ドーン・エンド:ウェンカムイ

 一面の雪、山間に降り積もった真っ白な光景に歪な怪物が君臨する。咆哮は雪原を揺らし、乾いた大気はその振動を余すことなく伝えていく。それが人間の生存圏に伝播するのは時間の問題であった。


 一本の大きな杉。その周辺に撒かれた臓腑の『元』を見て一人の村人が嘔吐する。

「……あれか」

 遠目で獲物を捉えながらアルフレッドは構えていた弓を下ろす。人間に根源的な恐怖を与えるフォルム。明らかに平常心を失ったような形相は、飢えだけでは説明がつかないほど醜く歪んでいた。一射で仕留められるか、正直自信はなかった。どちらにせよこの距離では仕留められない。

「ヤツにオラたちの仲間が食われたんだ。許せねえ」

「落ち着いてください。気取られますよ」

「だども!」

 集落の者にとっては、子供の頃から知っている人間を殺されたのだ。それがああも無残に晒されているのでは怒りも収まらないと言うもの。しかし、彼らがその怒りを発散することは不可能に近い。ウサギや鹿とは根本的に違い過ぎる。

 何よりも、あの怪物には人に対して明確な害意があった。

「僕が出ます! 皆さんは、僕がやられそうになったら攻撃してください」

 アルフレッドは少し強い口調で命令する。足を引っ張る要素を抱えたまま、捌ける相手ではないと判断したためである。全身が危険を伝えている。戦うべきでないと本能が告げている。それでも、お世話になっている『彼ら』が集落へ間接的にでも貢献する。その一助になるのならば戦おうと心に決めた。

 ゆえに――

「行きます!」

 すっと、音も無く動き出す。雪が音を吸収してくれるため、通常よりは近づける。ただ、見晴らしの良い位置に熊が陣取っているため、接近できる範囲は限られるだろうが。

 どこまで近づけるか、一射で仕留められる距離を見極める必要がある。

 一発勝負、生死を賭けた戦い。

 この時期に目覚めた熊は獲物不在の山で悪鬼と化す。殺さねば殺されるのだ。

(どこだ、どこまで近づける?)

 心臓が早鐘のようにのたうつ。鼓動が耳にまで届くかのように――

(この『人』が他人で良かった。たぶん、知り合いだったらここまで冷静でいられない)

 何故、冬眠しているはずの熊が人間の生存圏に訪れ、このような凶行に及んでいるのかまではわからない。しかし、人を殺めてしまった以上、人が反撃の弓を放つことを止めることは出来ないだろう。やられて、やり返して、これもまた世の常。

 鮮血、臓物の海はまるで熊のテリトリーであるかのようであった。踏み入った瞬間、これ以上の侵攻は不可能だと理性ではなく本能が判断した。

(これ以上は、無理か。やるぞ!)

 乾坤一擲、全力で弓を引く。狙うは眼、その奥にある脳髄まで突き立つ一撃を見舞う。確実に、精確に、最大の威力を――

「ふっ」

 静かに、その戦いは幕を開けた。

 何かに勘付いたのかピクリと不思議な挙動する熊。しかし、その反応では遅過ぎる。アルフレッドの全力はすでに放たれ、豪速で飛来してくるのだから。

「グルゥグッ!?」

 瞳に突き立った矢。いきなりの敵意に目を白黒させる間もなく、熊は二つある内の一つを失う。深く、深く突き立った矢。いかな人食い熊とて――

「ガァ!」

「ッ!?」

 痛みに悶えることもなく、矢の軌道からアルフレッドを見つけ出し突貫してくる熊。浅い一撃ではなかったはず。少なくとも痛みも示さず臨戦態勢を取って来るとは予想していなかった。それでも、やるべきことは決まっている。

「疾ッ!」

 突っ込んでくる熊に高速で矢を三本連続で叩き込んだ。威力こそ最初の一撃に比べるべくもないが、同じ場所に三本も叩き込まれたならばさすがの熊でも、

「……小動もしないかよ」

 その期待は水泡と化す。アルフレッドは弓を投げ捨てた。四発目、本命であった一撃のみ額で跳ね返した点から見ても、もう一つの方までは取らせてもらえない。であれば遠距離にこだわるのは愚策であろう。

「グガァ!」

「使わせてもらいます。ユランさん」

 借り物の剣で居合いの構えを取るアルフレッド。突貫してくる熊は破壊そのもの。とても人の身で手に負える相手には見えない。実際、腰を落として殴り合えば数秒も持たず死を迎えるだろう。そんなことが出来たら、それは人間ではない。

「グルッ!?」

 奪った方の視界。その死角にすっと潜り込みながら、アルフレッドは剣を放った。動の居合い、初めて直接生き物に『当て』たが、さすがは熊、堅い毛におおわれ、分厚い肉をまとい、骨は鋼が如し。これだけ振り抜いてなお、斬り捨てるにはあまりに遠い。

