意に抗ったガキがいたことを」

 ユランは知っていた。一度、踏み込んだ以上彼は戻ってこない。人を殺した者はその大小に限らず業を背負う。一人殺せば一人分の命を。二人殺せば二人分を。三人殺せば――螺旋は地の底へ堕ちていく。

 もはや言葉にもならず泣きわめく少年は、踏み込んでしまった。殺し殺されの世界へ。人は慣れる生き物である。最初は誰もが躊躇する。二度目は少しだけ楽になる。三度目は、四度目は、背負うモノは同じなのに、増えていくばかりなのに、人は慣れ、堕ちる。

(脱臼と同じだな。癖に成ったら、どうしようもない。しないことが一番、しても再発しないよう気を付ける。だが、再発率ってのは高いもんさ。で、癖に成っちまう)

 この少年はどうなるのだろうか。今日と言う日を過ちとして、二度とこうならないようにする。真っ当な道である。こうであって欲しいとユランは願う。しかし、同時に彼がその道を取らない、取れないこともユランは知っていた。

 彼はきっとまた殺す。力のある者の周りには物語が集まってくる。そして物語には生き死にが付き物である。であれば彼はまた同じような、否、もっとおぞましい選択に迫られる時があるだろう。その時、彼が何を選ぶのか、その果てに彼が何を想うのか――

 願わくば、それが優しい解であることを祈る。

(……酷い奴だな、俺は。優しい解ってことは、何物よりも重い解ってことじゃねえか)

 それでも願わずにはいられない。堕ちた獣を見るのは辛いから。

 もう戦乱の世は終わったはずなのに、なぜ人はまだこんな場所にいるのだろうか。ユランは想う。革新とは何と遅々としたものなのか、と。世界はこんなにも遅れていて、人はこうも遠いところにいる。理想郷への道は、夢見るにも遠過ぎた。


     ○


 あれから二日、アルフレッドはユランたちの屋敷で心身を癒した。その間、しつこいくらいにそばで世話をしてくれたイェレナには感謝の気持ちしかない。彼女なりに何も出来なかった分、何かをしたかったのだろう。空回っていたとしても、気持ちだけで充分。

「お、行くのか」

 旅の準備をするアルフレッド。それを見かけたユランが声をかけた。

「はい、本当にお世話になりました」

「達者でな。ん、それは置いてく必要はないぞ。その剣は餞別だ。俺も旅立つ時に護身用として用意したんだが、まあ才能がない。時代も時代だし、そいつは今の俺には無用だろう。もってけ」

 ユランは残酷な選択肢を与えたのかもしれない。刃引きしていない、折れていない剣を持つということは、殺すという選択肢を常に持つこと。彼は選択肢を持てと言っている。その上で、選べとアルフレッドに言っていた。

「……出来るだけ使わない道を、選びます」

 意図を汲みとったアルフレッドは置いて行こうとした剣を手に取った。初めて人を殺めた剣。しっくり馴染む感じが、吐き気を誘う。

「そうか。頑張れよ、アル」

「ユランさんもお元気で」

 少し残酷で、とても優しい辺境の医者、ユラン・キール。

「最後に一つだけ忠告だ。これからお前は、もっと悲惨な光景を目にするだろう。良いか、此処はそれなりに満たされている。彼らの根っこにあったのは退屈と倦怠、戦いという未知への好奇心、そして、どんな人間の中にもある、闘争本能だ。人は争う生き物で、満たされていてなお、それは消えない。わかるな、俺の言いたいことが」

 ユランはこう言っているのだ。では、満たされない、飢えた人間はどれほどに醜いのだろうか、と。人の善性をかき消すほどに飢えた獣、いつかそれを見る覚悟をしておけと言っていた。心せよ、と。まだこれは愚かであっても救いがある物語。

 この世には救いのない物語もあるのだと、その眼は言っていた。

「見てきます。世界を」

「おう、綺麗なもん、汚いもん、全部見てこい。世界は知らないもので満ちているぞ。良いも悪いも、な。だから美しい。俺はそう思っているよ、アル」

 一礼してから歩き出したアルフレッド。力強く、もう自分は大丈夫だと見せつけるように背を伸ばして歩む。心配などさせないように。見ず知らずの自分を助けてくれたお人好しの彼らに一抹の不安すら与えぬように。

 アルフレッドは歩き出した。

「行っちまったぞ。お前はどうする?」

「お医者さんになりたい。全部、治せる、お医者さんに」

 通路の影から現れた彼女は――

「なら、俺といても駄目だぞ。俺は、お前の母さんすら治せなかった。旅の途中も、お前は覚えていないかもしれんが、何度も取りこぼしている。絶望してこんな辺境に逃げ込んだ男だ。わかっているんだろう? 今、お前の歩むべき道が」

 マーシアの瘴気服をまとっていた。それは本来、街から街へ、地獄のような伝染病と戦うために考案された防護服であり旅装束である。それを、彼女は初めて意味ある形でまとっていた。覚悟をもって、その服と共に往くと決めたのだ。

「私は成る。もう、逃げない」

「……そうか。行ってこい。俺も、少ししたら往くさ。ちと休み過ぎたがな」

「じゃあ、競争」

「十年はええよガキ」

 大きな荷物を背負いイェレナもまた揺り籠から飛び出していく。彼はきっとこうやって誰かに影響を与えながら旅を続けるのだろう。良くも悪くも、それが強者の歩む道である。

「さ、て、やるべきことやったら、俺も戦うとするかね」

 医者もまた戦う者である。今はまだイェレナにはわからないだろう。だが、世界を回れば嫌でも理解できる。絶望の数だけ戦いがあることを。


     ○


「……は、は、は、結構、きついな。斜度が、あるんだ。別のルート、ないかな」

 旅立ってから三時間ほど、すでにアルフレッドは体力の限界が来ていた。今まで冷静に考えると旅慣れたアークの歩いた道をついて行ってばかりで、自分で道を選ぶということをしてこなかった。選びながら、間違えながら進むというのはこれほど疲れるものなのかと自嘲するアルフレッド。

「こっちはなだらか。比較的楽」

「そうなの? ありがとうイェレナ……って!?」

「アルは旅が下手。私が教えてあげる」

「いや、でも」

「家出してきた。しばらく帰れない」

「ゆ、ユランさんになんて言えば」

「私は私。旅慣れた私は役に立つ。それでも、嫌?」

 表情は装束のせいで見えないが、それでも彼女がどういう表情をしているのか、一冬過ごせばアルフレッドにもわかる。それに、アークも言っていた。

「旅は道連れ、かあ」

「そうそう。パパも良く言っていた」

 そんなこんなで何故か共に旅をすることになったアルフレッドとイェレナ。向かう先も、目指す先も、何もかもわからない彼らであったが、とにかく前へ進むために一歩を踏み出す。彼らの邂逅、そこに意味が生まれるのはまだ先の話。

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