プレリュード:序章幕引き

 ウィリアムは人通りのない路地を歩む。影が差す道、だれ一人いない場所で――

「白龍、いるか?」

「……ここに」

 現れた男がボロボロで、ウィリアムは噴き出しそうになる。それほどこの男はアルカスにて隙を見せなかった。完璧な暗殺者であったのだ。今は、その面影すら見えないが。

「何があった?」

「大したことは何も。一点報告があるとすれば、黒星が出奔したことだけ」

「なるほど、ある程度察しはつく。あれは暗殺者向きの性質ではあるまい。お前も、だが」

「からかうな。俺とあいつは違う」

「そうか? まあいい。好きにさせよ。元々俺はお前たちを縛る気はない」

「承知した。追手は放たん」

「黒星は何を見て動いたのだろうな」

「一つはレスターとユリシーズ、クロードの戦いだ。俺から見ても三者三様にモノが違う。衝撃だったのだろうな。決定打は、お前にもわかっているだろう。俺たちよりも近くで見たのだから。あれは、どういう生き物だ?」

「……王だ」

 ただ一言、吐き捨てるような言葉で白龍は察した。

 彼は今日、確信したのだろう。自分の脚本を砕いた策謀を、己が天運一つで潰して見せた、その星の姿を、彼は知った。だから、こんなにも機嫌よく見せているのだ。自分が今、心底不機嫌であることを悟られぬために――

「本当に、向いていないな、貴様は」

「だから俺に惚れたんだろう? さっさと行くぞ、今日はどいつもこいつも無駄口が多い」

「ふ、確かに」

 今日、全てが動き出した。もうしばらくすると夜明け、新たな時代の幕が明ける。


     ○


「……アルフレッドが行方不明、か」

 ランベルトは大きく伸びをして呼吸を整える。心地よい緊張感が身を包む。精神状態は至って良好。友人が行方不明と成れば心も乱れようものだが、自分でも驚くほど落ち着いていた。たぶん、相手も同じであるとランベルトは思っている。

「イーリスも心配しているだろうな。だが、今は忘れろ。俺の使命は、功績を上げて少しでも旧オストベルグの民、彼らの役に立つことだ。それが、俺のノブレスオブリージュ」

 パロミデスは静かに立ち上がった。ギュンターと言う武家、高貴な家柄に生まれたものの務め。平時である以上、功績を上げる機会は限られている。

 それが今日であれば、愛する人の気持ちでさえ思考の外。

「よー、パロミデス。長年の雪辱、そろそろまとめてお返しするわ」

 最後の一人、ここで勝ってこその功績。二位と一位では意味合いが違い過ぎる。

「序列は覆らない。今日も、俺が勝つ」

 両者構える。二人とも十代半ば、この世代にしては十二分な力を備えている。素人でさえ、構えの時点で彼らが抜けていることなど見て取れるだろう。

 所詮は児戯、されど児戯でさえ負けていれば先などない。彼らにとって今が大一番なのだ。この先、勝負の場を誰かが用意してくれるとは限らない。

 勝ち取れ、勝利を。掴め、栄光を。

「始め!」

 会場が沸く。若き血潮が燃え盛る。


     ○


 ニコラは頭を抱えながらアルフレッドの書斎、仕事机に書類を並べていた。言われたままの場所には今後、商会がやるべきことが事細かに記載されており、これ通りに進行する手腕さえあればそれなりの金になる業態に出来る。

 ここまで段取りを整えた以上、この仕事は成功するのだ。世にある仕事などほとんどが段取り次第であり、そこさえ十全であれば不測の事態を差し引いてもおつりがくるだろう。手堅く、堅実に、社会インフラを目指す計画書。

 これを作った者はやはり天才で、弱音ばかり吐く裏側でこれだけ大胆な企てを計画していた胆力は詐欺師の領域である。

「……私にやれってこと?」

 問いは宙で霧散し、誰の耳にも入らない。

「イーリス、泣かせてんじゃないわよ。馬鹿」

 たぶん、余程のことがない限りこの手のことでアルフレッドは自分を頼らない。否、自分でなくとも他者に頼るような無責任を彼はしない。であれば想像は容易い、余程のことがあったのだろう。今、イーリスがガードナーとテイラーの人脈を使ってアルカス中を探しているが、おそらく見つかることはない。すでに国外に出ているか、人知れず死んでいるか、それぐらいでなければ彼はきっとこの荷物を他者に預けたりしないだろう。

 わかるから、涙が零れてしまう。

「……私も、馬鹿だ」

 頼られた時、あの夜自分は喜んでしまった。意図を理解しないまま、ただ頼られたことに優越感を感じてしまっていた。ちらりと、イーリスを見た時の顔を覚えている。自分ではなくニコラ、そんな暗い感情が見て取れて、ぞくりとした嫌な高揚感が湧き出たことを覚えている。自分は嫌な女だ、心底、自分が嫌いだとニコラは思う。