「視界半分、戦車と魔術師落ち、だ。悪いけど、完封するよ!」

 リュシュアンや多くの剣闘士を撃破し、リオネルまで倒したアルフレッドは自分が思っているよりもずっと強くなっていた。手応えがある。野生相手でも通用する自らの力。思った通りに熊が動く。狙い通りに熊を動かすことが出来る。

 優位が優勢を呼び、続けることで勝勢へと変えていく。

 雪が舞った。爆発でもしたかのように白色が噴き上がる。

「手応え、アリ、だ!」

 熊の絶叫が雪原にこだました。深く腹を裂いた一撃は、震脚から生まれた力を込めた剣。自身の成長が感じられる一撃に自然と頬が緩むアルフレッド。

 まだまだ途上。それでもこの前『本物』を見る機会があった。窮地と引き換えに存分に味わった。知ったなら模倣すればいい。近づき、追いつき、追い越す。途上なれど道は見えた。新たな点を手に入れ、さらなる強さを目指す。

 やはり知らないことを知るのは楽しい。それを手に入れるのは、もっと楽しい。

 アルフレッドは笑う。その爽やかな笑みに含まれた業の自覚は、まだない。


     ○


 集落の皆がいて、アルフレッドが戦っている対面、幾人かの男たちが様子を窺っていた。その眼に浮かぶのは興味であり、好奇心。野生の熊相手にああも単独で戦える人間はそう多くない。彼らも一人一人ではそんな戦い方は出来ないはず。

「いやー大したもんですね。完全に料理したって感じ」

「剣の腕ってだけなら大頭より上だろうな」

「……そりゃあ言い過ぎじゃ」

「なぁに、大した話じゃねえよ。剣の腕は良くても、あれじゃあ締まらねえさ」

 彼らの視線の先では、アルフレッドが勝利を確信した笑みを浮かべていた。それは、あの戦いが試合であったなら正しい確信であっただろう。相手の戦意をくじき、これ以上戦っても無意味な状態にしたら勝ち。わかりやすい話である。

 しかし今は――

「殺し合いで、首落とすまでに油断してちゃあ戦士失格だぜ」

 殺し合いなのだ。片一方が死ぬまで戦いは終わらない。その自覚が薄い。

 だから足元をすくわれる。

 あのように――


「――え?」

 空中を舞うアルフレッド。それを見る村人たちも唖然とするしかなかった。腹を断たれ、臓物が飛び出していた熊が、ほんの一瞬の緩みすらなく、逆に勝利を前に緩んだアルフレッドを体全体で突き飛ばした。

「ガァァァァアアアアッ!」

 吼える熊、その形相を目の当たりにして村人たちは一歩も動けない。怒り、憎しみ、紅く、紅く塗り潰された負の感情が瞳に浮かぶ。

 ほんの一瞬の緩みが勝敗を分ける。生きるか死ぬか、そういう勝負において時折実力に劣る者が勝つのは緩まなかったから。油断せず、勝利のみを追求したから、勝てた。

「…………」

 吹き飛ばされたアルフレッドは、たったの一撃でとてつもないダメージを背負ったことを自覚する。意識があるのも、生きているのも、衝突の最中ギリギリで気づいて、自らが後方へ跳んだことと雪がクッションになってくれたからに過ぎない。

 本当ならあれで死んでいた、最低でも活動停止に追い込まれていただろう。

(……何だろうなあ、この気分は)

 思考はクリアであった。身体は、思うように動いてくれないけれど。それも突然の衝撃とダメージにより驚いているだけ。動けない怪我はしていない。口の中を切った、わき腹に強い衝撃、骨が折れているかもしれない。

(リオネルやリュシュアンさん、他にも大勢、戦ってきた。勝ってきた。その僕が、獣に負けるのか? それで、良いのか?)

 それでも動ける。

(自分でも、わからないんだ。何で僕は――)

 馬力こそリオネルよりあるが、俊敏性反応速度共に比較にするのもおこがましい差があった。出し切れば勝てる相手、自分が引っ張り出すべきモノを引き出してやれば――

(君が何で怒っているのか、わからなくてごめん)

 ダメージを背負いながらもアルフレッドは立ち上がった。仕留めようと襲い来る熊、それに対し少年は剣を構える。双方とも死と隣り合わせ。その環境が、何かを起こすこともある。深く底に沈めていたナニカが、ひょっこり顔を出すこともある。

(君が怒っているのに、どうでも良いと思ってしまってごめんね)

 まるで現実感の無い感覚。一枚の、透明な壁越しに立っているような、不思議な気分であった。目の前で起きている出来事が、他人事のように感じてしまう。

(それにしても、何で僕まで怒っているんだろうか?)

