プレリュード:黄金の炎

 幾度かの一斉射。たった一人にかける費用としてはあまりに大き過ぎた。歴戦の武人数十と大量の矢。しかし彼らはそれが過剰な用意だったとは思わなくなっていた。

「……執念、か」

 死を前にして人は何とか生きる道を探す。とはいえそれは精神の安定があってこそ。幾度となく死に晒されて、足掻き抜いた今、絶望が前にある。心が折れるには充分過ぎる算段。足掻くのにも精神力が要る。折れて、砕けて、擦り減って――普通なら諦めている。楽に、あっさりと終わらせたいはず。人は楽な方に行く。それが条理で、当たり前なのだ。

 戦士であっても、それは同じこと。まして彼は十代の若者。

「敵ながら――」

「その先は口にするな。奴は仇敵の息子、討つべき対象に過ぎぬ」

「……ハッ」

 異常なのだ。倒れ伏した馬の身体の背にぴたりと張り付き、何とか生き延びているアルフレッドという少年は。確かにベルシュロン種の馬は体躯も大きく、盾には最適かもしれない。だが、弧を描く矢をすべてそれだけで防ぎ切れるわけではないのだ。

 アルフレッドの身体にはすでに何本も矢が突き立っていた。急所に当たる矢は小回りの利く折れた剣で防ぎ、それ以外は妥協する。そうして彼はまだ生きている。いつ死んでもおかしくないこの状況で、詰んでいる状況は変わらないのに、それでも生き抜こうとしている。その執念は、彼らに畏怖を与えるには充分であった。

 仇の一人であるにもかかわらず、畏敬の念まで覚え始めていた。

「距離を保ちながら展開、死角を消して射殺せ」

「……承知!」

 それでも彼らは武人で戦士、今は雇われの傭兵なのだ。やるべきことを違えるほど子供ではないし、為すべきことを忘れるほど胸に宿る黒ずんだ熱情は安くない。

 ゆっくりと展開を開始する陣形。これで詰み。起死回生の一手を打つ可能性すら残さず、彼らは非情に徹し切る。仕事を果たすのみ。

(僕は、死ぬのか)

 少しずつ聞こえてくる死の足音にアルフレッドはとうとう折れてしまった。彼らは間違えない。情に流されない。素人でもわかる一手詰みの局面。足掻く意味もない。そもそもここまで足掻いてきたのも自分の意志とは別の、もっと根深い何かの発露。それすら沈黙したのは完全に詰んだ、と言うことなのだろう。

(何のために生まれて、何のために生きてきたんだろ。こんなところで、何者でもなく、何一つことを成せず、死ぬ。無意味な一生、無意味な存在。嗚呼、言霊ってあるんだね。昔ニコラに言われたっけ、そんなこと言ってたら、本当にそうなるって)

 アルフレッドは幼馴染の顔を思い出して微笑んだ。遠い北方の地にいた頃は、年に数回程度の付き合いだった。それでもあそこでは数少ない友人で、イーリスと一緒によく遊んでいた。結局迷惑ばかりかけて何一つ返せなかったことを、少し悔いる。

 イーリスにも気持ち一つ伝えられなかった。伝えなくてよかったと自嘲する。こんな己のせいで無駄に悩ませたくはない。きっと彼女はパロミデスのような格好良い男と一緒になるべきなのだ。美しい彼女の隣に自分は似合わない。

 次々に知人の顔が浮かんでいく。その度に胸が締め付けられる気分になっていった。ミラは無事だろうか、無事でいて欲しいと心から願う。クロードは心配しているかもしれない。いつだってあの人は兄のように寄り添ってくれた。ベアトリクスもそう。マリアンネだってそうだった。考えれば考えるほどに申し訳なくなってくる。

 嗚呼、自分の周りにはこんなにたくさんの人がいて、こんな自分でも優しく接してくれた。ほんの少し、期待だってしてくれたかもしれない。それなのに、今自分は諦めようとしている。想いを裏切ろうとしている。

(でも、もうどうしようもないんだ)

 もう折れたはずの心。砕けたはずの想い。

『アルフレッド、こっちにいらっしゃい』

 この幻想は偽りであった。愛などなかったはず――

『いつか貴方にも選択の時が来ます。私にも、あの人にも、誰にでもあるその時が』

 でもあの時は母笑っていた。まるで全部見透かしていたように――

『その時、後悔しない方法を教えますね』

 ぎゅっとアルフレッドを抱きしめる母は細くて、脆そうで、涙が零れそうだったのを覚えている。でも、その言葉としぐさには愛があふれていて――

『心に従いなさい。貴方を取り巻く立場も、人間関係も、打算も、理屈も、何もかも無視して、ただ一つ、自分の心の声を聞いて、やりたいように生きるのです。私はこれで幸せになりました。あの人と、アルフレッドと出会うことが出来た。それが、生きるコツですよ。良いですね、これだけは、忘れないで。私の大事な宝物――』

 この後、自分は母の胸の中で寝てしまった。最後の言葉は何だったのだろうか。何か、悲しい言葉だったような気がする。だけど、この部分だけで充分ではないか。

(僕はまだ、やりたいことすら見つけていない)