 歪な優越感と引き換えに、彼女は大きな後悔を背負う。

 その後悔は、のちに再会した後もついて回ることを今の彼女は知らない。


     ○


 クロード、ラファエル。ベアトリクスの三名は建前の討伐隊を率いてアルカス郊外をくまなく調査していた。さすがにこれだけ時間が経てば発見など難しい。その場に止まるほどレスターも馬鹿ではないだろう。まあ狂人ゆえにその行動は読めないが。

「んで、この惨状を処理しろって? 我らが王様も冗談がきちーぜ」

「……何が野盗だあのくそ白髪男め。どう見ても元正規兵、オストベルグ重装騎兵団だぞ、こいつら。それを、あいつは一人で何十人殺した?」

「矢の刺さり方から見て、あそこのラファエルが悦に浸っているところから射ったんだろうな。やっぱあの人化けもんだわ。日が出てても一射一殺なんて人間業じゃねえってのに、それを月明りだけでやっちまうんだぜ? しかも兜をぶち抜く威力で、これだけの人数が駆け上がるまでの時間で仕留めちまうんだもんなァ。精確、高速、強力、ほんとすげえ」

 ため息が出るほど美しい地獄絵図。それなりに腕の立つ武人ならこの光景を見て昂らないはずがない。完璧と言う言葉がこれほど当てはまる光景もないだろう。

「……まだまだだな、俺ら」

「……貴様だけだへなちょこめ」

「へ、そーかい」

 最近、ベアトリクスと稽古をしていない。そのことに触れようともしないクロード。ベアトリクスもまたその話題を口に出すこともない。もう、彼女とてわかっている。わかっているが認めたくない。だってそれを認めれば――

 クロードとレスターの戦いを見て、ベアトリクスの中で何かが崩れた音がした。この光景を見るクロードの眼を見て、彼女は彼に追いつけないことを知る。

 彼は、この惨状を見てなお追いつけると思っている。憧れているだけのラファエルとも、畏怖してしまっている己とも違う、この眼がベアトリクスは嫌いであった。

 どんどん遠くへ行ってしまう。自分は、ずっと立ち往生したままなのに。

 とっくに横並びの三人組は崩壊していた。彼らはそれを内心わかっていながら、それでも前と同じように振舞い続ける。その歪さが、いずれ道を分けることになるとも知らずに。


     ○


 ウィリアムは第一王子行方不明という報せを聞きながらも、いつも通り黙々と職務をこなし続けていた。朝食の席では誰一人粗を出すことなく、いつも通りの光景が広がり、ウィリアムとクラウディアは笑顔で談笑をかわす等、平穏な風景がそこにあった。

 第一王子が行方知れず、その状況でさえ平穏な空気が流れている王宮は、間違いなく魔窟であろう。魑魅魍魎が跋扈し、誰か平穏を乱す異分子がいれば、気づかぬ内に飲み込まれてしまう。ここにはいつも通りの光景がある。

 いつも通りの魔窟にて皆笑う。その下では常に策謀が巡らされていることも承知の上で。


     ○


「あれ、ミラじゃないか。お久しぶりっす」

 髪を男のように短く切り揃えたミラは、自身も学んだ学校に来ていた。尋ね人は算術や剣や戦術の基礎を教えていた教師のイグナーツ。

「イグナーツ先生。私、どうやったら強くなれますか?」

 自分より遥かに弱いイグナーツへそれを問う。何に縋ってでも彼女は強くなりたいのだとイグナーツは理解した。それはきっとアルフレッドが行方知れずであることに関係している。あえてそれをイグナーツは聞こうとしなかった。

 眼を見れば十分。彼女は戦士になりたいのだろう。大切な人を守るだけの力を求めて。

「そっすね。ちょっと待ってるっすよ」

 何やら奥でごそごそと書き物をしているのか、しばし待つと戻ってきた。その手には一通の封書が握られており、それをミラへ手渡す。

「紹介状っす。自分の知る限り、アルカディアで一番強い剣士が相手をしてくれるはず……粗相はなしっすよ。本来、自分如きじゃ話すことさえためらわれる大貴族で、色々お世話になった人でもあるから、ま、意外と面倒見の良い方だから邪険にはされないと、思うんすけどねえ。たぶん」

 おそらく、そう容易く会える人物ではない。すでに戦場から離れて久しいイグナーツが紹介できる最高の人物の名が其処に在った。

 共に地獄を生き抜いた英雄、ギルベルト・フォン・オスヴァルトへの紹介状。

「ありがとうございます!」

 ミラは深々と頭を下げる。解放奴隷を父に持つミラが頼れる数少ない伝手。

「自分に出来るのは紹介までっすよ。その先は、ミラの此処で惚れさせるっす」

 イグナーツはぽんぽんと腰の剣を叩く。ミラは力強く「はい!」と返事をした。

 早速紹介状を持ってオスヴァルトの屋敷に向かったのだろう。あっという間に姿が見えなくなった。イグナーツはため息をついて広い空を眺めた。

「平和は平和で、色々あるんすよ」

 誰に語り掛けたかわからぬ言葉は陽光に吸い込まれ、そのまま学校前の掃き掃除をのんびりと再開する。今日も今日とていい天気、新しい一歩を踏み出すにはうってつけの日である。

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