 激情に身を任せて二つの獣が切り結んでいた。生来、食物連鎖の頂点付近で生まれた怪物は、死に至るであろうダメージも無視して襲い掛かる。熊は暴力の化身と言える。対するは劣るスペックをどうにかして補おうと研鑽を重ね継承を繰り返すこと幾たびか――武力の化身此処に在り。

 本能対本能でありながら、力対技でもあるバトル。特にアルフレッドは悪鬼の表情を浮かべながら、人食いの悪鬼と渡り合う。さながら鬼同士の戦い。何がために戦うのか、何のために殺し合うのか、双方とも互いが何に怒っているのか、わからない。

 わかる気も無い。

 一人は大事な子供たちを戯れで殺されたこと。人という種への怒り。一人はアークによって積み上げられた勝利への誇りと矜持、そこに泥を塗られた、塗った気がした。己への怒り。理解などない。言葉もない。

 交わすは互いの刃のみ。

「「ガァァァァアアアアアアアアッ!」」

 嗤い合う悪鬼が二匹。

「……あれは、どっちがばけものだべ?」

 暴も技も、極めた先は常人の埒外。此処にも理解はない。

「……なるほどな。見立て違いだった。あのガキ、殺し合いもいけるクチか」

「うはーベルセルクだぜありゃ。今のヴァイクの連中よりゃよっぽど狂戦士してらあ」

 彼らは知った。目の前の少年が、自分たちと同類であることを。それが正しい見立てであるかは誰にもわかりはしないが――

 ただ――

「終わりだ」

 臓物と血に染まるアルフレッドを見ればわかる。今のあれは触れるべきではない。

「……当てて良いぞ」

「いつだって当てる気ですよっと」

 彼らの長らしき者の命で男は弓を構える。何の躊躇も無く、血濡れのアルフレッド目掛けて放った。彼らの中で最も強い弓を放てる戦士。

 その一撃は――

 まるで獣のような柔軟な動きで回避された。男たちが見たことも無い動き。彼らは知らない。今見せた動きがリオネルと言う怪物が得意とした動きであることを。

「……誰だ?」

「隣の集落で世話になってるもんだ。その一本杉、それよりこっちで見つかった熊なんだよそいつは。俺たちが回収させてもらうぜ。これも、仕事の一部でな」

「今、彼がいるのはこっち側ですよね」

「気が高ぶっていて理解してねえな。個人の話はしてねえよ。集落同士の、面子の話だ。お前は、違うよな? ここの連中みたいな臭いがしねえ。馬鹿で、愚鈍な臭いがよ」

「……何を」

「おーい、隣の連中。あいつらは俺らを雇ったぜ。まあ、短い間だがよろしくしようや」

「ま、まさかあっちの連中、本気でオラたちを。やっぱ許せねえ」

 集落の皆の様子を見てアルフレッドは怪訝な表情をする。彼らは、このガラの悪い傭兵たちを通して遠くを見ていた。遠くへ怒りを感じていた。

「あとな、そりゃあ雌だぜ。ガキをこさえていたからな」

「……彼女が怒っていた理由は、まさか」

「さてな。ご想像にお任せするわ」

 アルフレッドは一瞬、我を忘れかけた。剣を抜きかけて――

「馬鹿が。一回頭冷やせ」

 男の合図で部下が弓を射る。やはり躊躇いなく、その一撃は集落の、若者の額に突き立った。「なっ!?」アルフレッドは熱が冷めていくのを感じた。何が起きたのか理解することも無く、一つの命が消える。

「じゃあな、馬鹿どもとつるんでないで、さっさと元いた場所に戻れよ、ひよっこ」

「お前たちは――」

「傭兵さ、古き時代でしか生きられない、時代遅れの遺物ってな」

 笑いながら彼らは熊を手際よく捌いていく。肉も皮も、無駄になる部位などないとでも言うように。アルフレッドはそれに手は出せない。今、先ほど弓を射た者は下ろしているが、他にも潜んでいないとは限らない。人質がいる。そして余所者である己に、彼らの命を勘定する資格もない。

「今夜は集落の連中も交えて熊鍋だな」

「ひゅー、あったかいもんが食いてえわ」

「だっはっは、ごちそうさん坊主。俺らともいつかは殺し合おうぜ」

 アルフレッドは歯噛みする。何かが起きようとしている。彼らは、振る舞いを見るに一流の戦士。いくら冬であってもこんな場所で雇われるようなレベルではない。何か目的があるのだ。彼らが何を企んでいるのか、今のアルフレッドにはそれを推察する欠片すらなかった。いや、欠片はあったのだ。だが、それはあまりにも小さく――

 『彼ら』を知らぬアルフレッドには想像も出来ないことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る