 母の言葉。優しい忠告。少なくとも自分は母に愛されていた。

(嗚呼、やっぱり、死にたくないなあ)

 折れかけていた心を継いで、接いで、奮い立たせる。このまま死んでは死んだ母に合わせる顔がない。やりたいように生きていない。幸せでもなく死んだ息子を見て、きっと母は悲しんでしまう。それは、嫌だとアルフレッドの心は叫んだ。

(とりあえず、生きたいって心が言っている。それに従おう。抗おう)

 ぎゅっと槍を握る。展開し始めた敵が視界に入ってきた瞬間、飛び出して馬を奪いそのまま逃げ延びる。何と穴だらけな作戦だろうかとアルフレッドは自嘲する。しかし、もうこの手しか残されていない。ストラチェスで言えば詰んだ状況から王を別の詰みに向かわせるだけの無駄手。それでも、こうして諦めて往生するよりも少しは格好がつく。

 生きようとして死んだ。これなら母は褒めてくれるかもしれない。

「来いよ、僕はルトガルド・フォン・リウィウスの息子だ。死ぬ瞬間まで笑ってやる。母上は強い。僕も、強い!」

 決意の言葉を漏らすアルフレッド。その眼には炎が宿っていた。諦めの境地、開き直りかもしれない。それでも彼は前のめりに死ぬことを選んだ。笑って死ぬことを選んだ。

 だからこそその炎は美しく、千里を超えて、万里を超えて、伝わる。


     ○


 ウィリアムは血を吐きながら、弓を引き絞っていた。折れた息子の顔を見て、もはや留め置くのも限界となっていたのだ。愛する女性の残したたった一人の身内。無条件で愛してしまう己の泣き所。あの日々があったから割り切れなかった。

 ローラン・フォン・テイラーは最後に言い残した。

「ルトガルド・フォン・テイラーを侮らない方が良い。彼女の執念は、いつかきっと君に届く。呪いのように、ね。それの名を君が知った時、それは彼女が君に勝利した時だろう」

 嗚呼、確かに自分は彼女に負けた。その名も知った。陳腐だが、確かにそれは呪いのように今もなお自分の心にこびりついている。

 彼女は呪いなのだ。もう一人の彼女と違うのは、彼女が呪いをもう一つ残したこと。形として、自分が死んでなおそこに残るように。

 ウィリアムは嗤う。きっと彼女はこの葛藤すら嬉しく思うのだろう。申し訳なさそうに苦笑しながら、それでも内心は自分の残した欠片に苦しみ悩む姿が嬉しくて仕方がない。だってそれこそが彼女の望んだもので、それのために彼女は死んだのだから。

『撃つ気か!?』

「あれを北方にでも幽閉する。他国の貴族、王家へ婿に出しても良い」

『それは言い訳だよ! 僕は、王はそんなことしない!』

「愚かで、弱い俺を許すな。この一矢、生涯我が傷として残ろう」

『ふざけるなッ!』

 躯たちの咆哮が聞こえる。当たり前だろう。例外を認めるなら、なぜ自分たちは王の例外と成れなかった、例外としてくれなかったと憤慨してしかるべき。ゆえに王は例外を作るべきではないのだ。しかし王とて時には人ゆえに例外を作ってしまう。

 それが凡百の王。今、ウィリアムはただの王に成り下がろうとしている。

 たった一人の犠牲に耐え切れず――

「……俺は――」

 その矢を撃つ瞬間、ウィリアムはアルフレッドの雰囲気が変わるのを感じた。その炎をウィリアムは見たことがある。ローランが、カールが、そしてルトガルドが見せた死の前の、死んだ後にも残る炎。紅く、蒼く、深緑の、炎。

 アルフレッドは――黄金。

「あの炎は消えぬなあ。天命もまた、まるで揺らぐ気配すらないわ!」

 炎に目を奪われていたウィリアムの横を疾風の如し騎馬が横切る。鮮烈で、清涼な輝きを宿す男。老いてなお色褪せぬ不思議な光。

「ガハハ、王の揺らぎが見えた。実に希少、冥途の土産とさせてもらう!」

 一人の騎士が駆け抜けていく。

「『何故、彼が此処に居る?』」

 ウィリアムの茶番をクラウディアが破壊した。これは彼女の脚本の舞台。自分は本来この場で動くことすら出来ぬ役のない演者。だが、彼はそもそも此処に居るはずのない存在。演者ですらない、捜したって見つからない男。

 ウィリアムもアルフレッドを導く存在として彼のことは考えていた。しかし、探す方法も時間もなかった。彼の行方は誰にも知れず、目的すらわからない。否、そもそも目的など彼の中にもないのだ。だから候補から外した。外さざるを得なかった。

「……く、くく、アルフレッドの奴め。持っているな。俺の、あいつの、思惑、想定すら超えるか!」

 ウィリアムは弓を下ろした。自分が茶々入れする必要などなかったのだ。アルフレッドと言う器は自分の引力で起死回生の一手を引き寄せたのだから。

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